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17番 金山城(群馬県) [日本100名城めぐり]

上野国にある金山の頂上には豊富に水が湧き出る池があり、平安時代から祭祀の場となっていました。
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やがて、この金山の周辺一帯が新田庄として成立すると、この地には源氏の一氏族である新田氏が入りました。
鎌倉時代の間、新田氏は鎌倉幕府の御家人として従っていましたが、義貞の代に後醍醐天皇の討幕の動きに乗り、鎌倉を攻め落としました。
しかしその後、造反して北朝を立てて室町幕府を開いた足利尊氏に敗れ、義貞は戦死します。

室町時代、応仁の乱が始まった頃、新田氏の後裔・岩松家純は分裂していた一族を統一し、新田庄を領有した上で、重臣の横瀬国繁に命じて金山に城を築かせました。
しかし戦国時代になると、国繁の4代後の成繁が下剋上を起こし、金山城を乗っ取りました。
その後、成繁は横瀬氏から由良氏へと改姓しました。
成繁の時代に、上杉謙信、武田勝頼、佐竹義重など周辺の大名に次々と攻め込まれましたが、ことごとく撃退してきました。
成繁の死後、金山城は後北条氏に攻め込まれました。
このとき、成繁の妻・妙印尼は71歳にして籠城戦を指揮しましたが、小田原城に軟禁されていた息子・国繁の助命を条件に後北条氏に下ることとなり、金山城は後北条氏のものとなりました。
しかし、桃山時代になると西の方で台頭してきた豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに大軍を率いて小田原城を攻め落としたことによって、後北条氏は滅亡し、金山城も廃城となりました。

秀吉の死後徳川家康が天下を取って江戸時代が始まると、新田氏の後裔を自称する徳川氏にとってこの地は重要なものとなり、金山は御用林となりました。
江戸幕府を倒した明治政府もまた、天皇を中心とした国づくりを進める上で、かつて後醍醐天皇に付き従って非業の死を遂げた義貞を称え、明治8年に金山城の本丸跡に新田神社が建立されました。
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昭和9年には国の史跡として公園となり、平成6年からは、かつての金山城を蘇らせるために、石垣等の復元工事が開始されました。
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南曲輪の休憩所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り48城

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