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14番 水戸城(茨城県) [日本100名城めぐり]

馬場城
鎌倉時代の初期、常陸平氏の嫡流である常陸国大掾(だいじょう)・吉田資幹は、那珂川と千波湖に挟まれた地に「馬場城」を築きました。
資幹の子孫は、大掾職を世襲するようになって「大掾氏」と呼ばれるようになりました。
執権北条氏の滅亡後、帝(後醍醐天皇)が足利尊氏に京都を追われたことで京都の北朝と吉野の南朝が並立するようになると、大掾家当主・高幹は南朝方に付きますが、常陸源氏の嫡流・佐竹義篤に敗北して北朝方にくだりました。
義篤はさらに南朝方の那珂氏を攻め、一族全滅から生き残った通泰は北朝方にくだりました。
尊氏が征夷大将軍に就任すると、尊氏から戦功を認められた義篤が常陸守護に任ぜられ、大掾と那珂はその傘下に入ることとなりました。
その後、義篤は、初代鎌倉公方に就任した尊氏の4男・基氏に仕えることとなりました。
通泰の子・通高の代に、那珂は「江戸」と改姓しました。
大掾も江戸も名目上は佐竹の家臣でしたが、事実上の独立勢力として振舞って着々と力を付けていきました。
4代鎌倉公方・持氏の代に、持氏と対立した上杉禅秀が関東管領職を辞して反乱を起こすと、大掾家当主・満幹は禅秀方に付きますが、鎌倉公方方に付いた江戸家当主・通房に敗れ、馬場城は通房のものとなりました。

鬼義重
戦国の世になると、関東地方は小田原を本拠とする北条氏が支配するようになりました。
豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると、江戸家当主・重通は北条方に付きました。
北条、伊達の2大勢力に圧迫されていた佐竹家の当主・義宣とその父・義重は、これを好機と見て北条方の諸城を落としながら小田原に進軍し、秀吉に臣下の礼を取りました。
北条が敗北すると、秀吉の命で江戸の所領は没収となり、馬場城も義重に攻め落とされました。
義宣は馬場城を佐竹の新たな本拠と定め、大改修を行いました。
格調の高い薬医門が構えられ、城名は「水戸城」と改められました。
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困ったほどの律義者
義宣の従弟・宇都宮国綱が秀吉から改易されるという事件が起こると、佐竹家も連座することになりかけますが、石田三成の取成しによって事なきを得ました。
秀吉の死後に三成と徳川家康との間で対立が激化すると、義宣は恩義のある三成に味方しようとしますが、時流を読むことに長けていた義重からは猛反対されて徳川方に付くことを促されます。
意見が割れてどっち付かずの態度を取っている間に関ヶ原で決着がついてしまい、勝利を収めた家康によって佐竹は水戸から追放され、出羽国(今の秋田県)に転封となってしまいました。

生瀬騒動
家康は空いた水戸城に5男・松平信吉を入城させますが、信吉が嫡子なく没してしまったため、その弟・長福丸が水戸の領主となりました。
長福丸は幼少であったため江戸に居住し、現場の実務は家臣の蘆沢信重と伊奈忠次が担当しました。
ある秋の日、領内の生瀬村から役人の死体が城下に送り届けられるという事件が起こりました。
話を聞くと、役人が生瀬村に年貢の取立てに来たので百姓たちは素直に納めたのですが、しばらくしてまた別の役人が取立てに来たので、百姓たちはこの役人を偽物と判断して殺害したとのことでした。
ところが、調べてみると実は最初の役人の方が偽物で、百姓たちが殺害したのは本物の役人でした。
領内にはまだ旧領主の佐竹を慕うものも多く、これを穏便に済ませば今後の領地経営に影響すると考えた信重は生瀬村に出兵し、村民を皆殺しにしました。
この事件は公式記録には残されませんでした。

水戸徳川家
元服して「頼宣」と名乗るようになった長福丸は駿府へ転封となり、代わりにその弟・鶴千代丸が入城することになりました。
鶴千代丸も最初は江戸に居住していましたが、元服して「頼房」と名乗るようになってから水戸に入府しました。
頼房は城と城下町の拡充に取り組みますが、頼房の家は財政状況が非常に厳しかったため、佐竹時代の遺構や自然の地形を可能な限り活用することとなりました。
天守を築く余裕もなかったので、代わりに三階櫓を建造しました。
その後、頼房の家は「水戸徳川家」となり、尾張徳川家や頼宣の家である紀州徳川家とともに、徳川宗家の血が途絶えたときに将軍を出す「徳川御三家」の一つとなりました。

天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門
頼房の嫡男・光国は素行不良の青年でしたが、ある時、司馬遷の「史記」伯夷伝を読んで感銘を受けて史学に目覚め、日本史の編纂を始めました。
頼房が死去すると、家督を継いだ光国は編纂作業を中断して政務に専念するようになりました。
水戸の城下は飲料水に不自由していたため光国は地下水道を整備し、この業績によって光国は領民から慕われるようになりました。
政務が落ち着いてくると、光国はかつて取り組んでいた日本史編纂作業を、御家を挙げての一大事業として再開することにし、編纂のための調査として儒学者を諸国に派遣しました。
彼らが編纂する日本史は天皇に対する忠臣・逆臣をはっきりさせるものであったため、水戸では尊王思想が芽生えるようになり、「水戸学」という学問が形成されました。
光国はさらに学校の設立も計画し、清に滅ぼされた明の遺臣で、長崎に亡命していた朱舜水を招聘しました。
学校設立は財政の事情で果たせませんでしたが、実学派儒学者である舜水の思想は水戸学に大きな影響を与えました。
「光圀」と改名した後は、快風丸という巨船を建造し、三度にわたって蝦夷地(今の北海道)を探検させました。
甥の綱條に家督を譲って隠居した後も、光圀は文化事業を推し進めました。
やがて光圀は高齢で死去しますが、その後も日本史編纂事業は継続されました。

天狗党
11代将軍・家斉の治世、綱條の5代後の当主・斉脩が重病に服すると、斉脩に子がいなかったことから跡継ぎ問題が発生しました。
斉脩には紀教という異母弟がいましたが、水戸の門閥層の大多数は、紀教は跡継ぎとして不適当であるとして、家斉の子でもある、斉脩正室・峰姫の弟・清水恒之丞を次期当主に迎えようとしました。
これに対して、紀教が少年時代に教えを受けた水戸学藤田派の学者・会沢正志斎や藤田家当主・東湖らは、血統の近い紀教を跡継ぎとして立てるべきと主張し、徒党を組んで江戸へ越訴しました。
斉脩の死後に「紀教を跡継ぎにする」という遺書が発見されたため、紀教が家督を継ぎ、家斉より偏諱を賜って「斉昭」と改名しました。
斉昭は、自らの擁立に関わった東湖、会沢、戸田忠敞、武田耕雲斎ら同志を登用し、彼らを改革の担い手としました。
斉昭に登用された一派は、反対派から「鼻を高くして偉ぶっている」ということで「天狗党」と呼ばれるようになりますが、斉昭は「水戸では、義気があって国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言う」と主張し、「天狗党」は自他共に認める呼称となりました。

烈公
斉昭は、宮家から降嫁された吉子女王により、嫡男・鶴千代麿や3男・七郎麻呂など、3男1女に恵まれました。
その後、斉昭は、崇敬する光圀の悲願であった学校を三ノ丸に設立し、「弘道館」と名付けました。
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水戸学信奉者の斉昭は尊王思想がとても強く、また、この頃には蝦夷地にてロシア船が出没するなどの外患が相次いでいました。
そこで斉昭は、弘道館の教育理念に「尊王攘夷」を掲げました。
次いで、家臣や領民とともに皆で楽しめる公園として、偕楽園を開きました。
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その後、斉昭は大規模な軍事訓練や廃仏運動を実施しますが、これが幕府に疎まれることとなり、強制的に家督を鶴千代麿に譲らされ、謹慎の身となってしまいました。
鶴千代麿は元服し、12代将軍・家慶の偏諱を賜って「慶篤」と名乗りました。
その後、天狗党による復権運動などもあって、斉昭の謹慎は解除されました。
御三卿の一角の一橋徳川家の当主・昌丸が嫡子なく死去すると、家慶のたっての希望により、七郎麻呂が一橋徳川家に入りました。
七郎麻呂は一橋徳川家の家督を継いだ後で元服し、家慶の偏諱を賜って「慶喜」と名乗りました。

将軍継嗣問題
マシュー・ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航して幕府に開国を迫ると、尊王攘夷派と開国派による国を二分する対立が発生しました。
斉昭は断固として開国に反対しますが、この騒動の中で家慶が死去しました。
幕府は日米和親条約を締結して開国に踏み切りますが、家慶の跡を継いで13代将軍となった家定は病弱で子を成せる見込みもなかったため、その継嗣を慶喜にする(一橋派)か、紀州徳川家当主・慶福にする(南紀派)かを巡った対立も発生しました。
アメリカが修好通商条約の締結を強く求めてくるようになると、安政5年、南紀派によって彦根藩主・井伊直弼が大老に擁立され、その後すぐに日米修好通商条約が締結されました。
この条約締結が無勅許で行われたことに憤った斉昭は、慶篤、慶喜、尾張藩主・徳川慶恕、福井藩主・松平春嶽を巻き込んで、直弼を詰問しに行きますが、逆に処分が下され、斉昭と慶喜は謹慎、慶篤は登城停止となりました。

戊午の密勅
家定が死去し、慶福改め家茂が14代将軍に就任すると、直弼はさらに権力を自分に集中させていきました。
程なくして、時の天皇(孝明天皇)からの「攘夷推進のための幕政改革を実行せよ」という内容の密勅が、水戸徳川家に下賜されました。
これを知った直弼は、水戸徳川家に対して勅書の返納を求めてきました。
水戸では、天狗党の中でも、勅書を返納した方がよいという会沢らの「鎮派」と、勅書の内容どおり諸藩に廻達すべしという高橋(多一郎)愛諸、金子(孫二郎)教孝らの「激派」に割れ、対立が起こりました。
やがて、直弼の介入によって激派の中心人物が粛清され、斉昭も永蟄居となりました。
その後、幕府は事態収束を朝廷に働きかけ、公武合体の道を模索し始めるとともに、水戸徳川家に対しては勅書を幕府に返納することを命じてきました。
水戸では返納論が主流となっていましたが、激派は水戸街道を閉鎖して返納を実力で阻止するために長岡宿に屯集しました。
そして、高橋、金子ら激派主要人物は「直弼排除」の計画を開始し、江戸に潜入していきました。

桜田義挙
安政7年3月1日、金子は日本橋西河岸の山崎屋に水戸藩の同志と薩摩浪士・有村(雄助)兼武を集め、2日後の早朝、雛祭りの祝賀のために登城する直弼を外桜田門の前で襲撃するという作戦を決定しました。
決行前夜、品川宿の相模屋にて訣別の酒宴が催され、そこで彼らは藩に塁が及ばないように除籍願を届け出ました。
決行当日は、明け方から季節外れの雪模様でした。
関(鉄之介)遠以下17名の水戸浪士と1名の薩摩浪士は愛宕神社に集結した後に現地に入り、外桜田門前の大名行列見物の町人に紛れて彦根藩の到着を待ちました。
尾張藩の行列が通過していった後に彦根藩上屋敷の門が開き、中から駕籠を担いだ行列が出てきました。
護衛の供侍の数はおおよそ60で、折からの雪のため雨合羽を羽織り、刀の柄や鞘にも袋をかけていました。
行列が外桜田門の前に差し掛かると、森(五六郎)直長は直訴状を掲げて供頭に走り寄りました。
取り押さえようとした彦根藩士に森が斬り掛かり、護衛の注意が引き付けられたところで黒澤(忠三郎)勝算が駕籠めがけてピストルを発砲しました。
弾丸は駕籠に命中し、町人に紛れていた同志たちは一斉に抜刀して襲撃を開始しました。
不意を突かれた上に刀に袋をかけていた彦根藩士たちは動揺し、逃げ出していく者が続出しました。
激しい乱戦の後、同志たちは直弼の駕籠に一斉に刀を突き立てました。
そして有村が虫の息の直弼を引きずり出し、その場で首を斬り落としました。

けいきさん
事件後、襲撃に関わった者はほとんどが自刃、もしくは捕縛後に斬首されました。
この混乱で勅書の返納問題はうやむやになり、そのうちに斉昭が病没しました。
直弼が殺害されたことで尊王攘夷運動は全国的な盛り上がりを見せるようになり、水戸では激派が復権して耕雲斎が執政となりました。
朝廷でも長州と結び付いた尊王攘夷派が実権を握り、幕府に対して強硬な攘夷実行を要求するようになりました。
そのような情勢の中で慶喜は「将軍後見職」に就任し、家茂が朝廷から上洛を求められると、先に上洛することになりました。
一橋徳川家は家臣が少ないので水戸徳川家が付き従うことになり、慶篤は耕雲斎や東湖の子・信(小四郎)らを帯同して上洛しました。
後から上洛した家茂が天皇に対して横浜鎖港等の攘夷決行を表明する一方、信らは京都で長州藩の桂(小五郎)孝允や久坂玄瑞らと交流を持ち、尊王攘夷の志をさらに強固なものとしました。
文久3年、家茂や慶喜が江戸に戻った後の8月18日、朝廷で政変が起こり、尊王攘夷派が失脚しました。
長州でも保守派が実権を握ったので、各地の尊王攘夷派浪士は水戸に集まってきました。
家茂が再上洛すると天皇は横浜鎖港を実行に移すよう要求しますが、有力諸侯の多くは鎖港に反対しました。
鎖港推進派の慶喜は将軍後見職を辞し、代わりに朝廷から「禁裏御守衛総督」に任ぜられました。

天狗党の乱
鎖港がなかなか実現しないことに痺れを切らした信は、幕府に圧力をかけるため、62人の同志たちとともに筑波山で挙兵に及びました。
この「筑波勢」の下には各地の浪士や農民らが続々と集結し、その数はどんどん膨れ上がっていきました。
耕雲斎は、当初は甥である信に過激な行動を諌めていましたが、次第に筑波勢の圧力を背景にして幕政に介入するという方針に転じていきました。
水戸では、保守派の市川(三左衛門)弘美が弘道館の諸生(書生)を集め、鎮派の一部とも手を結んで「諸生党」を結成し、激派の排撃を開始しました。
筑波勢の数は700人にも達し、軍資金が不足することとなったので近隣の役人・富農・商人から資金の徴発を行いますが、これを断った宿場町に対して別働隊が虐殺行為を行ったことにより、筑波勢は暴徒として認識されることとなってしまいました。
慶篤の下には幕府からの筑波勢鎮撫要請が届きましたが、激派が実権を掌握していたこともあって、慶篤は「あくまで横浜鎖港が先である」とこれを断りました。
家茂が江戸に帰着すると再度の要請が届き、これに呼応する形で市川ら諸生党600人が慶篤のいる江戸屋敷に急行しました。
結果、武田ら激派は追放となり、代わって諸生党員が重役を占めることになりました。
追放された激派は鎮派と手を組み、下総国(今の千葉県)小金で尊王攘夷派士民を大量に動員しました。
彼らが圧力をかけてきたので、慶篤は諸生党を追放し、天狗党が再び江戸屋敷を掌握しました。
その後、筑波勢の挙兵に呼応した久坂ら長州の尊王攘夷派が武装して上洛し、警護に当たっていた会津・薩摩と交戦に及んで御所に発砲した末に敗走するという非常事態が起こると、鎖港問題は朝廷の中で棚上げとなってしまい、筑波勢は大義名分を失うこととなってしまいました。
この一件により、慶喜も禁裏御守衛総督という立場から、尊王攘夷派に対する融和的な態度を放棄しました。
幕府が追討令を出すと、諸生党を含む常陸国・下野国(今の栃木県)の諸藩が出兵し、幕府陸軍も加わりました。
追討軍が下妻近くの多宝院で筑波勢からの夜襲を受けると、水戸に逃げ帰った諸生党員は筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に火を放ち、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行いました。
市川らが水戸の実権を掌握して藩政を動かすようになると、筑波勢のうち信ら水戸出身者による本隊が城下に攻め寄せてきました。
諸生党が撃退すると、筑波勢は那珂湊近郊まで撤退していきました。

那珂湊の戦い
慶篤は本国の混乱を収めるため、支藩・宍戸藩主の松平頼徳を名代とし、天狗党員らを従わせて水戸に下向させました。
この「大発勢」には、諸生党に失脚させられた耕雲斎らや、小金に集結した尊王攘夷派士民も合流し、3000人に膨れ上がりました。
大発勢が水戸城下に入ると、その中に尊王攘夷派が多数含まれていることを知った市川らは、戦備を整えて一行の入城を拒否しました。
頼徳と市川が交渉を行っている間に水戸郊外で交戦が始まり、頼徳は大発勢とともに那珂湊に撤退していきました。
大発勢は筑波勢の加勢を得て再び進軍してきますが、諸生党は幕府追討軍とともに撃退し、那珂湊に追い込んで包囲しました。
幕府海軍による艦砲射撃の後、幕府軍と諸生党は助川海防城を攻略しました。
市川は頼徳を誘い出した上で切腹させ、これによって頼徳の家臣らが投降し、大発勢は壊滅しました。

討つもはた 討たれるもはた 哀れなり 同じ日本の 乱れとおもえば
那珂湊からの脱出に成功した1000人余りは大子村に集結しました。
彼ら天狗党の最後の望みの綱は、京都にいる慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷の志を伝えることでした。
天狗党は旧大発勢の中心人物の耕雲斎を首領、旧筑波勢の中心人物の田丸(稲之衛門)直允と信を副将とし、京都に向かって進軍を始めました。
通過地の藩兵と交戦することもありましたが、やがて一行は美濃国(現在の岐阜県)鵜沼宿に到達しました。
一方、京都の慶喜は天狗党を切り捨てることを決断し、加賀藩・会津藩・桑名藩の4000の兵を率いて出陣しました。
天狗党一行は越前国(今の福井県)新保宿に到達しますが、そこで追討軍に包囲され、しかもその中の一隊を慶喜が率いていることを知ったため、進軍を断念して投降しました。
耕雲斎、信ら幹部は斬首となり、他の構成員にも処刑・遠島・追放などの処分が下されました。
諸生党員は天狗党幹部の首を水戸に持ち帰って晒し、乱に加担した者の家族を次々に処刑していきました。
耕雲斎の孫・金次郎は、若年であることから処刑を免れ、小浜藩の預かりとなりました。
一部の天狗党残党は長州の支援を受けて京都に潜伏し、「本圀寺党」を結成しました。

大政奉還
長州征討の陣頭指揮を執っていた家茂が大坂城で死去すると、慶喜は長州藩との休戦協定を締結した後に将軍に就任しました。
金次郎らは、小浜藩から准藩士格の厚遇を受けるようになりました。
慶喜がフランスの支援を仰いで軍制改革を行う一方、長州とその同盟藩である薩摩はイギリスの支援下で着々と武力倒幕の準備を進めていました。
慶喜は武力倒幕の口実を奪うために機先を制して大政奉還を行いますが、薩摩・長州の働きかけによって朝廷から王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
慶喜は「朝敵」となってしまいましたが、宮家出身の母を持ち、水戸学を学んで育った慶喜はそれを良しとせず、一部の近習のみを連れて江戸に引き揚げ、上野寛永寺で謹慎を始めました。
江戸開城が決まると慶喜は水戸に帰り、弘道館で引き続き謹慎を続けました。

弘道館戦争
世の趨勢が変わったのを見た金次郎ら天狗党の生き残りは、本圀寺党と合流して「さいみ党」を結成し、朝廷から諸生党追討の勅諚を取り付けました。
この動きを察知した市川は諸生党員500人を率いて水戸を脱出しますが、水戸に帰還したさいみ党は報復を開始し、諸生党の残党や諸生党員の家族を次々に処刑・投獄し始めました。
水戸を脱出した諸生党員は「市川勢」として奥羽越列藩同盟の傘下に加わり、北越、会津と転戦を続けました。
その間、徳川宗家が駿府に移封になり、慶喜も一緒に駿府に移っていきました。
会津藩が降伏すると、一縷の望みをかけて水戸に攻め上ってきた市川勢により弘道館が占拠されますが、激しい銃撃戦の末にさいみ党が撃退しました。
その後、さいみ党は新政府軍とともに市川勢を追撃して壊滅させました。
市川は潜伏先の東京で捕縛され、身柄を引き渡された水戸藩は郊外の処刑場で逆さ磔の刑に処しました。

水戸空襲
新政府によって水戸城は廃城となり、その跡地には学校が建てられて文教区域となりました。
明治39年、慶篤の孫・圀順により、光圀の時代から編纂が始まった「大日本史」がついに完成しました。
その後、近隣の日立市で日立製作所が創業すると、やがてその辺り一帯は工業地帯となり、水戸市にも下請工場や労働者の住宅が多く建設されるようになりました。
太平洋戦争が勃発すると、昭和20年8月2日、日立市の軍需工場を狙った大空襲が行われ、下請工場がある水戸市街もほぼ全域が焼失し、水戸城でも三階櫓が焼失するなどの被害が出ました。

親善都市盟約
戦後、戦火を免れた薬医門が水戸第一高等学校に移築されました。
昭和43年には、直弼の曾孫・直愛が市長を務める彦根市との間で、和解の印としての親善都市盟約が結ばれました。

100名城制覇まで残り53城

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