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97番 鹿児島城(鹿児島県) [日本100名城めぐり]

上山城
南北朝時代、上山氏が鹿児島に上山城を築きました。
しかし、上山氏はすぐにこの城を撤収して島津氏に明け渡し、その後は永らく放置されることになりました。

伏見城の戦い
安土桃山時代末期、豊臣秀吉の死後に徳川家康と上杉景勝の間で対立が激化すると、家康は家臣の鳥居元忠に伏見城の留守居を任せ、景勝征伐のために会津に向けて出撃しました。
山科まで家康の見送りにやってきた島津義弘は、その時に家康から伏見城守備に加わるよう依頼されました。
義弘は快諾し、国許の兄・義久と子・忠恒に援軍を要請しますが、二人は積極的には動きませんでした。
とりあえずかき集めた200の兵で伏見城に向かったものの、家康からの話が元忠に伝わっておらず、島津隊は入城を拒否されてしまいました。
そうこうしている内に石田三成が挙兵し、4万の軍勢が伏見城に迫ってきました。
進退窮まった義弘は、やむなく石田方に合流することにしました。
そんな時、義弘を慕う甥の豊久が薩摩から駆け付けてきました。
他にも義弘の要請に「個人的に」応えた将兵が集まり、軍勢の数は何とか1000にはなりました。

島津の退き口
関ヶ原に徳川・石田両陣営が集結すると義弘は石田方に参陣しますが、兵力の少ない島津隊は自陣から動かず、攻めてくる敵を撃退することに終始しました。
しかし、戦いは徳川方が半日で圧勝し、気が付けば島津隊は数万の徳川方の軍勢の中で孤立していました。
絶体絶命の状況で義弘が取った決断は、「敵中突破撤退」でした。
島津隊はまず、戦いが終わって気が抜けている福島正則隊に一斉射撃を加えた後、正面突破を敢行しました。
そのまま家康本陣に迫ったところで転進し、伊勢街道を南に向かって走り始めますが、背後から井伊直政、本多忠勝、家康の子・松平忠吉の隊が猛追してきました。
島津隊は「捨て奸(すてがまり)」と名付けられた戦法で追手を振り切ろうとします。
これは、数人の鉄砲兵があぐらをかいて待機し、追ってくる敵将を狙撃してから槍で突撃、全滅したらまた数人の鉄砲兵が同じことを繰り返す、という壮絶な戦法でした。
銃撃で忠勝を落馬させたものの井伊隊、松平隊の追撃の手は止まず、義弘は自刃しようとしますが、豊久は「国家の存亡は(義弘)公の一身にかかれり」と言って、そのまま自ら捨て奸となっていきました。
その後、直政、忠吉にも重傷を負わせたことで追撃の手は止み、戦線離脱に成功した義弘一行は摂津国(今の大阪府)に到着しました。
そこで住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗虎と合流して難波から出航しますが、航行中には黒田の水軍の襲撃も受けました。
宗虎の本国・筑後国(今の福岡県)柳川に到着後、宗虎と別れて陸路を下り、ようやく薩摩に帰還できた時には同行者はわずか80名にまで減っていました。

鬼島津
島津は和平交渉を進める一方で、着々と軍備の増強を進めました。
黒田・加藤・鍋島連合軍が立花をくだした後に3万の軍勢で南下してきましたが、島津にも1万の屈強な兵が温存されていたため、睨合いの状態になりました。
脅しをかけるために薩摩沖航行中の徳川家所有貿易船2隻を沈めると、黒田・加藤・鍋島の軍は撤退していきましたが、防衛態勢強化の必要性を感じた忠恒は、かつて上山城のあった山を「城山」として詰城にし、その麓に本城を築くという構想を打ち立てました。
「海に近すぎて危険である」という義弘の反対もありましたが、それを押し切って忠恒は築城を開始しました。
その後、家康から「義弘の関ヶ原での行動は当主の義久や一族が承認したものではないから、島津家そのものは処分しない」という通達が届きました。
島津家は本領安堵を勝ち取ったこととなり、併せて忠恒への家督継承も承認されました。
やがて完成した城は、「鹿児島城」と名付けられました。
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その後、忠恒は家康から片諱を賜り、「家久」と改名しました。
その後、家久は琉球に兵を送り、占領して属国としました。
やがて家康が駿府で死去しますが、その死の間際に家康は、島津を潰しきれなかった心残りから「自分の遺体は薩摩に向けて葬るように」という遺言を残したと伝えられています。

蘭癖大名
家久の7代後の当主・重豪は蘭学に傾倒し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりするほどでした。
隠居後の晩年もかくしゃくとしていた重豪は、特に曾孫の斉彬をかわいがり、斉彬とともにシーボルトと会見して西洋情勢を聞いたりということもありました。
重豪の3代後に斉彬が当主となると、斉彬は西洋の学問を積極的に取り入れて、藩の富国強兵に取り組みました。
この頃、黒船来航に端を発した幕政の混乱が起こっており、その中で斉彬は、松平慶永(春嶽)、山内豊信(容堂)、伊達宗城とともに「四賢候」と呼ばれ、大きな影響力を発するようになっていきました。
しばらくすると、就任したばかりの14代将軍・家定が病弱で子をなせる見込みがなかったことから、その跡継ぎを巡った対立が起きました。
斉彬ら四賢候は、英名と名高かった一橋徳川家の慶喜を推しており、「一橋派」と呼ばれていました。
また、斉彬は有能な人材の登用に努め、下士階級の西郷隆永(後の隆盛)を「御庭方役」として取り立てました。
さらに、従妹の一を養女に迎えて「篤子」とし、家定の正室として輿入れさせるなどの工作も行いました。
しかし、紀州徳川家の慶福を次期将軍に推す「南紀派」の井伊直弼が大老に就任すると、次期将軍は慶福に決定され、直弼は一橋派と尊王攘夷派の粛清を開始しました。
斉彬は抗議のために5000の兵を率いて上洛しようとしますが、城下で出兵のための練兵を観覧している最中に発病し、志半ばで斃れました。

生麦事件
斉彬の死後は甥の茂久が家督を継ぎますが、その父・久光が「国父」として藩の実権を握りました。
久光は、西郷の幼馴染である大久保利済(後の利通)を「御小納戸役」として取り立てました。
幕府でも家定が死去し、慶福改め家茂が14代将軍となりました。
しばらくして、17名の水戸浪士と1名の薩摩浪士が直弼を急襲し、殺害するという事件が起こりました。
この事件の後、久光は軍勢を率いて江戸に上り、自ら幕政改革を訴えました。
その帰路、久光の大名行列が武蔵国橘樹郡(現在の神奈川県横浜市)生麦村に差し掛かった頃、馬に乗った4名のイギリス人の一行が行列の前に現れました。
行列の供回りたちは下馬して道を譲るように説明しますが、言葉の通じないイギリス人一行は馬に乗ったまま行列の中を逆走してきました。
彼らが久光の駕籠のすぐ近くまで迫ってきたので、供回りたちはやむなく斬りかかり、1名を殺害、2名に重傷を負わせました。

前の浜戦
事件に激怒したイギリス海軍が鹿児島に襲来し、戦争が始まりました。
かつて義弘が案じた通り、海沿いに位置する鹿児島は格好の砲撃の的となりました。
城下の1割が消失し、鹿児島城の櫓も炎上しましたが、斉彬の政策によって強化されていた薩摩軍も決して負けてはおらず、鹿児島湾内に設置された台場の砲台から連日イギリス艦船に対して砲撃を加え、甚大な被害を与えました。
やがてイギリス海軍は横浜に撤退し、戦争は終結しました。
しかし、この戦争がきっかけで薩摩藩とイギリスはお互いを高く評価し合うようになり、やがて直接の交流・交易を行う仲になりました。

西郷どん
やがて、西郷や大久保らが薩摩藩内で大きな力を持つようになりました。
幕府が長州征討を開始すると、薩摩藩は秘密裏に長州藩と同盟を結びました。
この同盟によって薩摩藩は長州藩から米を援助してもらい、代わりにイギリスから購入した武器を長州藩に援助しました。
武装を近代化した長州軍は幕府軍を圧倒するようになり、その最中に幕府では家茂が急死してしまいました。
将軍職を継いだ慶喜が徳川家の力を温存したまま平和裏に幕府を終わらせるために大政奉還を行うと、薩摩・長州は朝廷に働きかけを行って王政復古の大号令を出させました。
西郷は、武力倒幕の口実を作るために薩摩浪士に命じて江戸市中で挑発行為を行わせ、佐幕諸藩によって薩摩藩邸が焼討ちされると京都で軍事行動を開始しました。
この戦いに大勝した新政府軍は東征軍を組織し、西郷がその下参謀の任に就きました。
江戸に進軍した西郷は江城を開城させ、徳川の世に終止符を打ちました。

ボウズヲシサツセヨ
新政府において、西郷は陸軍大将、大久保は大蔵卿として、大きな力を持つようになりました。
大久保の主導で廃藩置県が実施された時は、久光は抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせました。
外務卿・岩倉具視が、欧米列強の視察と不平等条約改正の交渉を目的とした使節団を結成すると、大久保も使節団に入って渡航することになり、西郷らが留守を任されることになりました。
その間に朝鮮との間で国交樹立を巡る摩擦が起こって明治6年に対立が頂点に達すると、参議・板垣(退助)正形の「朝鮮に派兵して武力で開国させるべし」という主張に西郷は反対して、「自分が大使として朝鮮に赴く」と言いました。
この西郷の主張が政府の方針として決定されたものの、岩倉使節団が帰国すると、征韓より優先させることがあると痛感した大久保らの反対によって中止となり、西郷は職を辞して鹿児島に帰りました。
内務卿に就任して絶大な権力を持つようになった大久保は、日本の近代化を推し進めるため、士族の特権を廃止していく政策を次々に実行しました。
維新の立役者でもある鹿児島の士族たちは憤慨しますが、西郷は何とか彼らをなだめようと、私学校を設立して指導・統率していくことにしました。
この頃に、鹿児島城は焼失してしまいました。
明治10年、政府の密偵が鹿児島で捕縛されたことがきっかけとなり、私学校の生徒たちが暴発して政府の火薬庫を襲うという事件が起こりました。
後戻りができなくなったことを悟った西郷は、私学校の生徒たちを率いて挙兵しました。

丁丑戦
行幸で京都に滞在している天皇への奏上を目的に北上した西郷軍は、一時は熊本まで攻め上りますが、やがて体勢を立て直した政府軍により押し返されました。
鹿児島に戻ってきた西郷は、城山に立て籠もりました。
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政府軍との戦闘が始まると、私学校にも多数の銃弾が放たれました。
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1月後、被弾した西郷は自決し、戦争は終結しました。
この戦争を最後に、西日本各地で相次いだ士族の反乱は集結しました。

済世遺言
翌11年5月14日早朝、大久保は霞が関の自邸において福島県令・山吉盛典の訪問を受け、山吉に自らの国家構想を語りました。
それは、明治元年から明治10年までの第1期は兵事が多い創業の時期、11年から20年までの第2期は内治を整え民産を殖する時期であり、自分はこの時期で十分に内務の職を尽くす、そして21年から30年までの第3期は守成の時期で、後進の賢者に継承する、という構想でした。
午前8時頃、大久保は赤坂の東宮御所で天皇に謁見するため、馬車に乗って自邸を出発しました。
書類に目を通しながら30分ほど馬車に揺られていると、にわかに車外で騒動が発生しました。
そして、馬車が急停止したと思った次の瞬間、御者が何者かに斬り殺されました。
襲撃に気付いた大久保は馬車から脱出しようとしますが、目の前に立ち塞がった士族らしき男に腕を掴まれました。
「無礼者」と一喝するもその場で斬りつけられ、さらに複数の襲撃者から幾度も斬り掛かられ、突き刺されました。
馬車から引き摺り下ろされた大久保はよろよろと歩み始めますが、再度斬り掛かられたところで力尽き、最期は喉を刺されて絶命しました。
事件後、血まみれの遺体の懐から一つの袋が発見され、その中には生前の西郷から送られた手紙が大事にしまわれていました。
暗殺の主犯・島田一郎が持参した「斬奸状」には「大久保は不要な土木・建築事業で国費を無駄使いしている」と書かれていましたが、その後、大久保には莫大な借金があることが判明しました。
それは、国費で賄えなかった公共事業を、大久保が私財を注ぎ込んで進めていたからでした。

殖産興業
志半ばで倒れた大久保の意思を継いだ明治政府の政策によって、やがて日本は欧米列強と肩を並べるほどの近代資本主義国家となりました。
明治15年、西郷の叔父・椎原国幹が校長を務める公立鹿児島学校が城跡に移転してきました。
戦後は、昭和27年に鹿児島県立大学の医学部が設置され、大学移転後の昭和58年に鹿児島県歴史資料センター黎明館が開館しました。

100名城制覇まで残り16城

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