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83番 宇和島城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

平安時代、藤原純友の乱がおこると 警固使・橘遠保は宇和島の地に砦を築きました。
鎌倉時代には西園寺公経が宇和島地方を支配下に置くようになり、簡単な城に作り替えました。
この城は丸串城と呼ばれていました。

戦国時代には一時的に家藤監物が城主を務め、大友氏や長宗我部氏の侵攻に耐えますが、監物が去ると再び西園寺氏の宣久の居城となりました。
しかし、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景に攻め落とされ、隆景の所領となりました。
程なくして隆景は筑前国(今の福岡県)に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入ると丸串城には戸田与左衛門が城代としてやってきました。
その後、藤堂高虎が入封すると、高虎は城を大改修するとともに、城名を「宇和島城」と改名しました。

江戸時代に入ると伊勢国(今の三重県)の富田信高が高虎と入れ替わりで入封しますが、すぐに改易となり、代わって伊達政宗の長男・秀宗が入封しました。
秀宗の息子・宗利の代には老朽化した城の改修が行われ、天守も建て替えられました。
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また、宗利は城下に浜御殿を建造し、これを7代藩主・宗紀が庭園として改修して「天赦園」が生まれました。
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宗紀には子がいなかったため、養子を迎えて跡取りとしました。
これが8代藩主・宗城で、宗城は高野長英や大村益次郎などの有能な人物を集め、産業・軍事の近代化を行いました。
この時代に武器庫である山里倉庫が建造されました。
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宗城は、松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに「四賢候」と呼ばれ、幕政にも影響を持つようになりました。

明治に入ると櫓や門などは破却されていきましたが、天守は残りました。
太平洋戦争の時には空襲を受け、大手門が焼失しました。
戦後、昭和24年には伊達家が天守と城山を宇和島市に寄贈し、以後、宇和島城は市の管理下になりました。
昭和41年には山里倉庫が城山郷土館として一般公開されるようになりました。
昭和35年には天守の解体修理が行われました。
この天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り22城
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