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27番 上田城(長野県) [日本100名城めぐり]

攻め弾正
鎌倉時代より信濃国上田原を拠点としていた土豪・小泉氏は、千曲川の分流である尼ヶ淵に面したところに城館を構えました。
戦国時代、小泉氏の末裔・重成は村上義清に従っていましたが、この義清は隣国・甲斐国(今の山梨県)から侵攻してきた武田晴信を上田原で撃退し、武田軍に甚大な損害を与えました。
その後、晴信がこの敗北を挽回すべく戸石城に攻め込んできますが、義清はまたもこれを撃退し、武田軍は総崩れとなりました。
しかし、力攻めを諦めた晴信から攻略を任された武田家臣・真田幸綱の調略により、戸石城は武田の手に落ちました。
やがて、武田に追い詰められた義清は越後国(今の新潟県)の長尾景虎を頼って亡命していきました。
重成の所領は晴信によって安堵となりますが、城館は幸綱に破却されました。
その後、晴信が出家して「徳栄軒信玄」と号するようになると、幸綱もそれに倣って剃髪し、「一徳斎幸隆」と号すようになりました。

表裏比興の者
信玄の死後、武田家の家督は次男・勝頼が継ぎました。
間もなく幸隆も死去すると、真田家の家督は長男・信綱が継ぎますが、直後に勃発した長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍の前に討死してしまいました。
この戦いで次弟・昌輝までもが討死してしまったため、戦後、武藤家に養子に出ていた三弟・昌幸が真田に復して家督を継ぐことになりました。
天正10年、織田・徳川に追い詰められた勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、昌幸は信長の家臣・滝川一益の配下に付くことにしました。
ところがそのわずか三月後、昌幸の嫡男・信幸は、懇意にしていた前田(慶次郎)利益から「信長が京都の本能寺で家臣の明智光秀に討たれた」という話を聞かされました。
一益が信濃を撤退していくと、空白地帯となった旧武田領は徳川、北条、そして長尾の流れを汲む上杉が狙う不安定な地となりました。
昌幸は生残りをかけて北条についたものの、徳川優勢と見るや、すぐにそちらに寝返りました。
小牧・長久手の戦いが勃発すると、昌幸は、信長の後継者・羽柴秀吉と対峙しなければならなくなった家康の代わりに上杉を抑えるため、家康の命でかつて小泉氏の城館があったところに城を築くことになりました。
その後、この城は「上田城」と呼ばれるようになりました。

第一次上田合戦
徳川と北条が和睦を結ぶと、昌幸は家康から、上野国(今の群馬県)沼田を北条に引き渡すよう求められました。
昌幸は徳川を見限ることにし、次男・信繁を人質として越後に送って上杉景勝と手を組みました。
上田城はもともと上杉への抑えとして徳川の命で築かれたものでしたが、今度は徳川に対峙するための城として上杉の支援で増築されることとなりました。
やがて家康は、7000の兵を上田に送り込んできました。
迎え撃つ真田には1200の兵しかいませんでしたが、昌幸は上田城に籠り、信幸を戸石城に、従弟の矢沢頼康を上杉の援兵とともに矢沢城に配置しました。
徳川軍が上田城に攻め込んでくると、昌幸は二の丸まで攻め込ませた上で反撃命令を下しました。
後退する徳川軍を上田城・戸石城・矢沢城の三方から追撃すると、徳川軍は総崩れとなって潰走を始め、神川を渡って逃げる際には大量の溺死者を出しました。
その後、しばらくの間小競り合いが続きましたが、上杉から援軍増派の報が届くと徳川軍は撤退していきました。

小田原征伐
秀吉が関白に就任して「豊臣」姓を賜り豊臣政権が確立すると、景勝も昌幸も秀吉に臣従しますが、真田は秀吉の命で徳川の与力とされてしまいました。
信繁は景勝により大坂城に送られて、秀吉の馬廻衆となりました。
その後、信幸は徳川家臣・本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えることになりました。
信繁も、豊臣家臣・大谷吉継の娘を正室に迎えることになりました。
北条との間で沼田の領有権争いが再燃して小田原征伐が始まると、昌幸は景勝や前田利家とともに上野に攻め込み、小田原城の支城を次々に落としていきました。
また、吉継らとともに、石田三成が指揮する忍城攻めにも加わりました。
北条氏が滅亡すると沼田は真田領として確定したので、昌幸はここを信幸の本拠としました。

犬伏の別れ
秀吉の死後、跡を継いだ秀頼が幼少であったため、家康が大きな権力を持つようになりました。
家康が自分に従わない景勝を討つために諸将を引き連れて会津に出陣すると、昌幸も信繁とともに出陣して、徳川軍への合流を目指しました。
ところが、下野国(今の栃木県)犬伏に入った頃、昌幸のもとに三成からの密使が到着しました。
使者が携えていた書状には、「家康を討つために挙兵したから参戦してほしい」と書いてありました。
昌幸は自分に相談なしで挙兵した三成に対して憤りを覚えつつも、先行していた信幸を呼び寄せて親子三人だけの密談を行いました。
長時間に及んだ激論の末、「昌幸と信繁は石田方に、信幸は徳川方に付く」という結論に辿り着き、昌幸と信繁は戦支度のために上田に引き返しました。
その後、いったん江戸に戻った家康は、三成を討つために東海道の西進を開始しました。
家康の子・秀忠は別動隊として、忠勝の子・忠政らを付き従え、3万8000の兵を率いて東山道の西進を開始しました。
この別動隊の中には、信幸隊の姿もありました。
上田に籠る昌幸は、2000の兵でこの大軍を迎え撃つ決心を固めました。

第二次上田合戦
昌幸は上田城に籠り、信繁を戸石城に配置しました。
また、先の上田合戦で徳川軍に大量の溺死者を出した神川の上流を、密かに堰き止めさせました。
秀忠が近隣の小諸城に入ると、昌幸は信幸を介して秀忠に除名嘆願を行いました。
この嘆願が秀忠に受諾されると、今度は一転、態度を変えて秀忠を挑発し始めました。
このようなやりとりの末に秀忠の命を受けた信幸隊が戸石城に進軍してくると、信繁は戦わずに開城して上田城に入りました。
戸石城を「攻略」した信幸は、それ以上は動きませんでした。
その後、小諸城主・仙谷盛長やその子・久政らを従えた秀忠が小諸城を出撃し、上田に迫ってきました。
徳川の手勢が上田城下で苅田を始めると、信繁は夜陰に紛れ200の手勢を率いて密かに城から出て、秀忠本陣の近くに潜みました。
明くる日、真田の軍勢数百が苅田を行っている徳川軍に攻撃を加えると、その後方に潜んでいた忠政隊が襲い掛かってきました。
遁走を始めた真田軍が上田城を目指すと、他の徳川の軍勢も追撃に加わってきました。
大軍に膨れ上がった敵軍が大手門に押し寄せてきたところで、昌幸は城門を開かせ、裏に待機させていた鉄砲隊に一斉射撃を命じました。
突然の反撃で大混乱に陥った徳川軍に対して昌幸は総攻撃をかけ、これを壊滅させました。
時を同じくし、秀忠本陣近くに潜んでいた信繁隊は奇襲を仕掛けました。
大混乱に陥った秀忠本隊は逃げるために神川を渡り始めますが、ここで信繁の合図により上流の堰が切られ、大量の人馬が激流に飲み込まれていきました。
秀忠は小諸城まで逃れていきましたが、やがて上田城攻略をあきらめたのか、迂回して西に向かっていきました。
緒戦を勝利で飾り、これからの長い戦乱に備える昌幸のもとに、一つの報せが届きました。
それは、「関ヶ原で石田・徳川の両陣営が激突し、徳川方が圧勝した」という内容で、真田の命運を決定づけるものでした。
ただ、この戦に秀忠は間に合わなかったとのことでした。

破却
上田城は徳川方に接収され、昌幸と信繁は戦闘に勝利したにもかかわらず「敗軍の将」となってしまいました。
当初は死罪となるところでしたが、信幸は舅の忠勝をはじめとする家康側近たちの協力を得て、必死で家康への助命嘆願を行いました。
この時、信幸は父との決別を示すため、「信之」と改名しました。
嘆願の甲斐あって、昌幸と信繁は流罪に減刑となり、大和国(今の奈良県)九度山村に移されました。
上田城は家康の命により完全に破却され、堀も埋められてしまいました。
上田領自体は信之による相続が認められたので、信之は三の丸跡地に陣屋を構えました。
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戦乱と浅間山の噴火で上田は荒廃していましたが、信之は領内の再建と城下町の整備に取り組み、その一方で九度山に流された父と弟の支援も密かに行いました。
征夷大将軍に任ぜられて名実ともに天下人となった家康は、間もなくその職を秀忠に譲って「大御所」となりました。
上田合戦で秀忠のもとに参陣した久政は、秀忠の片諱を賜り、「忠政」と改名しました。
やがて、九度山の昌幸は、そこから二度と脱することができぬまま、病で果てました。
忠政は、父の死去により仙谷家の家督を継ぎました。
慶長19年の冬、徳川家との関係が悪化した豊臣家が牢人を集め始めると、上田に在住する昌幸旧臣のもとに九度山の信繁から参戦の呼びかけが届き、信繁自身も九度山を脱出して大坂城に入っていきました。

真田丸の戦い
豊臣家を討伐することに決めた家康は、諸大名に参戦命令を出しました。
信之のもとにも家康の使者が来ましたが、病に臥せっていた信之は、二人の息子・信吉と信政を代理として出陣させることにしました。
徳川方が大坂城を包囲すると信吉・信政は北東方面に布陣しますが、大坂城は鉄壁の守りを誇っていました。
唯一の弱点と思われていた南方面にはいつの間にか巨大な出城が築かれており、赤備えが守備に就いていました。
出城の正面に布陣していた利家の子・利常の隊が、挑発に乗って城壁に接近したところ、一斉射撃を受けて壊滅的な損害を被りました。
井伊隊・松平隊もそれに釣られて不用意に大坂城に攻め込んでしまい、やはり大損害を被ってしまいました。
家康は本丸に大筒を撃ち込んで何とか和睦を引き出しますが、徳川方の受けた損害は甚大なものでした。
戦後、この出城は、ここで大軍を撃退した大坂方の将の名から、「真田丸」と呼ばれるようになりました。

日本一の兵
家康は和睦の条件どおり真田丸の破却と外堀の埋立てを行い、さらにそのまま内堀の一部も埋め立ててしまいました。
翌年の夏、豊臣と最終決着をつけるために大坂に進軍した家康は、邪魔な出城がなくなった大坂城の南方に、諸大名とともに布陣しました。
真田家からは前年と同じく信吉と信政が出陣し、本多忠政の弟・忠朝を大将とする天王寺口の先鋒に就きました。
戦いの火蓋が切られると、前方から毛利一斎(勝永)隊が怒濤の勢いで突進してきました。
先鋒総出で迎え撃つも大将の忠朝が討ち取られて壊滅し、信吉と信政は敗走することとなってしまいました。
二番手が迎え撃つ番になると、仙谷忠政は11もの首級を挙げる奮戦を見せますが、毛利隊の勢いは止められませんでした。
やがて三番手までもが撃破されてしまい、無防備状態となった家康本陣に今度は信繁率いる赤備えの軍勢が突撃してきました。
信繁隊の本陣突撃は三度に及び、徳川の旗印は倒され、一時は家康が切腹を口走るほどの総崩れ状態となりました。
しかし兵力に勝る徳川方が徐々に盛り返し、やがて信繁は討死、大坂城は落城して秀頼も自害し、ここに豊臣家は滅亡しました。
後世、信繁は家康を追い詰めた大坂方の英雄として、「幸村」の名で語り継がれるようになりました。

再建
戦後、信之は信吉に沼田を譲って上田に戻りました。
しかし、秀忠の命によって信之は近隣の松代に移封となり、上田には仙石忠政が入ることになりました。
忠政は上田城の再建に取り掛かり、櫓などを建造しました。
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忠政の2代後の政明の代に、信吉の子である沼田真田家当主・信直が改易されると、3男・栗本直堅と4男・辰之助は仙石家の預かりとなり、上田城に軟禁されました。
政明が但馬国(今の兵庫県)出石に転封となると上田には松平忠晴が入り、そこからは代々松平家の統治が続きました。

眞田神社
江戸幕府が滅亡すると、上田城は明治政府によって接収された後に廃城となり、その後民間に払い下げられました。
廃城となった上田城跡は桑畑や麦畑に変わっていきましたが、城跡の荒廃を危惧する旧上田藩士や領民によって、本丸跡に松平神社が建立されました。
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昭和時代には櫓が博物館として利用されるようになるとともに、城域に新たな博物館も建てられました。
また、松平神社は真田・仙石・松平の歴代全上田城主及び信繁を合祀する神社となり、「眞田神社」と改称されました。
上田城がかつて徳川の大軍に二度も攻め込まれながらも「落ちなかった」というところから、眞田神社は受験生の人気を集める神社となっています。

100名城制覇まで残り42城

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