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38番 岩村城(岐阜県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代の初め、平氏討伐に功のあった加藤景廉が源頼朝から美濃国の遠山庄を拝領しました。
後に景廉の嫡男・景朝がこの地に着任し、姓を地名に倣って「遠山」と改めました。
この頃遠山氏の砦として築かれたのが、初期の岩村城です。

戦国時代には近隣の織田・徳川・武田家等が狙う戦略の要衝となり、徐々に山全体が城塞化していきました。
岩村城の城主には代々秘蔵の蛇骨が受け継がれていて、敵が急襲してきたときに「霧ヶ井」という井戸にそれを投げ込むとたちまち山全体を霧が覆って敵をかく乱できたという言い伝えがあり、「霧ヶ城」とも呼ばれています。
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さて、遠山氏の末裔・景任が城主を務めていた頃、織田信長はこの地を自分の勢力化に置くため、年下の叔母・おつやの方を景任と結婚させます。
武田信玄が攻め込んできたこともありましたが、信長の援護によって城は守り抜かれました。
ところが程なくして景任が病没し、世継ぎがいなかったため、信長は5男・御坊丸を養子として差し出しました。
御坊丸は幼少であったため、おつやの方が岩村城の女城主として政務を執ることになりました。

しかし、この地をあきらめていなかった信玄は、徳川家康のいる遠江国(今の静岡県)を攻める際、家臣の秋山虎繁に対して岩村城攻略を命じました。
堅牢を誇った岩村城はなかなか落ちませんでしたが、このとき虎繁は一計を案じます。
それは、「おつやの方と虎繁の結婚」でした。
戦を長引かせたくなかったおつやの方はこの案を呑み、虎繁は岩村城を奪取することに成功します。
このとき、信長から養子として差し出されていた御坊丸は、甲府に送られてしまいました。
当然ながら、城と息子を奪われてしまった信長は激怒しました。
数年後、信玄が病没し、跡を継いだ勝頼も長篠の戦いで大敗して武田氏の勢力に陰りが見え始めると、信長は嫡男・信忠を総大将として大軍を送り込み、岩村城の攻略に成功します。
そして、おつやの方は虎繁らとともに裏切り者として逆さ磔の刑に処されてしまいました。

その後、岩村城の城主は次々と変わっていき、信長が本能寺で横死した後は森長可が接収します。
この時代に、家老・各務元正によって城は近世城郭として再構築されていきました。
岩村城には天守はありませんが、急峻な山岳地帯に築かれた城なので、本丸に6段の石垣があります。
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羽柴秀吉と家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発すると、長可は秀吉方に付いて小牧山に進軍します。
その間、家康の元に逃れていた遠山氏の利景が岩村城に攻め込みますが、元正によって撃退されました。
しかし、この小牧・長久手の戦いによって長可は戦死し、森氏は弟の忠政が相続することになりました。
合戦は家康の勝利に終わりますが、秀吉は家康を懐柔して臣下にすることに成功します。
その後、羽柴改め豊臣秀吉は天下統一を成し遂げます。

秀吉が死去した後、忠政は信濃国(今の長野県)松代に転封となり、代わりに田丸直昌が入城しました。
やがて家康と上杉景勝の対立が激化し、家康が上杉討伐のため会津に進軍すると、直昌も討伐軍に従軍しました。
しかし、その間隙をぬって石田三成が挙兵すると、直昌もそれに呼応して西軍の一員として大坂城の守備に就きました。
家康は、利景らに命じて岩村城を攻撃させます。
やがて、関ヶ原で家康率いる東軍が勝利を収めると、岩村城の田丸軍は投降し利景が城を接収します。

家康は田丸家を改易とし、利景には功を認めて旧領の明知を与え、岩村城には親族の松平家乗を入れました。
家乗は、山上にあった城主居館を山麓に移しました。
その後江戸時代の間、一時丹羽家が藩主を務めた時期もありましたが、基本的に松平家が岩村藩を治めました。

明治時代になると廃城になってしまい、石垣と山麓の藩主邸を除く建造物が破却されてしまいました。
残った藩主邸も明治14年に全焼してしまいますが、平成2年に門や太鼓櫓などが復元されました。
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この門の奥に岩村町歴史資料館があり、そこに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り79城

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