66番 津和野城(島根県) [日本100名城めぐり]
鎌倉時代、元寇の翌年に吉見頼行が蒙古の再襲来に備えて西石見地方の地頭として赴任し、館を建てました。
やがて頼行は三本松城の築城を開始し、頼行の子・頼直の代に完成しました。
戦国時代には吉見氏は大内氏の家臣となり、吉見正頼は大内義隆の姉を正室としていましたが、大寧寺の変で義隆が家臣の陶隆房に討たれました。
隆房は大内氏を乗っ取ると、晴賢と改名しました。
正頼は晴賢に対して挙兵、それに応戦する形で晴賢が三本松城に攻め込み、三本松城の戦いが起こりました。
籠城戦が続きましたが、その間に大内氏と同盟関係であった毛利元就が隣国・安芸(今の広島県)を掌握し、これで苦境に陥った晴賢は撤退しました。
やがて元就は厳島の戦いで晴賢を討ち滅ぼし、正頼は毛利氏の傘下に入りました。
桃山時代末期、関ヶ原の戦いで元就の孫・輝元を総大将とする西軍が徳川家康を総大将とする東軍に敗北し、毛利氏の所領が減らされると、吉見氏も三本松城を退去し、萩に移ります。
そして江戸時代、代わって坂崎直盛が入り、石垣を多用し天守も備えた近世城郭に作り替えられました。
この頃から「津和野城」と呼ばれるようになります。
直盛は大坂夏の陣に従軍し、落城の際に家康の孫で豊臣秀頼の妻であった千姫を救出しました。
直盛は千姫の身の振り方を家康より依頼され、縁組の段階まで話を進めていたのですが、突然別のところで本多忠刻との縁組が決まってしまいました。
そこで面目を潰された直盛は千姫奪回計画を立てましたが、これが幕府に露見し、直盛は自害することになってしまいました。
千姫事件です。
これで坂崎氏は断絶となり、代わって亀井政矩が入りました。
亀井氏によって山麓の居館や城下町が整備されましたが、貞享年間に落雷で火災が発生し、この時に天守も焼け落ちてしまいました。
幕末には藩邸や周りの櫓が焼失しましたが、いくつかの櫓は再建されました。
この頃に、藩校養老館も移転拡張されました。
この養老館からは、文豪・森鴎外や哲学者・西周が輩出されました。
明治時代になると廃城となり、山上の建物は解体されました。
昭和時代に国の史跡となり、昭和46年に山上への観光リフトが完成しました。
このリフト乗り場に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り4城。
やがて頼行は三本松城の築城を開始し、頼行の子・頼直の代に完成しました。
戦国時代には吉見氏は大内氏の家臣となり、吉見正頼は大内義隆の姉を正室としていましたが、大寧寺の変で義隆が家臣の陶隆房に討たれました。
隆房は大内氏を乗っ取ると、晴賢と改名しました。
正頼は晴賢に対して挙兵、それに応戦する形で晴賢が三本松城に攻め込み、三本松城の戦いが起こりました。
籠城戦が続きましたが、その間に大内氏と同盟関係であった毛利元就が隣国・安芸(今の広島県)を掌握し、これで苦境に陥った晴賢は撤退しました。
やがて元就は厳島の戦いで晴賢を討ち滅ぼし、正頼は毛利氏の傘下に入りました。
桃山時代末期、関ヶ原の戦いで元就の孫・輝元を総大将とする西軍が徳川家康を総大将とする東軍に敗北し、毛利氏の所領が減らされると、吉見氏も三本松城を退去し、萩に移ります。
そして江戸時代、代わって坂崎直盛が入り、石垣を多用し天守も備えた近世城郭に作り替えられました。
この頃から「津和野城」と呼ばれるようになります。
直盛は大坂夏の陣に従軍し、落城の際に家康の孫で豊臣秀頼の妻であった千姫を救出しました。
直盛は千姫の身の振り方を家康より依頼され、縁組の段階まで話を進めていたのですが、突然別のところで本多忠刻との縁組が決まってしまいました。
そこで面目を潰された直盛は千姫奪回計画を立てましたが、これが幕府に露見し、直盛は自害することになってしまいました。
千姫事件です。
これで坂崎氏は断絶となり、代わって亀井政矩が入りました。
亀井氏によって山麓の居館や城下町が整備されましたが、貞享年間に落雷で火災が発生し、この時に天守も焼け落ちてしまいました。
幕末には藩邸や周りの櫓が焼失しましたが、いくつかの櫓は再建されました。
この頃に、藩校養老館も移転拡張されました。
この養老館からは、文豪・森鴎外や哲学者・西周が輩出されました。
明治時代になると廃城となり、山上の建物は解体されました。
昭和時代に国の史跡となり、昭和46年に山上への観光リフトが完成しました。
このリフト乗り場に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り4城。
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