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28番 小諸城(長野県) [日本100名城めぐり]

築城
平安時代末期、信濃国の宇頭坂に木曽義仲の家臣・小室光兼が宇頭坂城を築きました。
やがて小室氏が支配する地域は、「小諸」と呼ばれるようになりました。
南北朝時代に小室氏が衰退すると、代わって大井氏が小諸の佐久地方を支配するようになります。
戦国時代に入ると、大井宗家は村上氏に滅ぼされました。
大井家の生き残りの光忠は小諸に逃れ、宇頭坂城のあったところに鍋蓋城と乙女城を築城しました。
しかし、ここも隣国・甲斐(今の山梨県)の武田信玄により攻め落とされました。
信玄は新たに城を築き直し、やがて「小諸城」と呼ばれるようになりました。

甲斐一乱
やがて、西の方で織田信長が力を伸ばしてきました。
信玄は信長と対立する将軍・足利義昭の要請に応じて西上作戦を開始しました。
しかし、その途上で信玄が急死したので、作戦は中止されました。
信玄の子・勝頼が跡を継ぐと、御一門衆の下曾根浄喜が小諸城の城代を務めるようになります。
しかし、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、武田と織田の力関係は完全に逆転してしまいました。
天正10年、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻してくると、勝頼の従弟の信豊が小諸城に逃れてきました。
浄喜は武田を裏切って信豊を討ち取り、その首を信長に進上しますが、浄喜も誅殺されてしまいました。
間もなく勝頼が自刃して武田氏は滅び、上野国(今の群馬県)と信濃国佐久郡・小県郡は織田家臣の滝川一益が領有することになりました。
一益は上野に本拠を置いたので、小諸城には一益の甥・道家正栄が城代として入りました。
また、このときに上野の有力者であった旧武田家臣・真田昌幸が一益の配下に入りました。

神流川の戦い
そのわずか二月後、信長が本能寺で明智光秀に討たれました。
謀反人の光秀はすぐに羽柴秀吉によって討ち果たされましたが、この混乱を見た相模国(今の神奈川県)の北条氏が上野に侵攻してきました。
一益は神流川で北条軍を迎え撃ったものの敗退し、小諸城に逃れました。
そして、木曽郡の国衆・木曾義昌と領内通過の約定を取り付けると、佐久郡の国衆・依田信蕃に城を引き渡し、本国の伊勢(今の三重県)長島への撤退を開始します。
しかし、城をたったその日に清洲城で織田家の後継を決める会議が開かれ、この会議で秀吉が主導権を握ったため、会議に参加できなかった一益の織田家中における地位は急落しました。

黒駒合戦
一益の配下に付いていた昌幸は北条に帰属することにしたので、これで上野の支配権を盤石にした北条氏の軍が臼井峠を越えて信濃に攻め込んできました。
信蕃は小諸城を放棄して春日城に籠城し、小諸城には北条家臣・大道寺政繁が入りました。
北条軍はその勢いで甲斐に侵攻しましたが、信蕃の遊撃戦術によって補給線を分断されてしまいました。
兵站を乱された北条軍が黒駒で徳川軍に敗北すると、義昌が徳川方に寝返り、昌幸も信蕃に加勢するようになりました。
真田軍と北条軍が上野で熾烈な戦いを繰り広げている間に、小諸城が信蕃に急襲され、政繁は城を放棄して撤退しました。
信蕃が小諸城を奪回した後、信濃の国衆が次々に徳川方に付いたため、ここに至って北条は徳川との講和を決意しました。
そして、信長の子・信雄の仲介によって講和が成立し、甲斐・信濃は徳川が、上野は北条がそれぞれ切り取り次第という約定が交わされました。
これに付随し、真田氏の上野沼田領と北条が制圧した佐久郡を交換するという話になりました。

岩尾城の戦い
北条との戦での功績により、小諸城は家康によって引き続き信蕃に任されることになりました。
周辺の勢力は信蕃の下に集ってきましたが、信蕃と対立する勢力は、北条方に付いていた佐久郡岩尾城主の大井行吉の下に集いました。
信蕃は弟の信幸とともに岩尾城に攻め込みますが、予想外の抵抗に遭い、銃撃を受けて兄弟共に死亡してしまいました。
その後、柴田康忠の説得で行吉が城を明け渡したので、佐久郡は徳川領となりました。
信蕃の遺児・竹福丸は、家康から偏諱と松平姓を与えられて元服し、「松平康国」と名乗るようになりました。
小諸城も康国の相続が認められました。

第一次上田合戦
佐久の領有権問題は片付きましたが、沼田の方は昌幸が引き渡しを断固拒否したため、泥沼化していました。
家康は昌幸に対して沼田領の北条への引き渡しを要求しましたが、受け入れられない昌幸は越後国(今の新潟県)の上杉景勝と通じるようになりました。
昌幸の造反を受け、家康は真田の本拠地・上田に軍勢を送りました。
康国はこの戦で初陣を飾ることになりました。
徳川軍は昌幸の巧みな戦術の前に惨敗を喫しましたが、康国は合戦での活躍によって家康から感状を受けました。

小田原征伐
秀吉が関白に就任して「豊臣」姓を賜り豊臣政権が確立すると、家康は臣従し、真田は秀吉の命で徳川の与力となりました。
康国は家康の庇護の下、佐久地方の安定統治に努めました。
一部の佐久地方旧領主が挙兵したときには、木次原の戦いでこれらを破りました。
その後、真田と北条の間で沼田の領有権争いが再燃し、これに端を発して小田原征伐が始まりました。
康国は徳川旗下のまま前田利家の先導役となり、弟の康勝とともに前田・上杉・真田連合軍に属することとなりました。
連合軍は政繁が守る松井田城などを落としながら進軍しますが、寺尾左馬助が守る上野石倉城の攻略中、康国は戦死してしまいました。
一旦開城が成った後で康国が左馬助に殺害され、その場で康勝が左馬助を討ち取ったとも伝えられています。

鈴鳴り武者
北条氏が降伏して戦役が終わると、康勝が家督と小諸領を継ぐことが認められました。
しかし、秀吉の命によって家康が関東に移封されることになったため、康勝もそれに付き従うことになりました。
小諸城は、秀吉から小田原征伐での功労を認められた仙石秀久に与えられることになりました。
「盛長」と改名して領地経営に本腰を入れ始めた秀久は、小諸城の大改修に取り掛かりました。
秀吉が死去してその子・秀頼が跡を継ぐと、家康が大きな権力を持つようになりました。
対立する景勝を討つために家康が諸将を率いて会津に進軍すると、盛長もそれに応じて兵を招集しました。
しかし、石田三成が上方で反家康の挙兵に及んだので、対応のために家康は江戸に引き返していきました。
盛長は徳川方として小諸の鎮撫に当たりますが、嫡男であった次男・秀範は独断で石田方に付いてしまいました。

第二次上田合戦
近隣の上田では、家康から離反した昌幸が籠城の構えを取っていました。
三成を討つために家康が東海道の西進を開始すると、家康の嫡男・秀忠は別動隊として東山道の西進を開始しました。
東山道上に位置する上田では家康から離反した昌幸が籠城の構えを取っていたので、小諸は秀忠によって上田攻めの拠点に定められました。
信濃に入った秀忠軍を盛長は単騎で出迎え、小諸城に案内しました。
秀忠の下に昌幸からの除名嘆願が届くと、秀忠はこの嘆願を受諾しましたが、そうすると今度は突然態度を変えて挑発し始めてきました。
怒った秀忠は、盛長やその三男・久政らを従えて上田に向けて出撃しました。
真田軍を城からおびき出すために城下で苅田を始めたところ、真田の軍勢数百が討って出てきたので、後方に潜んでいた本多忠政隊が迎撃を行いました。
真田の軍勢が上田城目指して逃走を始めると、本多隊は追撃を開始し、加勢に来た他の隊も加わって追撃隊は大軍に膨れ上がりました。
しかし、上田城の大手門に迫ったところで突然城門が開き、中から現れた鉄砲隊による一斉射撃が始まりました。
大混乱に陥ったところでさらに城内の守備隊による総攻撃が始まり、追撃隊は壊滅状態となりました。
時を同じくして、昌幸の子・信繁の隊が秀忠本陣に奇襲を仕掛けてきました。
不意を突かれた秀忠軍は神川を渡って逃げようとしましたが、渡河中に突然発生した激流に大量の人馬が飲み込まれていきました。
命からがら小諸城まで逃れて来た秀忠の下に、やがて家康からの転戦を命じる使者が到着しました。
盛長は自らを真田への人質とし、家康本陣に向かうよう秀忠に進言しました。
秀忠は人質の申出は却下しますが、上田城攻略は中止としました。
上田城を迂回して進軍を再開した秀忠ですが、道中悪天候で川が氾濫し、しかも関ヶ原での本戦が半日で徳川方の圧勝に終わったため、結局、秀忠は参戦することができませんでした。
この遅参によって秀忠は家康の逆鱗に触れることとなってしまいましたが、盛長は両者の間に立って取成しに努めました。

改築
戦後、盛長は石田方に付いた秀範を勘当しました。
盛長自身は秀忠の補佐としての貢献が大きかったので、本領は安堵となりました。
上田では昌幸・信繁父子が紀伊国(今の和歌山県)九度山に配流となり、徳川方に付いた昌幸の嫡男・信之が領地を継ぐことになりました。
その後盛長は、名前を旧名の秀久に戻しました。
征夷大将軍に就任して天下人となった家康は、間もなくその職を秀忠に譲って「大御所」となりました。
新将軍からの信任の厚い秀久は、さらなる厚遇を受けることとなりました。
久政も秀忠から偏諱を賜り、「忠政」と改名しました。
やがて、小諸城には天守や大手門などが築かれ、近世城郭として完成されました。
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城下町や街道も整備されましたが、これらの事業には農民への賦役も多く、佐久郡では一郡離散という事態も起きてしまいました。
秀久は政策を修正し、年貢減免などの農村復興策に取り組み始めました。
秀久の死後、家督を継いだ忠政は父の政策を引き継ぎ、領内制度の改革を実施しました。

大坂冬の陣
慶長19年の冬、徳川家との関係が悪化した豊臣家が牢人を集め始めると九度山の信繁が大坂城に入り、牢人になっていた秀範も同じく入城していきました。
豊臣家を討伐することを決めた家康は諸大名に参戦命令を出し、忠政も出陣しました。
家康が京都に着いた頃に秀忠は江戸を出発しますが、関ヶ原の失敗を繰り返さないように強行軍を実行したことで兵を疲弊させてしまい、父から叱られてしまいました。
徳川方は大坂城を包囲すると、忠政は大坂城西方面の黒門口に布陣しました。
南方面で交戦の後に休戦が成ると、家康は講和条件に従って外堀の埋め立てを開始しますが、そのまま内堀の一部も埋め立ててしまいました。

大坂夏の陣
翌年の夏、豊臣家と決着をつけるために裸城となった大坂城に進軍した家康は、諸大名とともに城の南方面に布陣しました。
家康は天王寺口、秀忠は岡山口にそれぞれ着陣し、忠政は榊原康勝を大将とする天王寺口の二番手に着きました。
戦いの火蓋が切られると、前方から怒濤の勢いで突進して来た毛利一斎(勝永)隊によって先鋒が壊滅しました。
二番手の出番が来ると忠政は11もの首級を挙げる活躍を見せますが、毛利隊の勢いを止めることはできませんでした。
さらに三番手までもが撃破されると、無防備状態となった家康本陣に今度は信繁率いる赤備えの軍勢が突撃してきました。
信繁隊の本陣突撃は三度に及び、徳川の旗印が倒される事態となりました。
岡山口でも、秀忠本陣が大野治房の軍勢に崩され、大混乱に陥りました。
しかし兵力に勝る徳川方が徐々に盛り返し、やがて大坂城は落城して秀頼も自害し、豊臣家は滅亡しました。
秀範は戦の最中に行方不明となっており、息子・長太郎は戦後捕らえられて斬首の上晒し首となりました。
他に徳という娘がいましたが、これは忠政が引き取ることにしました。

天守焼失
大坂の陣での戦功により忠政は上田に加増移封されることとなりました。
上田の信之は、玉突き式に近隣の松代に転封されることになりました。
その後、小諸城には徳川一門や譜代大名が代わる代わる入りますが、この間に、天守は落雷によって焼け落ちてしまいました。
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その後、牧野康重が入府すると、ようやく統治が安定するようになりました。

小諸なる古城のほとり
明治になると廃城になりますが、明治13年に城跡が「懐古園」として整備されると、旧藩士たちによって本丸跡に懐古神社が建立されました。
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明治26年には、懐古園の隣に木村熊二が私塾「小諸義塾」を開校しました。
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この小諸義塾には一時期、文学者の島崎藤村が国語・英語教師として赴任していました。
現在は、小諸市営小諸城址懐古園として一般公開されています。

100名城制覇まで残り43城

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