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72番 郡山城(広島県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、郡山に祇園社(現在の清大社)が建立されました。
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室町時代に、毛利氏が郡山に城を築きました。
地方の小さな大名の毛利氏が築いた城は、砦程度の小さなものでした。
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戦国時代、元就の代に隣国・出雲(今の島根県)の尼子詮久が攻め込んできて吉田郡山城の戦いが起こりました。
元就は徹底した籠城戦法を取り、やがて同盟関係にあった大内義隆から援軍として送られてきた陶隆房により、尼子軍は撃退されました。
この合戦を機に元就は郡山城を大規模な城郭に作り替えました。
本丸には見張り用の櫓も建てられていたようです。
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この頃に元就は、次男・元春を吉川家に、三男・隆景を小早川家に養子として送り込み、やがてこの両者がそれぞれの家を乗っ取る形で家督を継ぎました。
また元就自身も、調略活動に専念するため名目上隠居して家督を長男・隆元に譲り、これによって兄弟3人が支え合う「毛利両川体制」が出来上がりました。

しばらくすると、隆房は下克上を起こして義隆を自害に追い込み、大内氏を乗っ取ると、晴賢と改名しました。
毛利氏は厳島の戦いで晴賢を討ち、旧大内領を獲得することになりました。
その後、毛利氏は仇敵・尼子氏の攻略に取り掛かりますが、その途上で隆元が急死します。
隆元の死後はその子・輝元が家督を継ぎますが、やがて尼子氏を滅亡させることに成功し、大内氏、尼子氏という強大な勢力に挟まれた弱小大名であった毛利氏は、一躍中国地方に覇を唱える大大名となりました。
そして、元就はその生涯を終えます。

さて、この頃から天下布武を掲げる織田信長が急速に勢力を伸ばしてきます。
信長から送り込まれた羽柴秀吉は、毛利支配地域を次々に攻略し、中国地方の覇者であった毛利氏は瞬く間に滅亡の危機に瀕していきました。
清水宗治が守る備中高松城が攻められた時に、元春と隆景は援軍として駆け付けますが、これに対して秀吉は城を水攻めにする一方で、最後の仕上げとして信長に親征要請を出し、信長もその要請に応えて安土城を出陣しました。

しばらくして、突然秀吉から、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊に呼び出しがかかりました。
羽柴陣営に赴いた恵瓊は、そこで秀吉の参謀・黒田孝高(官兵衛)から、講和を持ち掛けられました。
その講和の条件が、秀吉側が大幅に譲歩するような内容であったため、恵瓊はその条件をのみ、講和が成立しました。
講和が成立すると羽柴軍は即座に撤退を始めましたが、その後、中国に向かっていた信長が京で本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に急襲されて死亡していたという知らせが届きました。
この知らせを聞き、元春は羽柴軍の追撃を主張しましたが、隆景が強く反対したので、結局秀吉を見逃すことにしました。
やがて秀吉は「中国大返し」と呼ばれる強行軍の末、山崎の戦いで光秀を討つことに成功しました。

これにより信長亡き後の主導権を握ることに成功したことで、羽柴改め豊臣秀吉は天下人となりますが、秀吉に恩を売った形になった毛利氏はそこで重く用いられることとなって、輝元も五大老の一人となりました。
やがて輝元は広島城を築城してそちらに移動したので、郡山城は毛利氏の本城としての役割を終えましたが、一応城としては残っていました。
ところが江戸時代に島原の乱がおこると、キリシタンの決起を警戒した幕府によって、石垣や堀なども破却されました。

幕末には、広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、郡山城の麓に吉田陣屋がおかれましたが、明治時代に廃されました。

昭和15年に国の史跡に指定されました。

安芸高田市吉田歴史民俗資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り6城。


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