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18番 鉢形城(埼玉県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、関東地方は関東管領・上杉氏の勢力下にありました。
上杉氏はいくつかの氏族にわかれていましたが、その一つである山内上杉氏の顕定は室町幕府に対して反乱を起こした古河公方・足利成氏と戦っていました。
山内上杉氏では、家宰として長尾景信が実権をふるっていましたが、この景信が没した後、嫡男の景春は後継者として認められませんでした。
これを恨みに思った景春は鉢形に城を築き、上杉氏に対して反乱を起こしました。
この時築かれたのが鉢形城です。

この反乱は、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の定正の家臣であり、景春の従兄弟でもある太田道灌によって鎮圧され、景春は秩父へ落ち延び、顕定が鉢形城に入城しました。
ところが、道灌は主君である定正に暗殺されてしまいました。
その後景春は定正の下に付き、あくまで顕定を討つことを目指します。
しかしその顕定も、越後国(今の新潟県)で反乱を起こした従兄弟の定実と長尾為景を討とうと出陣しますが、敗死してしまいます。
その後も上杉氏は同族争いや跡目争いを繰り広げますが、顕定から4代後、憲政が関東管領職に就き、鉢形城に入城しました。
ところが、この頃から関東では後北条氏が台頭しだし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の連合軍が北条氏康に河越夜戦で大敗を喫し、憲政はかつて顕定を討った為景の息子、景虎を頼って越後に逃れます。
景虎は憲政の養子となり、後に上杉謙信となります。

空いた鉢形城には、氏康の息子の氏邦が入りました。
氏邦の時代に御殿なども造営され、現在は御殿曲輪などが残っています。
hachigata1.jpg

鉢形城は戦略上の要衝であったため、小田原を攻めた武田信玄や、謙信の攻撃も受けました。
信玄も謙信も後北条氏を討つには至りませんでしたが、やがて西の方では豊臣秀吉が天下統一を成そうと勢力を伸ばしてきました。
秀吉は天下統一の総仕上げに後北条氏を討つことを決め、鉢形城も前田利家や謙信の息子・景勝らの軍勢に攻め込まれ、開城に追い込まれてしまいました。
そしてその役目を終えた鉢形城は、廃城になってしまいました。
付近の住民たちは、廃城になった鉢形城を忍び、かつて馬出のあったところに諏訪神社を建立しました。
hachigata2.jpg

そして現代、学術的価値の高さから、鉢形城の発掘・整備・復元が進められています。
平成16年には四脚門などが復元整備され、鉢形城公園としてオープンしました。
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城域内には鉢形城歴史館も建てられており、ここに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り52城

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