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11番 二本松城(福島県) [日本100名城めぐり]

室町時代、幕府より奥州探題に任命された畠山高国は塩沢・殿地が岡に居を構え、地名を二本松と変えました。
やがて高国の子孫も二本松姓を名乗るようになり、7代・満泰がこの地に二本松城を築きました。
この頃の城は、土塁と堀切で防備を固めていました。
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戦国時代に入ると、伊達政宗の攻撃を受けるようになります。
15代・義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出ました。
義継は輝宗の元に出向くと、輝宗を拉致して二本松城に連れ去ろうとしますが、政宗は輝宗もろとも義継を射殺しました。
そして政宗は二本松攻めを開始します。
二本松氏は義継の子・国王丸を後継に立て籠城し、善戦しますが、最後は開城し、二本松氏は滅びました。
二本松城には伊達氏の城代が置かれますが、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下統一を成すと政宗も秀吉に臣従し、やがて政宗は転封になります。

代わりに蒲生氏郷が会津に転封してきて、二本松城には蒲生氏の城代が置かれます。
これ以降、しばらくの間、会津を治めるものが二本松に城代を置くという形式になりました。
しばらくすると今度は上杉景勝が会津に転封となります。
しかし秀吉の死後、景勝は徳川家康と対立し、この対立が引き金となって関ヶ原の戦いが起こり、敗軍となった上杉氏は会津の所領を没収され、今度は氏郷の子・秀行が会津に入りました。

江戸時代になると蒲生氏は伊予国(今の愛媛県)に転封となり、代わりに加藤嘉明が会津に入りました。
しかしこの加藤氏もやがて改易となり、二本松城には丹羽長秀の子・光重が入りました。
光重は、二本松城を石垣造りの城へと作り変え、天守も建造しました。
この頃には二本松藩は会津藩から独立した存在となりますが、会津藩とは友好関係を結び続けました。

幕末になると、会津藩が京都で治安維持の任務に当たり、尊王攘夷派の取り締まりを行いますが、やがて大政奉還が成ると、反撃に転じた長州藩が、薩摩藩、土佐藩などとともに新政府軍を組織し、東北に攻め上ってきます。
会津藩の友藩の二本松藩も新政府軍に抗して戦いましたが、藩兵の大半が白河口に出向いている隙に二本松城を攻められ、一日の戦闘で落城しました。
このとき、手薄だった二本松では少年兵も多数出兵して戦死し、後に彼らは「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。

明治になると、二本松城は廃城となりました。
しかし昭和57年には箕輪門と附櫓が復元されました。
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昭和53年には、かつて大手門があったところに二本松歴史資料館が建てられました。
また、平成7年には天守台や本丸石垣が整備されました。
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歴史資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り20城


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