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目次 [日本100名城めぐり]

北海道・東北
1 根室半島チャシ跡群(北海道)
2 五稜郭(北海道)
3 松前城(北海道)
4 弘前城(青森県)
5 根城(青森県)
6 盛岡城(岩手県)
7 多賀城(宮城県)
8 仙台城(宮城県)
9 久保田城(秋田県)
10 山形城(山形県)
11 二本松城(福島県)
12 会津若松城(福島県)
13 白河小峰城(福島県)

関東・甲信越
14 水戸城(茨城県)
15 足利氏館(栃木県)
16 箕輪城(群馬県)
17 金山城(群馬県)
18 鉢形城(埼玉県)
19 川越城(埼玉県)
20 佐倉城(千葉県)
21 江戸城(東京都)
22 八王子城(東京都)
23 小田原城(神奈川県)
24 武田氏館(山梨県)
25 甲府城(山梨県)
26 松代城(長野県)
27 上田城(長野県)
28 小諸城(長野県)
29 松本城(長野県)
30 高遠城(長野県)
31 新発田城(新潟県)
32 春日山城(新潟県)

北陸・東海
33 高岡城(富山県)
34 七尾城(石川県)
35 金沢城(石川県)
36 丸岡城(福井県)
37 一乗谷城(福井県)
38 岩村城(岐阜県)
39 岐阜城(岐阜県)
40 山中城(静岡県)
41 駿府城(静岡県)
42 掛川城(静岡県)
43 犬山城(愛知県)
44 名古屋城(愛知県)
45 岡崎城(愛知県)
46 長篠城(愛知県)
47 伊賀上野城(三重県)
48 松阪城(三重県)

近畿
49 小谷城(滋賀県)
50 彦根城(滋賀県)
51 安土城(滋賀県)
52 観音寺城(滋賀県)
53 二条城(京都府)
54 大阪城(大阪府)
55 千早城(大阪府)
56 竹田城(兵庫県)
57 篠山城(兵庫県)
58 明石城(兵庫県)
59 姫路城(兵庫県)
60 赤穂城(兵庫県)
61 高取城(奈良県)
62 和歌山城(和歌山県)

中国・四国
63 鳥取城(鳥取県)
64 松江城(島根県)
65 月山富田城(島根県)
66 津和野城(島根県)
67 津山城(岡山県)
68 備中松山城(岡山県)
69 鬼ノ城(岡山県)
70 岡山城(岡山県)
71 福山城(広島県)
72 郡山城(広島県)
73 広島城(広島県)
74 岩国城(山口県)
75 萩城(山口県)
76 徳島城(徳島県)
77 高松城(香川県)
78 丸亀城(香川県)
79 今治城(愛媛県)
80 湯築城(愛媛県)
81 松山城(愛媛県)
82 大洲城(愛媛県)
83 宇和島城(愛媛県)
84 高知城(高知県)

九州・沖縄
85 福岡城(福岡県)
86 大野城(福岡県)
87 名護屋城(佐賀県)
88 吉野ヶ里(佐賀県)
89 佐賀城(佐賀県)
90 平戸城(長崎県)
91 島原城(長崎県)
92 熊本城(熊本県)
93 人吉城(熊本県)
94 大分府内城(大分県)
95 岡城(大分県)
96 飫肥城(宮崎県)
97 鹿児島城(鹿児島県)
98 今帰仁城(沖縄県)
99 中城城(沖縄県)
100 首里城(沖縄県)

ベターッと開脚

空手を始めてもう20年近くになるのですが、一つ大きな悩み事があります。

私は子供の頃からとにかく体が硬く、よく股割りで胸をベターッと床に着けている人がいますが、私の場合は上体が全く倒れないし、そもそも脚が90度も開かないというような体たらくです。
股割り器具を買って風呂上がりにストレッチをしたりとかもしていましたが、いまいち効果は上がらず・・・

当然、上段蹴りはまともにできません。
古流の空手には「帯より上は蹴るな」という教えがあり、じゃあ別に上段蹴りなんかできなくてもいいじゃんという言い訳にしていましたが、近年は子供たちに空手を教えているということもあり、さすがにこれでは示しがつかないなあと思ってました。

そんな時に、同じ道場に通っている方から、こんな本を紹介してもらいました。


どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法

どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法

  • 作者: Eiko
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2016/04/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法

どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法

  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2016/04/27
  • メディア: Kindle版



最近出たばかりの本なのですが、youtubeで話題になっているヨガインストラクターの方が執筆した本で、どんなに硬い人でもこの本の通りにやれば4週間で股割りができるようになるそうです。
本当だろうか?

まあでも、とにかくやってみようということで、早速本を購入して始めてみました。
効果の程は、また続報で!

旅の終わり [日本100名城めぐり]

日本100名城、5年半の歳月をかけて完全制覇しました。
達成感と、燃え尽き感の両方を感じています。

佐賀市出張のついでに行った佐賀城からスタートしたのですが、あのときはまさか全城制覇する日が来るとは夢にも思いませんでした。
城と一口に言ってもいろいろあって、立派な天守が現存しているところもあれば、石垣だけが残っているところもあり、また、石垣すらなくひたすら山を登って堀切や土塁を見学するだけのところもありました。
特に山城は過酷で、スタンプを集めるだけなら麓の施設で押せばいいだけなのですが、できれば全城域を回る、最低でも本丸には行くというルールを課していました。
高取城と千早城は二日で二山登ったので脚がおかしくなったし、さらに安土城と観音寺城は一日で二山登りました。
郡山城では道を見失って遭難しかけました。

交通手段もいろいろと体験しました。
高遠城に行ったときは飯田線を縦断して秘境を目の当たりにし、松前城に行ったときは青函トンネルをくぐり、四国や九州の城には大阪や神戸からフェリーに乗って弾丸船旅をしました。
乗りはしなかったのですが、津和野と人吉ではSLを見ました。

城には一つ一つ歴史があって、その歴史を自分で撮った写真を交えて紹介しようと思い、ブログで連載を始めました。
記事を書いていると、例えば武田氏館の記事を書いているときは武田信玄に感情移入するし、春日山城の記事を書いているときは上杉謙信に感情移入する、岡崎城、駿府城、江戸城の記事を書くときは徳川氏に、大阪城の記事を書くときは豊臣氏に。
同じように、彦根城の記事を書くときは井伊直弼に、水戸城の記事を書くときは水戸浪士たちに、会津若松城の記事を書くときは会津藩に、萩城の記事を書くときは長州藩に感情移入という感じで、戦争や対立には常に、双方がそれぞれの立場や信念を持っている、その双方の信念を理解することが大切ということがよく分かりました。

各城の城下町では、歴史に名を遺した人物を輩出しているところもあり、その人生を垣間見ることもできました。
華々しい業績を残す前に不遇の時期を過ごしていた人もいますし、大仕事を成した後で非業の最期を遂げた人もいます。
もちろん、戦場で散っていった名もなき兵士もいます。
そういうのにも想いをはせるようになりました。

・・・というわけで、この連載もこれでおしまいです。
読んで下さった皆様、ありがとうございました。

そう言えば、5年半前の自分、一番最初の記事で
「100の城にはそれぞれスタンプが置いてあって、そのスタンプをすべて集めるとどんな願いでも一つだけ叶えてくれるとかなんとか・・・」
とか書いていますが、叶うんですかね?


1番 根室半島チャシ跡群(北海道) [日本100名城めぐり]

日本が古墳時代だった頃、アイヌモシリ(現在の北海道と樺太、千島列島)に住んでいたアイヌは狩猟を中心とした、オホーツク文化の影響下にありました。
この頃、アイヌは竪穴式の住居を使用していました。
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やがて擦文文化時代を経て、アイヌ文化時代に入りました。
日本が戦国時代だった頃に近世アイヌ文化時代に入り、アイヌたちは「チャシ」という施設を各地に造り出しました。
最初は聖域として設けられたものでしたが、やがてアイヌ同士のチャランケ(アイヌ社会における裁判のようなもの)の場という色合いが強くなってきました。

アイヌは和人(大和民族)と交易を行っていましたが、日本が江戸時代に入ると、アイヌとの交易は松前藩が独占するようになりました。
これが段々アイヌにとって不平等なものになってくると、寛文年間にメナシクル(東蝦夷地)の首長・シャクシャインが多くのアイヌ部族を率いて一斉蜂起を起こしました。
この頃に、現在の根室地方など、シャクシャインの勢力下にあったメナシクルに軍事施設として大量にチャシが造られました。
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この反乱は幕府や東北諸藩の支援を受けた松前藩によって鎮圧されましたが、これ以降松前藩の支配はさらに強まり、アイヌは強制労働者になっていきました。
これに対して寛政年間にクナシリとメナシのアイヌたちが蜂起し、和人71人を殺害しました。
この蜂起も松前藩によって鎮圧され、37人のアイヌが処刑されました。
その直後、根室にロシア使節ラクスマンが通商を求めて来航しました。

文化年間には、クナシリ・メナシの戦いで亡くなった和人の墓碑が建立されました。
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明治時代に入ると、明治政府の同化政策により徐々にアイヌ独特の文化は失われていき、チャシも消えていきました。
昭和時代にこのチャシの研究が行われるようになり、根室半島を初め、多くのチャシ跡が発掘・整備されています。
根室市歴史と自然の資料館、根室駅観光案内所、納沙布岬の根室市観光物産センターに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇!


93番 人吉城(熊本県) [日本100名城めぐり]

平安時代、肥後国人吉荘は平氏一門の矢瀬氏が城を築いて支配していました。
しかし源氏によって平氏が滅ぼされ、鎌倉時代が始まると、相良長頼が将軍・頼朝によりこの地の地頭に任じられました。
長頼は矢瀬氏の主馬佑を謀殺し、この地に人吉城を築きました。

戦国時代には相良氏は次々と領土を拡張していきました。
相良氏の中で家督問題が生じたときには、隣国日向国(今の宮崎県)から北原氏が攻め込んできて人吉城を取り囲みますが、相良氏を相続した義滋はこれを撃退します。

その後、19代・義陽が人吉城の改修に取り掛かり、江戸時代の22代・頼寛までの間に近世城郭として作り替えられました。
ただし、本丸には天守は築かれませんでした。
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文久年間に城下町で寅助火事と呼ばれる大火が発生し、これが城にも飛び火して、全焼してしまいました。
その後一部の建物が再建されましたが、この時に防火対策として石垣上部に西洋式の武者返しが設置されました。
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明治時代には、人吉城は廃城となりました。
その後、西郷隆盛が西南戦争を起こすと、西郷軍は人吉を経て熊本に進軍します。
しかし政府軍により撃退されると、人吉まで撤退して人吉城に立て籠もります。
この時、西郷は城下の永国寺に本陣を置きました。
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人吉城は戦場となり、再建された建物もほとんどが焼け落ちてしまいました。
やがて西郷軍は敗北し鹿児島まで撤退して、そこで鎮圧されました。

その後、城跡は人吉城公園として整備されました。
平成時代には櫓や塀などが復元されました。
平成17年にはかつて家老・相良清兵衛の屋敷があったところに、人吉城歴史館が開館しました。
この歴史館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り1城。

90番 平戸城(長崎県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代より、平戸の地は松浦氏が治めていました。
戦国時代には、ポルトガルからフランシスコ・ザビエルが来航し、キリスト教を伝えました。
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桃山時代、松浦氏の鎮信(法印)は豊臣秀吉と親交を厚く持ち、朝鮮出兵から帰ると亀岡に日之嶽城を築城しました。
秀吉が死に、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して江戸時代が始まると、平戸にはオランダやイギリスも来航し、通商が始まって、松浦氏は大いに栄えました。
しかし、豊臣氏と関係が深かった松浦氏は幕府から警戒されており、鎮信(法印)の孫の隆信は、家康の猜疑心をかわすために日之嶽城を焼き払ってしまいました。
そして3代将軍・家光によって鎖国が始まると、平戸は海外交易の地ではなくなってしまいました。

元禄年間に、4代藩主・鎮信(天祥)は幕府に築城を願い出ました。
幕府も東シナ海警備の必要性を感じていたためこの願い出は受理され、亀岡に再び城が築かれました。
山鹿流軍学に基づいて築かれたこの城が、平戸城です。
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この城には、天守は建てられませんでした。

明治時代には廃城となり、多くの建造物は破却されました。
昭和37年に模擬天守が建てられ、また、いくつかの櫓が復元されました。
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天守内に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り2城。

75番 萩城(山口県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、津和野の三本松城主・吉見氏が萩の指月山に出城を構えました。

桃山時代には吉見氏の正頼の隠棲所となっていましたが、関ヶ原の戦いで正頼の主君・毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられてしまった挙句、西軍が敗北してしまいました。
輝元の従弟・吉川広家が徳川家康に内通しており、毛利軍も戦闘には参加しなかったので毛利家の本領は安堵される予定だったのですが、突如として反故にされてしまい、中国地方に広大な領土を持っていた毛利家は、周防・長門の2ヶ国(長州)のみに減封されてしまいました。
広島を失った輝元は、萩、山口、三田尻の3ヶ所を候補に新城の築城を幕府に願い出、その中で一番僻地である萩での築城が許可されました。
輝元は指月山を城地と定め、山頂の詰丸と、山麓の平城からなる城の築城を開始しました。
築城中に五郎太石事件という騒動も起こりましたが、城は完成しました。
山麓には天守も築かれましたが、現在は天守台のみが残っております。
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その後、毛利家は徳川に対する恨みを代々伝承し続けつつ、萩を藩庁として長州を統治しました。

幕末、萩城下で杉家という家に寅之助という子が生まれます。
寅之助はやがて吉田家の養子となり、寅次郎と名乗るようになります。
寅次郎は兵学家として藩校・明倫館で教鞭をとるようになり、藩主・敬親の評価も高く、桂小五郎(後の木戸孝允)らも教えを受けます。
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その後寅次郎は江戸に留学して佐久間象山の教えを受けるようになりますが、折しもこの時、アメリカから開国を求めてペリーの黒船艦隊が来航しました。
寅次郎はアメリカへの密航を企てて黒船に乗り込みますが、密航に失敗し、幕府に出頭して萩に送り返されます。
萩ではしばらく野山獄に幽閉されますが、後に出獄し、杉家に幽閉されることになりました。
やがて寅次郎は杉家の敷地の中で私塾「松下村塾」を開き「松陰」と名乗るようになりました。
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この松下村塾では、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤利助(後の博文)、前原一誠らが学びました。
しかし、幕府が日米修好通商条約を結ぶと、これに憤った松陰は老中首座・間部詮勝の暗殺を計画しますが、無謀な計画は頓挫し松陰は再び幽閉、そして安政の大獄で処刑されてしまいます。

その後、敬親は山口に山口城を築城して藩庁を移し、萩は一旦藩庁としての役目を終えました。
やがて攘夷論が強くなった長州藩では、久坂らが力を持つようになってきて、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ相手に下関戦争を起こしたりしますが、久坂は京都で起こした禁門の変で敗れ、自害します。
これをきっかけに幕府は長州に対して征討軍を送り、第一次長州征討が始まります。
これで長州内では幕府恭順派が実権を握り、長州藩は降伏します。
この条件として、長州藩は山口城を破却し、敬親は再び萩城に戻ることになりました。

しかし、高杉が奇兵隊を率いて伊藤らとともに功山寺挙兵を起こし、萩城に攻め上りました。
このクーデターは成功し、長州藩内では再び主戦派が実権を握ります。
そして、第二次長州征討では高杉らの活躍によって長州藩が勝利を治めます。
その直後、高杉は結核で死去します。

更に、長州藩は桂を代表として土佐藩の坂本龍馬の仲介で仇敵であった薩摩藩と同盟を結びました。
この薩長同盟後、長州藩の藩庁は再び山口に戻りました。

そして、長州は薩摩とともに討幕に成功し、時代は明治へと移り変わります。
明治時代に入ると、萩城は廃城となり、天守、櫓などは取り壊されました。
桂改め木戸、伊藤、前原らは新政府の中で要職を務めますが、前原は木戸の唱える国民皆兵路線に反対して対立、萩に下野します。
その後、熊本や福岡で士族の反乱が相次いで起こると、それに呼応して萩の乱を起こします。
しかしすぐに鎮圧され、前原は処刑されます。
その後、木戸も病気でこの世を去ります。
やがて日本は近代国家として発展を遂げ、伊藤は初代内閣総理大臣になりましたが、その後韓国統監を務めている時にハルビンで暗殺されました。

平成時代になると、堀や石垣・門の復元・保存を行う事業が開始されました。
そして平成27年、 ユネスコの世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして登録されました。

城の本丸入口に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り3城。


66番 津和野城(島根県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、元寇の翌年に吉見頼行が蒙古の再襲来に備えて西石見地方の地頭として赴任し、館を建てました。
やがて頼行は三本松城の築城を開始し、頼行の子・頼直の代に完成しました。

戦国時代には吉見氏は大内氏の家臣となり、吉見正頼は大内義隆の姉を正室としていましたが、大寧寺の変で義隆が家臣の陶隆房に討たれました。
隆房は大内氏を乗っ取ると、晴賢と改名しました。
正頼は晴賢に対して挙兵、それに応戦する形で晴賢が三本松城に攻め込み、三本松城の戦いが起こりました。
籠城戦が続きましたが、その間に大内氏と同盟関係であった毛利元就が隣国・安芸(今の広島県)を掌握し、これで苦境に陥った晴賢は撤退しました。
やがて元就は厳島の戦いで晴賢を討ち滅ぼし、正頼は毛利氏の傘下に入りました。

桃山時代末期、関ヶ原の戦いで元就の孫・輝元を総大将とする西軍が徳川家康を総大将とする東軍に敗北し、毛利氏の所領が減らされると、吉見氏も三本松城を退去し、萩に移ります。
そして江戸時代、代わって坂崎直盛が入り、石垣を多用し天守も備えた近世城郭に作り替えられました。
この頃から「津和野城」と呼ばれるようになります。
直盛は大坂夏の陣に従軍し、落城の際に家康の孫で豊臣秀頼の妻であった千姫を救出しました。
直盛は千姫の身の振り方を家康より依頼され、縁組の段階まで話を進めていたのですが、突然別のところで本多忠刻との縁組が決まってしまいました。
そこで面目を潰された直盛は千姫奪回計画を立てましたが、これが幕府に露見し、直盛は自害することになってしまいました。
千姫事件です。

これで坂崎氏は断絶となり、代わって亀井政矩が入りました。
亀井氏によって山麓の居館や城下町が整備されましたが、貞享年間に落雷で火災が発生し、この時に天守も焼け落ちてしまいました。
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幕末には藩邸や周りの櫓が焼失しましたが、いくつかの櫓は再建されました。
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この頃に、藩校養老館も移転拡張されました。
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この養老館からは、文豪・森鴎外や哲学者・西周が輩出されました。

明治時代になると廃城となり、山上の建物は解体されました。
昭和時代に国の史跡となり、昭和46年に山上への観光リフトが完成しました。
このリフト乗り場に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り4城。


73番 広島城(広島県) [日本100名城めぐり]

築城
鎌倉時代、太田川下流の三角州に、小規模な集落がいくつも作られました。
戦国時代に、この地域は厳島の戦いで勝利した毛利氏の領土となります。
毛利氏の本城は内陸の郡山にあり、堅固な山城でしたが、輝元の代に豊臣秀吉が四国と九州を平定すると軍事より経済の方が優先されるようになり、瀬戸内海沿岸に新たな本城を築くことが決まりました。
輝元は太田川下流域を検地し、「最も広い島地」であった五箇村に築城することに決めました。
築城には秀吉の側近・黒田如水も参加し、大坂城や聚楽第を参考にしながら行われました。
「島普請」と呼ばれる埋立てや浚渫が困難を極めましたが、やがて堀と城塁が完成し、輝元が入城しました。
文禄元年に唐入りが始まると、名護屋城に向かう途中の秀吉が立ち寄り、城を見物しました。
やがて石垣、櫓、天守が完成すると、この城は「広島城」と名づけられました。

関ヶ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康が対立する上杉景勝を討つために大坂城をたって会津に出陣すると、輝元はかつて毛利家の外交僧を務めていた瑶甫(安国寺)恵瓊の進言を受け、大坂城に入城しました。
輝元は、家康が占拠していた西の丸を接収して総大将に就任しました。
岐阜城が徳川方の手に落ち、家康本隊が江戸をたって西進を開始すると、大垣城の石田三成から出馬要請が届きました。
しかし、密かに家康に通じていた従弟の吉川広家から押し留められ、輝元は大坂を動きませんでした。
やがて、東西両陣営が大垣近郊の関ヶ原で激突し家康方の圧勝に終わると、大坂城は先陣として活躍した福島正則の奔走によって家康方に接収されました。
その後、毛利家は改易となるところでしたが、広家の奔走で周防・長門の2ヶ国(長州、今の山口県)への減封ということで許されることになりました。
広島は召上げとなり、その後には正則が入ることとなりました。

武家諸法度
新たな広島城主となった正則は、大規模な城の改築と城下町の整備を開始します。
しかし、正則は秀吉子飼いの武将として家康に目を付けられていたこともあり、この整備をしたことでしばらくの謹慎を申し渡されました。
家康の死後間もなく、正則は水害によって被害を受けた石垣などを修築しますが、これが「武家諸法度違反の無届け改築に当たる」と咎められました。
正則は「雨漏りを止むを得ず直しただけだ」と謝罪し、「本丸以外の修築分の破却」という条件で許されることになりました。
しかし正則は逆に、「本丸の修築分」だけを破却し、「二の丸・三の丸の修築分」は据え置きました。
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その他にも将軍家に対して色々と反逆的な態度を取ったため、とうとう正則は2代将軍・秀忠を怒らせてしまい、所領を没収されてしまいました。
その後は、浅野長晟が入り、浅野家の統治下におかれました。

長州征討
長晟の10代後の当主・長訓の代に、長州征討が始まりました。
広島城は徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となりますが、やがて第2次長州征討で長州藩が勝利を収めると、広島藩は長州藩との関係を深めていきます。
その後、戊辰戦争が勃発すると、広島藩はそのまま新政府軍に加わりました。

広島大本営
幕府に取って代わった新政府により、広島城には広島鎮台が置かれることとなりました。
そこから広島市は「軍都」として発展し、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が置かれました。
明治27年9月15日から翌28年4月27日の間は明治天皇が行幸し、帝国議会も広島で招集され、臨時首都として機能しました。
日清戦争が終結すると大本営は解散し、その後、大本営跡は史跡に指定され、天守の一般公開も始まりました。
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原子爆弾投下
昭和20年、太平洋戦争の戦局が悪くなってくると、アメリカ軍との本土決戦に備えて広島城内に中国軍管区司令部が置かれ、半地下のシェルター構造の防空作戦室も設置されました。
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城内には1万名の兵士や軍属が駐留しました。
この頃、日本列島の都市という都市がことごとく空襲の対象となっていましたが、広島市は「軍都」と呼ばれている程の都市にもかかわらず、どういうわけかあまり空襲を受けることがありませんでした。
8月6日午前8時過ぎ、司令部の下に広島県警所轄のいくつかの監視哨から、「敵大型機が広島市方面に向かっている」との電話連絡が入り、8時13分、司令部は広島・山口両地区に警戒警報を発令しました。
8時15分、防空作戦室で学徒動員の女学生が各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとしたその瞬間、小窓から突然強烈な爆風が入ってきて、彼女たちは吹き飛ばされ気絶しました。
意識が戻った彼女たちが地上に出ると、天守はおろか城内の建造物は、自分たちのいた防空作戦室以外すべて倒壊・炎上していました。
城の外でも市内の建物がことごとく消え去っており、代わりに巨大なきのこ型の雲が立ち上っていました。
地上にいたほとんどの人は即死、もしくは瀕死の重傷を負っていました。
近くに倒れていた兵士によると、「新型爆弾にやられた」ということでした。
彼女たちは防空作戦室に戻ると、故障を免れた軍用の電話回線を使い、福岡の西部軍管区司令部と福山の歩兵第41連隊司令部に、「広島市壊滅」を伝えました。

復興
その9日後、戦争は終わりましたが、破壊された城域は放置され、草むらと化していきました。
昭和26年、広島国体が開催されると、木造の仮設天守が建てられました。
これを契機に天守復興の機運が高まり、広島復興大博覧会の目玉として、昭和32年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守が建てられました。
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平成6年には二の丸の復元も行われました。

100名城制覇まで残り5城。

72番 郡山城(広島県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、郡山に祇園社(現在の清大社)が建立されました。
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室町時代に、毛利氏が郡山に城を築きました。
地方の小さな大名の毛利氏が築いた城は、砦程度の小さなものでした。
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戦国時代、元就の代に隣国・出雲(今の島根県)の尼子詮久が攻め込んできて吉田郡山城の戦いが起こりました。
元就は徹底した籠城戦法を取り、やがて同盟関係にあった大内義隆から援軍として送られてきた陶隆房により、尼子軍は撃退されました。
この合戦を機に元就は郡山城を大規模な城郭に作り替えました。
本丸には見張り用の櫓も建てられていたようです。
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この頃に元就は、次男・元春を吉川家に、三男・隆景を小早川家に養子として送り込み、やがてこの両者がそれぞれの家を乗っ取る形で家督を継ぎました。
また元就自身も、調略活動に専念するため名目上隠居して家督を長男・隆元に譲り、これによって兄弟3人が支え合う「毛利両川体制」が出来上がりました。

しばらくすると、隆房は下克上を起こして義隆を自害に追い込み、大内氏を乗っ取ると、晴賢と改名しました。
毛利氏は厳島の戦いで晴賢を討ち、旧大内領を獲得することになりました。
その後、毛利氏は仇敵・尼子氏の攻略に取り掛かりますが、その途上で隆元が急死します。
隆元の死後はその子・輝元が家督を継ぎますが、やがて尼子氏を滅亡させることに成功し、大内氏、尼子氏という強大な勢力に挟まれた弱小大名であった毛利氏は、一躍中国地方に覇を唱える大大名となりました。
そして、元就はその生涯を終えます。

さて、この頃から天下布武を掲げる織田信長が急速に勢力を伸ばしてきます。
信長から送り込まれた羽柴秀吉は、毛利支配地域を次々に攻略し、中国地方の覇者であった毛利氏は瞬く間に滅亡の危機に瀕していきました。
清水宗治が守る備中高松城が攻められた時に、元春と隆景は援軍として駆け付けますが、これに対して秀吉は城を水攻めにする一方で、最後の仕上げとして信長に親征要請を出し、信長もその要請に応えて安土城を出陣しました。

しばらくして、突然秀吉から、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊に呼び出しがかかりました。
羽柴陣営に赴いた恵瓊は、そこで秀吉の参謀・黒田孝高(官兵衛)から、講和を持ち掛けられました。
その講和の条件が、秀吉側が大幅に譲歩するような内容であったため、恵瓊はその条件をのみ、講和が成立しました。
講和が成立すると羽柴軍は即座に撤退を始めましたが、その後、中国に向かっていた信長が京で本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に急襲されて死亡していたという知らせが届きました。
この知らせを聞き、元春は羽柴軍の追撃を主張しましたが、隆景が強く反対したので、結局秀吉を見逃すことにしました。
やがて秀吉は「中国大返し」と呼ばれる強行軍の末、山崎の戦いで光秀を討つことに成功しました。

これにより信長亡き後の主導権を握ることに成功したことで、羽柴改め豊臣秀吉は天下人となりますが、秀吉に恩を売った形になった毛利氏はそこで重く用いられることとなって、輝元も五大老の一人となりました。
やがて輝元は広島城を築城してそちらに移動したので、郡山城は毛利氏の本城としての役割を終えましたが、一応城としては残っていました。
ところが江戸時代に島原の乱がおこると、キリシタンの決起を警戒した幕府によって、石垣や堀なども破却されました。

幕末には、広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、郡山城の麓に吉田陣屋がおかれましたが、明治時代に廃されました。

昭和15年に国の史跡に指定されました。

安芸高田市吉田歴史民俗資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り6城。


74番 岩国城(山口県) [日本100名城めぐり]

桃山時代末期、豊臣秀吉の死後に徳川家康と石田三成の対立が激化すると、五大老の一人・毛利輝元は三成により西軍の総大将に担ぎ上げられてしまいました。
これにより、輝元の従弟・吉川広家も西軍に付かざるを得なくなりましたが、家康率いる東軍の勝利を確信していたので、密かに家康と内通し、東軍に呼応する代わりに毛利家の本領を安堵してもらう密約を交わしていました。

関ヶ原の戦いの時に広家はまず、輝元を大坂城に留めて参陣させませんでした。
代わりに広家・輝元の従弟であり輝元の養子になっている秀元が毛利隊を率いて、家康本陣の背後の南宮山に布陣しますが、広家は毛利隊の前に陣取り、開戦後も動こうとしませんでした。
吉川隊が邪魔で毛利隊も動くことができず、その毛利隊の後ろに布陣していた長宗我部盛親から出撃要請を受けた秀元は苦し紛れに「今、兵に弁当を食わせている」などと言い訳し、「宰相殿の空弁当」という言葉も生まれました。
やがてその様子を見た一族の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝負は決しました。

ところが戦後、約束されていたはずの毛利家の本領安堵が反故にされ、毛利家は改易、その所領のうち周防・長門の2ヶ国(長州)は広家に与えるという話まで出てきました。
慌てた広家は必死に交渉を行い、最終的に毛利家の所領を長州のみとすることで決着しました。
この一件で広家は毛利家中での立場を無くしてしまいましたが、周防国の一部である岩国を与えられ、家康が開いた江戸幕府からは大名並みの扱いを受けることとなりました。
一方、秀元は長州藩の支藩・長府藩の藩主となって、幕府からは疎まれながらも長州藩の藩政に強い力を持つようになり、広家とは度々対立するようになりました。

やがて広家は、横山で築城を開始しました。
まずは横山の麓に平時の居館となる「土居」を築き、完成すると山頂に戦時の城となる「横山城」を築きました。
この土居と横山城からなる「岩国城」は8年の歳月をかけて築城され、本丸には4重6階の天守も築かれました。
しかし幕府が「元和の一国一城令」を出すと、周防国には岩国城しかなかったため破却の義務はなかったのですが、秀元が居城の櫛崎城を破却したことにより広家も岩国城を破却せざるを得なくなり、完成から7年で廃城となってしまいました。
天守は破却され、麓の土居のみが陣屋として使用されることになりました。

陣屋と城下町の間には錦川という川が流れていましたが、この川がたびたび氾濫し、よく橋が流失しました。
そこで、3代藩主広嘉は洪水に耐えられる錦帯橋をかけました。
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時は下って昭和37年、鉄筋コンクリート造りで天守が復興されました。
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また、平成7年には天守台が発掘復元されました。
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天守受付窓口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り7城。


65番 月山富田城(島根県) [日本100名城めぐり]

平安時代、平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、月山富田城を築城しました。
本丸には、勝日高守神社が建てられました。
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鎌倉時代、承久の乱の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり月山富田城に入りました。

南北朝時代には、佐々木氏の高氏が守護となり、吉田厳覚を守護代としました。
しかし、厳覚は山名時氏と戦って破れ、山名氏領となりました。
やがて山名氏の満幸は明徳の乱で敗れ、佐々木氏の末裔である京極高詮が守護となり、甥の尼子持久を守護代としました。

戦国時代には、尼子氏の経久が追放されますが、不意を衝いて奪回し、その後月山富田城を拠点として出雲国の実質的支配者となりました。
経久は隣国安芸国(今の広島県)の毛利元就と激しく対立しますが、やがて家督を甥の晴久に譲ると没します。
経久の墓地は城下の洞光寺にあります。
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晴久の代には大内・毛利連合軍に攻められますが、晴久の弟・国久の奮戦によって撃退しました。
やがて晴久が急死し、その子・義久が家督を継ぎます。
しかしこの頃になると毛利氏の力が絶大なものとなっており、やがて城に攻め込まれて、凄絶な兵糧攻めの後に落城します。
その後、尼子家旧臣山中幸盛(鹿之助)が城を攻めますが、撃退されました。

江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いで軍功のあった堀尾吉晴にこの城が与えられますが、その子・忠晴が松江城を築城して移ったため、月山富田城は廃城となりました。

時代は下って、平成8年には当時の侍所であった花ノ壇が復元されました。
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安来市立歴史資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り8城。

64番 松江城(島根県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代に、亀田山に末次城が築かれました。

江戸時代に入って、関ヶ原の戦いで先行のあった堀尾吉治が末次城のあったところに松江城を築きました。
松江城には立派な天守も築かれました。
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松江藩堀尾氏は三代で断絶して、次に京極忠高が入りました。
しかし忠高にも跡継ぎがいなかったため、次に松平直政が入り、その後は松平氏の統治が幕末まで続きました。

明治に入って、文学者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が一時期松江城下に居住します。
ハーンの住宅も残っています。
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昭和から平成にかけて、櫓や門などが復元されました。
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現在は、国宝として多くの人が訪れています。
天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り9城。

3番 松前城(北海道) [日本100名城めぐり]

江戸時代初期、蠣崎氏が蝦夷地の福山に福山館を築きました。
この蠣崎氏は、江戸時代の間に松前氏と改姓しました。

幕末に、蝦夷地にロシア船が出没するようになると、その防備のため、幕府は12代松前藩主・崇広に命じて、福山館改築を命じました。
石垣、天守や、本丸御門なども建造され、松前城と呼ばれるようになりました。
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明治に入って、戊辰戦争の最後、箱館戦争の時に、榎本武明が五稜郭を占拠した後、土方歳三が700名ほどの軍勢で松前城を攻めました。
松前城は外国船に備えるため海側の防備を固めていましたが、その分背面が手薄でした。
そのため、土方によって簡単に攻め落とされてしまいました。
しかしやがて榎本も降伏し、松前城は再び松前氏のものとなり、その後明治政府の所有となりました。
そして、天守など一部の建造物を除いて多くの建物が破却されました。

昭和24年には、失火により天守が焼け落ちてしまいました。
昭和36年には鉄筋コンクリート造りで天守が再建されました。
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この天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り10城

68番 備中松山城(岡山県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、秋葉重信が有漢郷の地頭となり、大松山に砦を築きました。
鎌倉時代の末期には高橋宗康が小松山まで城を拡張しました。

その後、城主は上野氏、庄氏、三村氏と変わっていって、戦国時代の三村元親の時代には一大城砦となりました。
やがて、隣国・備前国の宇喜多直家が攻め込んでくると、元親は迎え撃つために城を出ますが、その間に直家と通じた庄高資・勝資親子に城を乗っ取られてしまいました。
しかし翌年、穂井田元清の協力の元で城を奪還しました。
この頃、中国地方は毛利氏と織田氏による激しい争奪戦が繰り広げられていましたが、元親は毛利氏から離反し織田氏に付きました。
そして三村氏と毛利氏による備中兵乱が置きますが、最終的に毛利方の小早川隆景により城を落とされ、元親は自害しました。

やがて織田信長は本能寺で横死し、後を継いだ豊臣秀吉も死去すると、石田三成と徳川家康の間で関ヶ原の戦いが始まります。
このとき、三成の西軍側の総大将に付いた毛利輝元は敗戦後領土の大半を失い、備中の支配権も失いました。

新たに江戸幕府を開いた家康は、城番として小堀正次を置き、正次亡き後は息子の政一(遠州)が跡を継ぎました。
彼らの時代にも城の修改築は行われました。
しかし、備中兵乱後城は荒廃していたので、政一は城下の頼久寺を仮の館としており、その時に立派な庭園も築きました。
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その後、城主は池田氏、水谷氏と変わっていって、水谷氏2代・勝宗によって天守が建造されました。
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この頃、二重櫓も建造されたと考えられます。
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やがて水谷氏が断絶すると、赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が城を受け取ることになり、家老の大石良雄(内蔵助)が城番となりました。
更にその後も安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり、明治時代に入って勃発した戊辰戦争では無血開城を行いました。

明治時代には城は荒廃していきますが、昭和に入ってから高橋中学校教諭・信野友春が調査を行い、その記録を「備中松山城及其城下」として刊行したことから修復の機運が高まり、高梁町によって修復されました。
平成6年からは、本丸の復元整備が行われました。

天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り11城


69番 鬼ノ城(岡山県) [日本100名城めぐり]

日本では飛鳥時代だったころ、大陸では中国は唐王朝が支配しており、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれていました。
このうち倭国は百済と友好関係を結んでおり、百済を通して大陸の文化・文明を吸収していたのですが、百済は唐・新羅連合軍によって滅ぼされてしまいました。
倭国は百済復興をかけて朝鮮半島に出兵しますが、白村江の戦いで大敗してしまいます。
すると今度は、逆に唐・新羅が倭国に攻め込んでくるのではないかという危機感が生まれてきて、百済からの亡命者の手を借りて西日本各地に防御体制を敷き始めました。
その中の一つとして築かれたのが鬼ノ城と言われています。
しかし、文献等には一切出現しません。

鬼ノ城には、今も石垣や礎石群が残っています。
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鬼ノ城には、温羅伝説というものが残っています。
鬼ノ城には温羅という鬼が住んでおり、崇神天皇の命によって吉備津彦命が退治したというものです。
これが、現在の桃太郎伝説の元になっているとも言われています。

平成13年より史跡整備が進められており、西門なども復元されました。
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鬼ノ城ビジターセンターに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り12城


13番 白河小峰城(福島県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、結城親朝が小峰が丘に築城して小峰城と名付けました。

桃山時代に、豊臣秀吉の奥州仕置によって結城氏が改易されると、代わって蒲生氏郷が入ってきました。
しばらくすると上杉景勝が入ってきますが、秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦いで石田三成が敗北したことで景勝は追放され、氏郷の息子・秀行が入ってきました。

江戸時代の初期、丹羽長秀の子・長重が入城すると、城郭の大改造に着手します。
その後白河小峰城の城主は親藩・譜代大名が目まぐるしく交代しますが、最終的に白河藩は幕領に、城郭は丹羽氏の預かりということで落ち着きます。

江戸時代を通して、白河藩からは老中を多数輩出します。
そのうちの一人、徳川吉宗の孫でもある松平定信は、寛政の改革を行いました。

明治になって戊辰戦争が始まると、会津に向けて進撃する新政府軍は白河小峰城を攻撃しました。
白河小峰城では会津藩家老・西郷頼母が指揮を執っていましたが、あまりの兵器の性能の違いに歯が立たず、すぐに落城してしまい、多くの建造物が焼失してしまいました。

時は下って、平成3年、三重櫓が復元されました。
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また、平成6年には前御門が復元されました。
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しかし、平成23年に発生した東日本大震災では、石垣が大規模に崩落するという被害を受け、復旧作業が進められています。
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三重櫓および、城内にある白河集古苑に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り13城


9番 久保田城(秋田県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、神明山に三浦氏が「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれる城を築きました。

関ヶ原の戦いのとき、東軍に付くとも西軍に付くともはっきりしなかった佐竹義宣は、戦後出羽国に減俸転封になりました。
その後、江戸時代に入って神明山に窪田城を築きました。
佐竹氏には石垣作りに精通した者がいなかったため、城は土塁作りとなっており、また、江戸幕府への遠慮から、天守は築かれませんでした。

寛永年間には、本丸が全焼し、再建されました。
その後、窪田城は「久保田城」と表記されるようになります。
宝暦から安永年間頃に、二ノ門の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当する物頭の詰所として、御物頭御番所が建造されました。
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しかし、安永年間に再び本丸が全焼し、また再建されました。

明治に入って、戊辰戦争の頃、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍に対抗しましたが、久保田藩は新政府側に付きました。
それで、庄内藩、盛岡藩が城下に向けて攻め込んできましたが、仙台藩、米沢藩の降伏を受けて、城を攻められる前に撤退しました。

戦後、久保田城は存城となったのですが、明治13年にまたも大火が発生して、御物頭御番所等を残してほとんどの建造物が焼失しました。
その後、城跡は佐竹氏に返還され、うち本丸・二の丸を秋田市が借り受け公園となりました。

平成元年には御隅櫓が復元されました。
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平成13年には本丸表門が復元されました。
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御隅櫓および、城内にある秋田市立佐竹史料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り14城


71番 福山城(広島県) [日本100名城めぐり]

平安時代、備後国の杉原保に、常興寺という寺が建てられました。

時は下って江戸時代、この地を与えられた徳川家康の従兄弟の水野勝成が、毛利氏などの西国外様大名を抑えるために、常興寺を移してその跡地に城を築きました。
これが福山城です。
建築に当たっては、鉄板を張った、最強の守りと呼ばれる天守、京の伏見城から移築した伏見櫓や筋鉄御門が建てられました。
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水野氏は5代続きましたが、跡継ぎがなく断絶してしまったので、その後松平忠雅、次いで阿部正邦が入り、その後は阿部氏の統治が続きました。

幕末に登場した7代・正弘は、若くして幕府の老中首座に上り詰めました。
折しもその頃、ペリーの黒船艦隊が来航し、その圧力に屈する形で正弘は日米和親条約を結びました。
これにより、日本国内は攘夷派、開国派に分かれ、大混乱することになります。

正弘の死後、攘夷派の中でも特に長州藩の活動が活発になってきました。
幕府は長州藩を討つために二度の長州征伐を行いますが、二度目の長州征伐では薩摩藩と同盟を結んだ長州藩により撃退され、その3年後に長州藩によって福山城が攻撃されます。
やがて王政復古の大号令が発せられ、福山城は新政府軍によって侵攻を受けました。
福山城は連日の砲撃を受けますが、福山藩首脳陣の奔走により、本格的な総攻撃が始まる前に恭順が許されました。

明治時代になると多くの建造物が破却されますが、天守、伏見櫓、筋鉄御門などは残りました。
しかし昭和時代の太平洋戦争の時、アメリカ軍の福山大空襲によって天守は焼失してしまいました。

昭和41年に、福山市の市制50周年記念事業として天守が復興されました。
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この天守内に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り15城

97番 鹿児島城(鹿児島県) [日本100名城めぐり]

上山城
南北朝時代、上山氏が鹿児島に上山城を築きました。
しかし、上山氏はすぐにこの城を撤収して島津氏に明け渡し、その後は永らく放置されることになりました。

伏見城の戦い
安土桃山時代末期、豊臣秀吉の死後に徳川家康と上杉景勝の間で対立が激化すると、家康は家臣の鳥居元忠に伏見城の留守居を任せ、景勝征伐のために会津に向けて出撃しました。
山科まで家康の見送りにやってきた島津義弘は、その時に家康から伏見城守備に加わるよう依頼されました。
義弘は快諾し、国許の兄・義久と子・忠恒に援軍を要請しますが、二人は積極的には動きませんでした。
とりあえずかき集めた200の兵で伏見城に向かったものの、家康からの話が元忠に伝わっておらず、島津隊は入城を拒否されてしまいました。
そうこうしている内に石田三成が挙兵し、4万の軍勢が伏見城に迫ってきました。
進退窮まった義弘は、やむなく石田方に合流することにしました。
そんな時、義弘を慕う甥の豊久が薩摩から駆け付けてきました。
他にも義弘の要請に「個人的に」応えた将兵が集まり、軍勢の数は何とか1000にはなりました。

島津の退き口
関ヶ原に徳川・石田両陣営が集結すると義弘は石田方に参陣しますが、兵力の少ない島津隊は自陣から動かず、攻めてくる敵を撃退することに終始しました。
しかし、戦いは徳川方が半日で圧勝し、気が付けば島津隊は数万の徳川方の軍勢の中で孤立していました。
絶体絶命の状況で義弘が取った決断は、「敵中突破撤退」でした。
島津隊はまず、戦いが終わって気が抜けている福島正則隊に一斉射撃を加えた後、正面突破を敢行しました。
そのまま家康本陣に迫ったところで転進し、伊勢街道を南に向かって走り始めますが、背後から井伊直政、本多忠勝、家康の子・松平忠吉の隊が猛追してきました。
島津隊は「捨て奸(すてがまり)」と名付けられた戦法で追手を振り切ろうとします。
これは、数人の鉄砲兵があぐらをかいて待機し、追ってくる敵将を狙撃してから槍で突撃、全滅したらまた数人の鉄砲兵が同じことを繰り返す、という壮絶な戦法でした。
銃撃で忠勝を落馬させたものの井伊隊、松平隊の追撃の手は止まず、義弘は自刃しようとしますが、豊久は「国家の存亡は(義弘)公の一身にかかれり」と言って、そのまま自ら捨て奸となっていきました。
その後、直政、忠吉にも重傷を負わせたことで追撃の手は止み、戦線離脱に成功した義弘一行は摂津国(今の大阪府)に到着しました。
そこで住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗虎と合流して難波から出航しますが、航行中には黒田の水軍の襲撃も受けました。
宗虎の本国・筑後国(今の福岡県)柳川に到着後、宗虎と別れて陸路を下り、ようやく薩摩に帰還できた時には同行者はわずか80名にまで減っていました。

鬼島津
島津は和平交渉を進める一方で、着々と軍備の増強を進めました。
黒田・加藤・鍋島連合軍が立花をくだした後に3万の軍勢で南下してきましたが、島津にも1万の屈強な兵が温存されていたため、睨合いの状態になりました。
脅しをかけるために薩摩沖航行中の徳川家所有貿易船2隻を沈めると、黒田・加藤・鍋島の軍は撤退していきましたが、防衛態勢強化の必要性を感じた忠恒は、かつて上山城のあった山を「城山」として詰城にし、その麓に本城を築くという構想を打ち立てました。
「海に近すぎて危険である」という義弘の反対もありましたが、それを押し切って忠恒は築城を開始しました。
その後、家康から「義弘の関ヶ原での行動は当主の義久や一族が承認したものではないから、島津家そのものは処分しない」という通達が届きました。
島津家は本領安堵を勝ち取ったこととなり、併せて忠恒への家督継承も承認されました。
やがて完成した城は、「鹿児島城」と名付けられました。
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その後、忠恒は家康から片諱を賜り、「家久」と改名しました。
その後、家久は琉球に兵を送り、占領して属国としました。
やがて家康が駿府で死去しますが、その死の間際に家康は、島津を潰しきれなかった心残りから「自分の遺体は薩摩に向けて葬るように」という遺言を残したと伝えられています。

蘭癖大名
家久の7代後の当主・重豪は蘭学に傾倒し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりするほどでした。
隠居後の晩年もかくしゃくとしていた重豪は、特に曾孫の斉彬をかわいがり、斉彬とともにシーボルトと会見して西洋情勢を聞いたりということもありました。
重豪の3代後に斉彬が当主となると、斉彬は西洋の学問を積極的に取り入れて、藩の富国強兵に取り組みました。
この頃、黒船来航に端を発した幕政の混乱が起こっており、その中で斉彬は、松平慶永(春嶽)、山内豊信(容堂)、伊達宗城とともに「四賢候」と呼ばれ、大きな影響力を発するようになっていきました。
しばらくすると、就任したばかりの14代将軍・家定が病弱で子をなせる見込みがなかったことから、その跡継ぎを巡った対立が起きました。
斉彬ら四賢候は、英名と名高かった一橋徳川家の慶喜を推しており、「一橋派」と呼ばれていました。
また、斉彬は有能な人材の登用に努め、下士階級の西郷隆永(後の隆盛)を「御庭方役」として取り立てました。
さらに、従妹の一を養女に迎えて「篤子」とし、家定の正室として輿入れさせるなどの工作も行いました。
しかし、紀州徳川家の慶福を次期将軍に推す「南紀派」の井伊直弼が大老に就任すると、次期将軍は慶福に決定され、直弼は一橋派と尊王攘夷派の粛清を開始しました。
斉彬は抗議のために5000の兵を率いて上洛しようとしますが、城下で出兵のための練兵を観覧している最中に発病し、志半ばで斃れました。

生麦事件
斉彬の死後は甥の茂久が家督を継ぎますが、その父・久光が「国父」として藩の実権を握りました。
久光は、西郷の幼馴染である大久保利済(後の利通)を「御小納戸役」として取り立てました。
幕府でも家定が死去し、慶福改め家茂が14代将軍となりました。
しばらくして、17名の水戸浪士と1名の薩摩浪士が直弼を急襲し、殺害するという事件が起こりました。
この事件の後、久光は軍勢を率いて江戸に上り、自ら幕政改革を訴えました。
その帰路、久光の大名行列が武蔵国橘樹郡(現在の神奈川県横浜市)生麦村に差し掛かった頃、馬に乗った4名のイギリス人の一行が行列の前に現れました。
行列の供回りたちは下馬して道を譲るように説明しますが、言葉の通じないイギリス人一行は馬に乗ったまま行列の中を逆走してきました。
彼らが久光の駕籠のすぐ近くまで迫ってきたので、供回りたちはやむなく斬りかかり、1名を殺害、2名に重傷を負わせました。

前の浜戦
事件に激怒したイギリス海軍が鹿児島に襲来し、戦争が始まりました。
かつて義弘が案じた通り、海沿いに位置する鹿児島は格好の砲撃の的となりました。
城下の1割が消失し、鹿児島城の櫓も炎上しましたが、斉彬の政策によって強化されていた薩摩軍も決して負けてはおらず、鹿児島湾内に設置された台場の砲台から連日イギリス艦船に対して砲撃を加え、甚大な被害を与えました。
やがてイギリス海軍は横浜に撤退し、戦争は終結しました。
しかし、この戦争がきっかけで薩摩藩とイギリスはお互いを高く評価し合うようになり、やがて直接の交流・交易を行う仲になりました。

西郷どん
やがて、西郷や大久保らが薩摩藩内で大きな力を持つようになりました。
幕府が長州征討を開始すると、薩摩藩は秘密裏に長州藩と同盟を結びました。
この同盟によって薩摩藩は長州藩から米を援助してもらい、代わりにイギリスから購入した武器を長州藩に援助しました。
武装を近代化した長州軍は幕府軍を圧倒するようになり、その最中に幕府では家茂が急死してしまいました。
将軍職を継いだ慶喜が徳川家の力を温存したまま平和裏に幕府を終わらせるために大政奉還を行うと、薩摩・長州は朝廷に働きかけを行って王政復古の大号令を出させました。
西郷は、武力倒幕の口実を作るために薩摩浪士に命じて江戸市中で挑発行為を行わせ、佐幕諸藩によって薩摩藩邸が焼討ちされると京都で軍事行動を開始しました。
この戦いに大勝した新政府軍は東征軍を組織し、西郷がその下参謀の任に就きました。
江戸に進軍した西郷は江城を開城させ、徳川の世に終止符を打ちました。

ボウズヲシサツセヨ
新政府において、西郷は陸軍大将、大久保は大蔵卿として、大きな力を持つようになりました。
大久保の主導で廃藩置県が実施された時は、久光は抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせました。
外務卿・岩倉具視が、欧米列強の視察と不平等条約改正の交渉を目的とした使節団を結成すると、大久保も使節団に入って渡航することになり、西郷らが留守を任されることになりました。
その間に朝鮮との間で国交樹立を巡る摩擦が起こって明治6年に対立が頂点に達すると、参議・板垣(退助)正形の「朝鮮に派兵して武力で開国させるべし」という主張に西郷は反対して、「自分が大使として朝鮮に赴く」と言いました。
この西郷の主張が政府の方針として決定されたものの、岩倉使節団が帰国すると、征韓より優先させることがあると痛感した大久保らの反対によって中止となり、西郷は職を辞して鹿児島に帰りました。
内務卿に就任して絶大な権力を持つようになった大久保は、日本の近代化を推し進めるため、士族の特権を廃止していく政策を次々に実行しました。
維新の立役者でもある鹿児島の士族たちは憤慨しますが、西郷は何とか彼らをなだめようと、私学校を設立して指導・統率していくことにしました。
この頃に、鹿児島城は焼失してしまいました。
明治10年、政府の密偵が鹿児島で捕縛されたことがきっかけとなり、私学校の生徒たちが暴発して政府の火薬庫を襲うという事件が起こりました。
後戻りができなくなったことを悟った西郷は、私学校の生徒たちを率いて挙兵しました。

丁丑戦
行幸で京都に滞在している天皇への奏上を目的に北上した西郷軍は、一時は熊本まで攻め上りますが、やがて体勢を立て直した政府軍により押し返されました。
鹿児島に戻ってきた西郷は、城山に立て籠もりました。
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政府軍との戦闘が始まると、私学校にも多数の銃弾が放たれました。
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1月後、被弾した西郷は自決し、戦争は終結しました。
この戦争を最後に、西日本各地で相次いだ士族の反乱は集結しました。

済世遺言
翌11年5月14日早朝、大久保は霞が関の自邸において福島県令・山吉盛典の訪問を受け、山吉に自らの国家構想を語りました。
それは、明治元年から明治10年までの第1期は兵事が多い創業の時期、11年から20年までの第2期は内治を整え民産を殖する時期であり、自分はこの時期で十分に内務の職を尽くす、そして21年から30年までの第3期は守成の時期で、後進の賢者に継承する、という構想でした。
午前8時頃、大久保は赤坂の東宮御所で天皇に謁見するため、馬車に乗って自邸を出発しました。
書類に目を通しながら30分ほど馬車に揺られていると、にわかに車外で騒動が発生しました。
そして、馬車が急停止したと思った次の瞬間、御者が何者かに斬り殺されました。
襲撃に気付いた大久保は馬車から脱出しようとしますが、目の前に立ち塞がった士族らしき男に腕を掴まれました。
「無礼者」と一喝するもその場で斬りつけられ、さらに複数の襲撃者から幾度も斬り掛かられ、突き刺されました。
馬車から引き摺り下ろされた大久保はよろよろと歩み始めますが、再度斬り掛かられたところで力尽き、最期は喉を刺されて絶命しました。
事件後、血まみれの遺体の懐から一つの袋が発見され、その中には生前の西郷から送られた手紙が大事にしまわれていました。
暗殺の主犯・島田一郎が持参した「斬奸状」には「大久保は不要な土木・建築事業で国費を無駄使いしている」と書かれていましたが、その後、大久保には莫大な借金があることが判明しました。
それは、国費で賄えなかった公共事業を、大久保が私財を注ぎ込んで進めていたからでした。

殖産興業
志半ばで倒れた大久保の意思を継いだ明治政府の政策によって、やがて日本は欧米列強と肩を並べるほどの近代資本主義国家となりました。
明治15年、西郷の叔父・椎原国幹が校長を務める公立鹿児島学校が城跡に移転してきました。
戦後は、昭和27年に鹿児島県立大学の医学部が設置され、大学移転後の昭和58年に鹿児島県歴史資料センター黎明館が開館しました。

100名城制覇まで残り16城

96番 飫肥城(宮崎県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、日向国で武士団として勢力を持っていた土持氏が飫肥(おび)に築いたのが飫肥城です。

室町時代には、薩摩国(今の鹿児島県)の島津氏が伊東氏の南下に備えて一族の新納忠続を飫肥城に入城させました。
やがて、京の都で発生した応仁の乱を契機として戦国時代に突入すると、島津氏の内紛に乗じて伊東氏の祐国が飫肥城に攻め込みました。
しかし、島津氏の援軍と城外で合戦となり、祐国は戦死します。
とりあえず伊東氏を撃退した島津氏は、忠続に変えて島津氏の忠廉を入城させます。
以後、飫肥城主島津氏は島津豊州家と呼ばれるようになりました。

さて、撃退された伊東氏の方では、祐国の孫・義祐が家をまとめました。
一方の島津氏は、忠廉の孫・忠広の代に義祐の家臣を味方に引き入れて伊東領に攻め込みましたが、敗退しました。
これを受けて、義祐は飫肥に侵攻します。
その後、25年に渡る戦争の結果、小越合戦での勝利によってついに義祐は飫肥城の奪取に成功しました。
勝った義祐は、三男・祐兵に飫肥の地を与え、さらに島津氏の本領に向けて侵攻を開始します。
しかし、木崎原の戦いで3000の軍勢を300の島津義弘軍に打ち破られ、これを契機として伊東氏は没落し、やがて飫肥は島津氏によって取り返されました。
追われた祐兵は姫路で羽柴秀吉に仕官しました。
程なくして、秀吉の主君・織田信長が本能寺で討たれると、羽柴改め豊臣秀吉がその後を継いで天下統一事業を進め、祐兵も側近として従軍します。

一方九州では、島津氏が破竹の勢いで席巻していました。
島津氏の勢いを止めるべく、秀吉は九州征伐を始めました。
九州では無敵の強さを誇った島津氏も、秀吉軍の前には成すすべなく、やがて本領に戻され、飫肥の地は軍功のあった祐兵に与えられました。
これにより、100年に渡った島津氏と伊東氏による飫肥争奪戦に終止符が打たれました。
秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いの折には、祐兵は病床に臥せっていましたが、徳川家康と通じており、戦後、家康が江戸幕府を開いた後も伊東氏が飫肥藩主として任ぜられることになりました。

貞享年間に、地震で本丸が破損し、後に本丸が移転されました。
旧本丸には現在、飫肥杉が被い茂っています。
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享和年間には、藩校が開設されました。
これは後に「振徳堂」と名付けられました。
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幕末に、ペリーの黒船が来航した頃、飫肥藩士・小村家に寿太郎が生まれました。
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幕府はアメリカと日米修好通商条約を結びますが、これは関税自主権がない等の不平等条約でした。
それを皮切りに、幕府は他の欧米列強とも次々に不平等条約を結ばされます。
これにより日本は攘夷派と開国派に真っ二つに割れ、やがて薩摩、長州を中心とする新政府軍によって幕府は倒されます。
明治時代に入っても日本はなかなか欧米列強に認められることがありませんでしたが、やがて日露戦争でロシアに勝利したのを契機として、小村は外務大臣として欧米諸国と交渉に臨み、ついに不平等条約を撤廃することに成功しました。

明治以降、城跡は寂れる一方でしたが、昭和53年に大手門が復元されたのを皮切りに城、城下が整備されました。
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城内の歴史資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り17城


95番 岡城(大分県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代の初め、源頼朝と対立していた弟の義経を迎え入れるために、緒方惟義が豊後竹田に築城したと伝えられています。

南北朝時代になると、後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝がこの城を拡張して「岡城」と名付け、そこを拠点として北朝方と戦ったとされています。

桃山時代になると、薩摩国(今の鹿児島県)の島津氏が九州を席巻し、豊後国にも攻め入りますが、岡城のみは志賀氏の親次のもと再三島津軍を撃退しました。
やがて豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津氏は降伏して旧領に戻りました。
天下を統一した秀吉は朝鮮出兵を行いますが、戦地で志賀氏の主家である大友氏の義統が敵前逃亡をしたため、秀吉の逆鱗に触れ所領を没収され、親次も岡城を去ることになりました。

翌年、代わりに入城したのが中川秀成で、この頃に石垣を築くなど近世城郭として整備されていきました。
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この中川氏が江戸時代の終わりまで居城し続けました。

明治時代になると廃城となり、石垣を残して城内の建造物は破却され、城跡は荒れ果てていきました。
この荒れ果てた城跡でよく遊んでいた瀧廉太郎という少年が、後にここに着想を得て「荒城の月」を作曲しました。
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昭和30年には、岡城本丸の、かつて志賀氏中川氏が天神様を祀っていたところに天満神社が建立されました。
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現在は「岡城公園」として、多くの観光客が訪れています。
かつて総役所のあったところにある観覧料徴収所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り18城

94番 大分府内城(大分県) [日本100名城めぐり]

桃山時代、豊臣秀吉から府内を賜った福原直高が、荷落という地に城を築きました。
「荷落」という地名は縁起が悪いので、「荷揚」と改名され、城の名前も「荷揚城」となりました。
大分の府内にあるので、「大分府内城」とも呼ばれます。

秀吉の死後、石田三成が失脚すると、三成派であった直高は徳川家康によって転封され、代わりにかつて府内の代官であった早川長政が入城しました。
その後、三成が起死回生を狙って関ヶ原の戦いを起こしますが、この戦いで西軍に付いた長政は敗戦後改易となり、代わりに竹中重治(半兵衛)の従弟・竹中重利が入城しました。
重利によって、天守、堀、門、櫓などが整備され、大分府内城は完成します。
しかし、重利の子・重義は、長崎奉行時代の不正をとがめられて切腹となり、竹中氏は改易されてしまいました。
その次に日根野吉明が入城しますが、跡継ぎなく没してしまったため、松平忠昭が入城し、以後江戸時代の間中は松平氏が居城し続けました。

寛保年間には大火により天守が焼失してしまい、今は天守台だけが残っています。
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明治時代になると、城内に大分県庁がおかれました。
太平洋戦争の時には大分空襲により、櫓数棟が焼失しました。
その後、昭和40年に櫓と大手門が復元されました。
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平成8年には廊下橋が復元されました。
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この大手門と廊下橋に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り19城

11番 二本松城(福島県) [日本100名城めぐり]

室町時代、幕府より奥州探題に任命された畠山高国は塩沢・殿地が岡に居を構え、地名を二本松と変えました。
やがて高国の子孫も二本松姓を名乗るようになり、7代・満泰がこの地に二本松城を築きました。
この頃の城は、土塁と堀切で防備を固めていました。
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戦国時代に入ると、伊達政宗の攻撃を受けるようになります。
15代・義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出ました。
義継は輝宗の元に出向くと、輝宗を拉致して二本松城に連れ去ろうとしますが、政宗は輝宗もろとも義継を射殺しました。
そして政宗は二本松攻めを開始します。
二本松氏は義継の子・国王丸を後継に立て籠城し、善戦しますが、最後は開城し、二本松氏は滅びました。
二本松城には伊達氏の城代が置かれますが、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下統一を成すと政宗も秀吉に臣従し、やがて政宗は転封になります。

代わりに蒲生氏郷が会津に転封してきて、二本松城には蒲生氏の城代が置かれます。
これ以降、しばらくの間、会津を治めるものが二本松に城代を置くという形式になりました。
しばらくすると今度は上杉景勝が会津に転封となります。
しかし秀吉の死後、景勝は徳川家康と対立し、この対立が引き金となって関ヶ原の戦いが起こり、敗軍となった上杉氏は会津の所領を没収され、今度は氏郷の子・秀行が会津に入りました。

江戸時代になると蒲生氏は伊予国(今の愛媛県)に転封となり、代わりに加藤嘉明が会津に入りました。
しかしこの加藤氏もやがて改易となり、二本松城には丹羽長秀の子・光重が入りました。
光重は、二本松城を石垣造りの城へと作り変え、天守も建造しました。
この頃には二本松藩は会津藩から独立した存在となりますが、会津藩とは友好関係を結び続けました。

幕末になると、会津藩が京都で治安維持の任務に当たり、尊王攘夷派の取り締まりを行いますが、やがて大政奉還が成ると、反撃に転じた長州藩が、薩摩藩、土佐藩などとともに新政府軍を組織し、東北に攻め上ってきます。
会津藩の友藩の二本松藩も新政府軍に抗して戦いましたが、藩兵の大半が白河口に出向いている隙に二本松城を攻められ、一日の戦闘で落城しました。
このとき、手薄だった二本松では少年兵も多数出兵して戦死し、後に彼らは「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。

明治になると、二本松城は廃城となりました。
しかし昭和57年には箕輪門と附櫓が復元されました。
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昭和53年には、かつて大手門があったところに二本松歴史資料館が建てられました。
また、平成7年には天守台や本丸石垣が整備されました。
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歴史資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り20城


84番 高知城(高知県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代、大高坂氏が土佐国の大高坂山に大高坂山城を築きました。
南北朝時代になると、大高坂氏の松王丸は南朝方に付きますが、北朝方に攻め込まれ落城し、松王丸も戦死します。
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戦国時代になると、長宗我部元親が土佐を中心に四国の覇者となります。
しかし、天下統一事業を進める豊臣秀吉の命による四国攻めで降伏し、元親は秀吉に臣従することになりました。
その後、秀吉は島津氏を征服するための九州征伐に乗り出し、元親も従軍します。
そして、九州征伐から帰還した元親は、大高坂山に城を築きました。
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ですが、この城は水はけが悪く、すぐに放棄して浦戸城を築きました。

秀吉は天下統一を成し遂げますが、その秀吉が死ぬと、徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが勃発し、元親の子・盛親は三成方の西軍に付きます。
しかし西軍が敗れると、盛親は家康によって改易されました。

代わりに土佐国にやってきたのは、関ヶ原の戦いに関して功績のあった山内一豊でした。
しかし、長宗我部氏には忠実な家来がたくさんおり、特に半農半兵の一領具足と呼ばれる人たちの山内氏に対する抵抗は激しいものがありました。
一豊はこれらの者たちを鎮圧すると同時に、大高坂山に築城を始めました。
築城の視察の際には、同装束六人衆と呼ばれる影武者を伴っていました。
やがて城が完成し、この城には河中山(こうちやま)城と名付けられました。
そしてこの頃、一領具足の鎮圧も完了し、以後土佐藩では、山内氏譜代の武士は上士、長宗我部氏の遺臣は下士として、武士階級の中にも厳しい身分制度が敷かれるようになりました。

一豊が亡くなると、一豊には実子がいなかったため、甥の忠義が跡を継ぎました。
河中山城はたびたび水害に悩まされてきたため、城の名前が悪いということで、忠義の時代に、高智山城と改名されました。
そしてこれがいつの頃からか「高知城」と呼ばれるようになりました。

享保年間には大火に見舞われ、追手門以外のほとんどの建造物が焼け落ちました。
その後、天守や本丸御殿などが再建されています。
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ペリーの来航から混乱の始まった幕末には、15代・豊信が吉田東洋を起用して開明的な藩政改革を始めます。
豊信は公武合体派で、松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬とともに「四賢候」と呼ばれ、幕政にも影響を持つようになりました。
しかし、井伊直弼による安政の大獄の折、豊信は幕政から失脚し、隠居して容堂と名乗るようになりました。
やがて直弼が桜田門外の変で暗殺されると尊王攘夷派が力を持つようになり、土佐藩でも白札(下士であるが当主だけ上士格)の武市瑞山(半平太)が、下士たちを集め土佐勤王党を結成し、吉田を暗殺して藩の実権を握るようになりました。
ところが、尊王攘夷派の筆頭であった長州藩が京都を追われると、再び公武合体派が力を盛り返し、土佐勤王党は弾圧され、武市も切腹となりました。
しかし、土佐勤王党出身の坂本龍馬や中岡慎太郎、そして上士の後藤象二郎や乾(板垣)退助らの活躍により大政奉還が成り、土佐藩は明治維新の原動力の一角を担うようになっていきました。

明治時代には高知城は廃城となり、高知公園として開放されるようになりました。
太平洋戦争では空襲を受け被害を受けますが、天守、本丸御殿、追手門などは戦火を免れました。
この本丸御殿入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り21城


83番 宇和島城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

平安時代、藤原純友の乱がおこると 警固使・橘遠保は宇和島の地に砦を築きました。
鎌倉時代には西園寺公経が宇和島地方を支配下に置くようになり、簡単な城に作り替えました。
この城は丸串城と呼ばれていました。

戦国時代には一時的に家藤監物が城主を務め、大友氏や長宗我部氏の侵攻に耐えますが、監物が去ると再び西園寺氏の宣久の居城となりました。
しかし、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景に攻め落とされ、隆景の所領となりました。
程なくして隆景は筑前国(今の福岡県)に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入ると丸串城には戸田与左衛門が城代としてやってきました。
その後、藤堂高虎が入封すると、高虎は城を大改修するとともに、城名を「宇和島城」と改名しました。

江戸時代に入ると伊勢国(今の三重県)の富田信高が高虎と入れ替わりで入封しますが、すぐに改易となり、代わって伊達政宗の長男・秀宗が入封しました。
秀宗の息子・宗利の代には老朽化した城の改修が行われ、天守も建て替えられました。
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また、宗利は城下に浜御殿を建造し、これを7代藩主・宗紀が庭園として改修して「天赦園」が生まれました。
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宗紀には子がいなかったため、養子を迎えて跡取りとしました。
これが8代藩主・宗城で、宗城は高野長英や大村益次郎などの有能な人物を集め、産業・軍事の近代化を行いました。
この時代に武器庫である山里倉庫が建造されました。
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宗城は、松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに「四賢候」と呼ばれ、幕政にも影響を持つようになりました。

明治に入ると櫓や門などは破却されていきましたが、天守は残りました。
太平洋戦争の時には空襲を受け、大手門が焼失しました。
戦後、昭和24年には伊達家が天守と城山を宇和島市に寄贈し、以後、宇和島城は市の管理下になりました。
昭和41年には山里倉庫が城山郷土館として一般公開されるようになりました。
昭和35年には天守の解体修理が行われました。
この天守入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り22城

82番 大洲城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代末期、伊予国の大津に守護・宇都宮豊房によって大津城が建てられました。
その後宇都宮氏の支配が続きますが、戦国時代に毛利氏の伊予出兵によって降伏しました。
そしてさらに、四国統一をもくろむ土佐国(今の高知県)の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之に城を乗っ取られました。
しかし、桃山時代に入ると豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景により攻め滅ぼされました。

その後、戸田勝隆の時代を経て、藤堂高虎の時代に近世城郭として整備がなされました。
やがて秀吉が死に、徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが始まると、東軍の高虎は西軍に付いていた淡路・洲本の脇坂安治に工作を行いました。
合戦中に隆景の養子の秀秋が東軍に寝返ると、安治も続きました。
最終的に東軍が勝利して江戸時代が始まると、恩賞として安治に伊予国が与えられました。
この時代に天守や櫓などが建造されるとともに、「大津城」は「大洲城」と改められました。
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しばらくすると大洲城主は加藤貞泰に代わり、その後は幕末まで加藤氏の統治が続きました。

明治時代になると、城内のほとんどの建造物は破却されましたが、天守や一部の櫓は残されました。
しかし、老朽化のため、明治21年に天守は取り壊されてしまいました。
また、残されていた下台所は、監獄として使われるようになりました。
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廃城直後から地域住民による熱心な保護活動も行われており、平成16年には伝統工法を用いて当時の姿に忠実な木造の天守が再建されました。
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台所櫓入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り23城

80番 湯築城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

伊予国の道後地方は、縄文時代より温泉地となっていました。
奈良時代に作られた湯釜も残っています。
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鎌倉時代から、この地方は河野氏が支配することとなり、南北朝時代に入って丘陵地に湯築城が築城されました。
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南朝方の忽那氏に攻め込まれたり、有力守護・細川氏との長きにわたる戦いなどがありましたが、戦国時代に至るまで河野氏が君臨し続けました。
しかし、天下統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景に攻め込まれ、1ヶ月の籠城の末に開城し、河野氏の支配は終わりました。
その後福島正則が城主になりますが、正則は居城を移し、湯築城は廃城になりました。

時は下って明治21年に湯築城跡は道後公園として整備されるようになりました。
昭和63年からは発掘調査が始まり、その結果をもとに武家屋敷などが復元されています。
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公園内の資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り24城


81番 松山城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

江戸時代初期、伊予国南部の大名の加藤嘉明は、関ヶ原の戦いでの軍功により加増され、勝山に城を築き始めました。
嘉明はこの地を「松山」と名付け、松山城の築城は着々と進められていきました。
しかし、完成前に嘉明は会津に転封となり、入れ替わりにやってきた蒲生忠知によって松山城は完成されました。
ところが程なくして、忠知は参勤交代の途中に死去してしまい、蒲生家は断絶しました。
その後は松平定行が入り、松山藩は親藩になりました。
天明年間には天守が落雷により焼失してしまいましたが、幕末に再建されました。
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明治時代になり、新政府軍による旧幕府軍への攻撃が始まると、松山城は土佐藩に接収されました。
その後、失火により二の丸や三の丸が焼け落ちましたが、天守をはじめとする本丸の多くの建造物は残りました。
この雄大な松山城を見て育った正岡升は、後に「子規」という俳号を名乗り、「松山や 秋より高き 天主閣」という俳句を残しました。

昭和時代に入ると、相次ぐ放火事件や太平洋戦争での空襲で、天守は残ったものの多くの建物が焼け落ちてしまいました。
しかし、昭和後期から少しずつかつての櫓や門などが復元されていきました。
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平成4年には、二ノ丸史跡庭園が完成しました。
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天守の入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り25城

79番 今治城(愛媛県) [日本100名城めぐり]

江戸時代初期、関ヶ原の戦いでの軍功で伊予国を拝領した藤堂高虎が今治城を築城しました。
海水が引かれた広大な堀が特徴の海城でした。
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城が完成したころ、高虎は伊勢国(今の三重県)に移封になり、天守は丹波亀山城に移築されることになったと伝えられています。
その後は高虎の養子の高吉が城を引き継ぎますが、やがて高吉も伊勢国に移封になり、代わりに松平定房が今治の藩主になりました。
そして幕末までこの松平氏の統治が続きます。

明治時代になると廃城になって建物は破却されてしまいますが、昭和55年にかつて北隅櫓があったところに天守が再建されました。
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平成19年には鉄御門が復元されました。
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天守の入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り26城

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