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16番 箕輪城(群馬県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、在原業平の子孫と言われる長野業尚によって、箕輪城が築かれました。
地形が「み」の形をしていたから「箕輪」と名付けられたと言われています。
長野氏は関東管領上杉氏の重臣でしたが、上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に敗れ越後国(今の新潟県)に亡命してからは、長野氏の領地は常に後北条氏や武田氏に狙われることになりました。
業尚の孫の業正の代には、武田信玄による侵攻が何度もあり、そのたびに撃退していたのですが、業正が没してその子・業盛が若くして家督を継ぐと、信玄は箕輪城の周辺の城を次々と調略していきました。
そして、孤立した箕輪城に総攻撃がかけられ、ついに長野氏は滅亡し、箕輪城は武田氏の支配下に入りました。

箕輪城では武田氏の重臣が入れ代わり立ち代わり城代を務めますが、信玄が死去してその子・勝頼が家督を継いだ頃、織田信長・徳川家康連合軍と戦った長篠の戦いで城代・内藤昌豊が討ち死にします。
その後、城代の座は昌豊の子・昌月が継ぎますが、やがて天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、北条氏邦が侵攻してきて箕輪城を接収します。
しかしすぐに、信長の家臣・滝川一益の侵攻を受けて氏邦は撤退します。
ところが今度は信長が本能寺の変で横死したので、再び氏邦が甥の氏直を伴って侵攻し、神流川の戦いで一益を破って箕輪城に再入城しました。
このときに、かつての武田氏の城代・昌月も従っています。

やがて西の方では、信長の遺志を継いだ豊臣秀吉が天下統一事業を進め、残るは後北条氏のみという状況になりました。
このときに危機感を覚えた氏邦は城の改修にとりかかり、巨大な堀切がいくつも作られました。
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しかし、秀吉は空前絶後の大軍を送り、前田利家・上杉景勝連合軍により箕輪城は落城しました。
その後、秀吉によって家康が関東移封となり、箕輪城は家康の家臣の井伊直政に与えられました。
直政は石垣を築くなど、城を近世城郭に作り替えました。
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しかし、直政が近隣の高崎城に移封となると、箕輪城は廃城となりました。

やがて江戸時代になると、かつての長野氏の重臣・下田氏が城下に屋敷を構え、代官を務めるようになります。
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そして現在、その下田氏の屋敷跡に高崎市箕郷支所が置かれています。
この箕郷支所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り47城

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