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68番 備中松山城(岡山県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、秋葉重信が有漢郷の地頭となり、大松山に砦を築きました。
鎌倉時代の末期には高橋宗康が小松山まで城を拡張しました。

その後、城主は上野氏、庄氏、三村氏と変わっていって、戦国時代の三村元親の時代には一大城砦となりました。
やがて、隣国・備前国の宇喜多直家が攻め込んでくると、元親は迎え撃つために城を出ますが、その間に直家と通じた庄高資・勝資親子に城を乗っ取られてしまいました。
しかし翌年、穂井田元清の協力の元で城を奪還しました。
この頃、中国地方は毛利氏と織田氏による激しい争奪戦が繰り広げられていましたが、元親は毛利氏から離反し織田氏に付きました。
そして三村氏と毛利氏による備中兵乱が置きますが、最終的に毛利方の小早川隆景により城を落とされ、元親は自害しました。

やがて織田信長は本能寺で横死し、後を継いだ豊臣秀吉も死去すると、石田三成と徳川家康の間で関ヶ原の戦いが始まります。
このとき、三成の西軍側の総大将に付いた毛利輝元は敗戦後領土の大半を失い、備中の支配権も失いました。

新たに江戸幕府を開いた家康は、城番として小堀正次を置き、正次亡き後は息子の政一(遠州)が跡を継ぎました。
彼らの時代にも城の修改築は行われました。
しかし、備中兵乱後城は荒廃していたので、政一は城下の頼久寺を仮の館としており、その時に立派な庭園も築きました。
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その後、城主は池田氏、水谷氏と変わっていって、水谷氏2代・勝宗によって天守が建造されました。
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この頃、二重櫓も建造されたと考えられます。
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やがて水谷氏が断絶すると、赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が城を受け取ることになり、家老の大石良雄(内蔵助)が城番となりました。
更にその後も安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり、明治時代に入って勃発した戊辰戦争では無血開城を行いました。

明治時代には城は荒廃していきますが、昭和に入ってから高橋中学校教諭・信野友春が調査を行い、その記録を「備中松山城及其城下」として刊行したことから修復の機運が高まり、高梁町によって修復されました。
平成6年からは、本丸の復元整備が行われました。

天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り11城


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