15番 足利氏館(栃木県) [日本100名城めぐり]
平安時代の末期、源義国は父・義家から相続した下野国の開発地を安寿楽院に寄進し、足利庄が成立しました。
息子の義康は父・義国から相続した足利庄に居館を構え、足利姓を名乗るようになります。
この時代の地方武士の館らしく、館の周りは堀と土塁で囲まれていました。
やがて源頼朝が鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まると、義康の息子・義兼は館内に持仏堂を建立しました。
また、自身も出家して鑁阿(ばんな)という僧名を持ちました。
足利氏館の隣には日本初の大学と言われる足利学校があり、これは義兼が設立したとも中興したとも言われています。
義兼の息子・義氏は居館を引き払って代わりに伽藍を整備し、足利氏一門の氏寺「鑁阿寺」として整備していきました。
やがて本堂が火事で焼失しましたが、義氏から4代後の貞氏の代に本堂が再建されました。
貞氏の息子・尊氏は室町幕府を開いたので、足利氏の拠点は京に移っていきましたが、鑁阿寺は足利氏一門の菩提を弔う寺として存続し続けました。
本堂および山門横の休憩所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り49城
息子の義康は父・義国から相続した足利庄に居館を構え、足利姓を名乗るようになります。
この時代の地方武士の館らしく、館の周りは堀と土塁で囲まれていました。
やがて源頼朝が鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まると、義康の息子・義兼は館内に持仏堂を建立しました。
また、自身も出家して鑁阿(ばんな)という僧名を持ちました。
足利氏館の隣には日本初の大学と言われる足利学校があり、これは義兼が設立したとも中興したとも言われています。
義兼の息子・義氏は居館を引き払って代わりに伽藍を整備し、足利氏一門の氏寺「鑁阿寺」として整備していきました。
やがて本堂が火事で焼失しましたが、義氏から4代後の貞氏の代に本堂が再建されました。
貞氏の息子・尊氏は室町幕府を開いたので、足利氏の拠点は京に移っていきましたが、鑁阿寺は足利氏一門の菩提を弔う寺として存続し続けました。
本堂および山門横の休憩所に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り49城
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