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84番 高知城(高知県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、大高坂氏が土佐国の大高坂山に大高坂山城を築きました。
南北朝時代になると、大高坂氏の松王丸は南朝方に付きますが、北朝方に攻め込まれ落城し、松王丸も戦死します。
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戦国時代になると、長宗我部元親が土佐を中心に四国の覇者となります。
しかし、天下統一事業を進める豊臣秀吉の命による四国攻めで降伏し、元親は秀吉に臣従することになりました。
その後、秀吉は島津氏を征服するための九州征伐に乗り出し、元親も従軍します。
そして、九州征伐から帰還した元親は、大高坂山に城を築きました。
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ですが、この城は水はけが悪く、すぐに放棄して浦戸城を築きました。

秀吉は天下統一を成し遂げますが、その秀吉が死ぬと、徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが勃発し、元親の子・盛親は三成方の西軍に付きます。
しかし西軍が敗れると、盛親は家康によって改易されました。

代わりに土佐国にやってきたのは、関ヶ原の戦いに関して功績のあった山内一豊でした。
しかし、長宗我部氏には忠実な家来がたくさんおり、特に半農半兵の一領具足と呼ばれる人たちの山内氏に対する抵抗は激しいものがありました。
一豊はこれらの者たちを鎮圧すると同時に、大高坂山に築城を始めました。
築城の視察の際には、同装束六人衆と呼ばれる影武者を伴っていました。
やがて城が完成し、この城には河中山(こうちやま)城と名付けられました。
そしてこの頃、一領具足の鎮圧も完了し、以後土佐藩では、山内氏譜代の武士は上士、長宗我部氏の遺臣は下士として、武士階級の中にも厳しい身分制度が敷かれるようになりました。

一豊が亡くなると、一豊には実子がいなかったため、甥の忠義が跡を継ぎました。
河中山城はたびたび水害に悩まされてきたため、城の名前が悪いということで、忠義の時代に、高智山城と改名されました。
そしてこれがいつの頃からか「高知城」と呼ばれるようになりました。

享保年間には大火に見舞われ、追手門以外のほとんどの建造物が焼け落ちました。
その後、天守や本丸御殿などが再建されています。
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ペリーの来航から混乱の始まった幕末には、15代・豊信が吉田東洋を起用して開明的な藩政改革を始めます。
豊信は公武合体派で、松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬とともに「四賢候」と呼ばれ、幕政にも影響を持つようになりました。
しかし、井伊直弼による安政の大獄の折、豊信は幕政から失脚し、隠居して容堂と名乗るようになりました。
やがて直弼が桜田門外の変で暗殺されると尊王攘夷派が力を持つようになり、土佐藩でも白札(下士であるが当主だけ上士格)の武市瑞山(半平太)が、下士たちを集め土佐勤王党を結成し、吉田を暗殺して藩の実権を握るようになりました。
ところが、尊王攘夷派の筆頭であった長州藩が京都を追われると、再び公武合体派が力を盛り返し、土佐勤王党は弾圧され、武市も切腹となりました。
しかし、土佐勤王党出身の坂本龍馬や中岡慎太郎、そして上士の後藤象二郎や乾(板垣)退助らの活躍により大政奉還が成り、土佐藩は明治維新の原動力の一角を担うようになっていきました。

明治時代には高知城は廃城となり、高知公園として開放されるようになりました。
太平洋戦争では空襲を受け被害を受けますが、天守、本丸御殿、追手門などは戦火を免れました。
この本丸御殿入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り21城


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