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94番 大分府内城(大分県) [日本100名城めぐり]

桃山時代、豊臣秀吉から府内を賜った福原直高が、荷落という地に城を築きました。
「荷落」という地名は縁起が悪いので、「荷揚」と改名され、城の名前も「荷揚城」となりました。
大分の府内にあるので、「大分府内城」とも呼ばれます。

秀吉の死後、石田三成が失脚すると、三成派であった直高は徳川家康によって転封され、代わりにかつて府内の代官であった早川長政が入城しました。
その後、三成が起死回生を狙って関ヶ原の戦いを起こしますが、この戦いで西軍に付いた長政は敗戦後改易となり、代わりに竹中重治(半兵衛)の従弟・竹中重利が入城しました。
重利によって、天守、堀、門、櫓などが整備され、大分府内城は完成します。
しかし、重利の子・重義は、長崎奉行時代の不正をとがめられて切腹となり、竹中氏は改易されてしまいました。
その次に日根野吉明が入城しますが、跡継ぎなく没してしまったため、松平忠昭が入城し、以後江戸時代の間中は松平氏が居城し続けました。

寛保年間には大火により天守が焼失してしまい、今は天守台だけが残っています。
oitafunai1.jpg

明治時代になると、城内に大分県庁がおかれました。
太平洋戦争の時には大分空襲により、櫓数棟が焼失しました。
その後、昭和40年に櫓と大手門が復元されました。
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平成8年には廊下橋が復元されました。
oitafunai3.jpg
この大手門と廊下橋に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り19城

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