SSブログ

92番 熊本城(熊本県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が茶臼山丘陵に千葉城を築きました。
出田氏の力が衰えると、菊池氏は代わりに鹿子木親員に隈本城を築かせて入れました。
親員の孫・鎮有の代に菊池義武が隈本城に迎え入れられますが、やがて大友義鎮に追われ、その後は義鎮の協力者の城親冬が入城しました。

やがて、安土桃山時代に豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、親冬の孫・久基は城を明け渡し、代わりに織田信長の旧家臣で秀吉の家臣になっていた佐々成政が入城します。
しかし成政は秀吉の意に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こします。
この一揆では隈本城も攻撃されましたが、何とか鎮圧されました。
しかし、一揆の責任を取らされ、成政は切腹となりました。

次に城に入ったのは同じく秀吉の家臣・加藤清正でした。
清正は、桃山時代の終わりから江戸時代の初期にかけて、千葉城、隈本城のあったところに新たに城を築きなおし、「隈本」を「熊本」と改めました。
朝鮮出兵の時に苦しんだ経験を生かし、随所に防衛の工夫が盛り込まれた堅城でした。
この時に天守も築かれ、また、他の城であれば天守とされていてもおかしくないぐらいの巨大櫓「宇土櫓」も築かれました。
kumamoto1.jpg

清正は熊本城や熊本の町の基礎を作り、領民からは清正公(せいしょこ)さんと呼ばれて慕われていました。
しかし、清正の息子の忠広の代に加藤家は改易され、代わりに細川忠利が入城しました。
忠利は、剣豪・宮本武蔵を客分として迎え入れ、旧千葉城に屋敷を与えました。

細川氏も城の改築を積極的に行いました。
細川氏ゆかりの細川刑部邸も残っています。
kumamoto2.jpg

やがて江戸時代も終わり、時代は明治を迎えます。
西郷隆盛ら西国の武士たちによってなされた明治維新ですが、近代化とともに武士は必要なくなり、武士は士族と呼ばれるようになって、熊本城には鎮西鎮台が置かれました。
次々と特権を廃止していく明治政府に対し、士族の不満は日に日に募るばかりでした。
そしてついに肥後藩の士族が反乱を起こしました。
神風連の乱です。
反乱軍は熊本城を攻撃しますが、児玉源太郎らが率いる政府軍に鎮圧されました。
しかしこの乱が火種となり、萩の乱、秋月の乱、そしてついに鹿児島に下野していた西郷が立ち上がり、西南戦争が勃発しました。
西郷軍は鹿児島から北上すると、熊本城の攻略を目指しました。
対する鎮西鎮台には谷干城が司令官として任じられました。
西郷軍が熊本城に総攻撃をかけようとする二日前、突如城内で出火し、天守が焼け落ちてしまいました。
出火の原因には諸説ありますが、司令官の谷が背水の陣を敷くため参謀の児玉に命じて焼かせたとも言われています。
そしていよいよ西郷軍の総攻撃が始まりますが、西郷軍は近代装備を備えているにもかかわらず、江戸時代初期に築かれた熊本城の鉄壁の防御の前に一兵たりとも侵入することができず、ついには敗走を始めます。
この時西郷は、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったと伝えられています。
やがて西郷軍は故郷鹿児島で鎮圧されてしまいました。

昭和時代、熊本はアメリカ軍の空襲を受けますが、熊本城は奇跡的に焼失を免れました。
そして昭和35年、築城350年を記念して天守等の建物が復元され、熊本城は観光地として再スタートを切りました。
kumamoto3.jpg
城内に入る四か所の門に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り50城


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。