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26番 松代城(長野県) [日本100名城めぐり]

海津城
室町時代、村上氏の傍流・清野氏は、犀川と千曲川に囲まれた三角地帯・川中島の近隣に館を構えました。
戦国時代、村上義清を破って信濃中南部を平定した甲斐国(今の山梨県)の武田晴信が北信に侵攻してくると、義清ら北信国衆は越後国(今の新潟県)の長尾景虎に救いの手を求めました。
景虎は要請に応じて信濃に出兵し、武田軍と幾度も戦火を交えました。
晴信が出家して「徳栄軒信玄」と号するようになった頃、景虎は北条氏康に敗れて亡命してきた関東管領・上杉憲政の求めに応じて、関東に出兵しました。
上杉軍が小田原城を包囲すると、北条と同盟を結ぶ武田が北信に侵攻してきて、清野氏は館を接収されました。
信玄は、上杉の背後を脅かすため、屋代氏・香坂氏ら配下の国衆に命じてこの地に城郭を作らせました。
「海津城」と名付けられたこの城には、香坂虎綱が城代として入りました。
景虎は小田原城の包囲を解き、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行って「上杉政虎」と改名した上で、対応のために本国に引き上げました。

川中島の戦い
政虎が海津城攻略のために本国を出陣したという情報を入手した虎綱は、信玄に報せを入れました。
上杉軍が海津城西方の妻女山に陣取ると、川中島に到着した信玄本隊は、妻女山北方の茶臼山に着陣しました。
上杉軍に動く気配がないので、信玄は膠着状態を打破するために海津城に入りますが、やがて、川中島一帯に深い霧が立ち込めてきました。
信玄は兵を二手に分け、自身は本隊を率いて八幡原に布陣し、虎綱や馬場信房らが率いる別動隊は妻女山に向かわせました。
翌朝、霧が晴れると、信玄の目の前には、そこにいるはずのない上杉軍の姿がありました。
すぐに大混戦となり、両軍ともに夥しい数の死傷者が発生しました。
虎綱・信房の軍勢が救援に駆け付け撃退には成功したものの、信玄の弟・信繁をはじめとして名立たる家臣が多く討死するなど、武田にとっても甚大な損害を被る結果となりました。

逃げ弾正
その後、虎綱は「春日」に復姓しました。
政虎も「輝虎」と改名し、さらに出家して「不識庵謙信」と名乗るようになりました。
信玄の死後も、跡を継いだ勝頼から虎綱は引き続き海津城代として上杉への抑えを任されました。
勝頼が徳川を攻めるために長篠に出陣すると、海津城守備を命じられた虎綱の代わりに、嫡男・昌澄が従軍しました。
しかし、織田信長・徳川家康の援軍と彼らが装備する大量の鉄砲の前に、武田軍は惨敗してしまいました。
昌澄を含めて多くの家臣が討死したので、武田家は急激に弱体化することとなりました。
謙信が急死したことによって二人の養子・景虎と景勝による跡目争いが始まると、勝頼の調停を求める景勝からの使者が虎綱のもとにやって来ました。
虎綱は勝頼に取り次ぎ、景勝側との交渉にも携わりました。
同盟関係にある北条から景虎後援を依頼されていた勝頼でしたが、金の援助と引換えで景勝の要請に応じることにし、海津城に入って景勝と誓詞を交わしました。
その最中に虎綱がこの世を去り、次男・信達が跡を継ぐことになりました。
勝頼は上杉の本城のある春日山まで進軍して調停を試みますが、不首尾に終わったため、景勝との同盟に方針を切り替えました。
信達も交渉に加わって同盟が成立すると、武田の後ろ盾を得た景勝は争いを優位に進めようになりました。
武田と手切れになった北条に対処するため、信達は駿河国(今の静岡県)三枚橋城に入り、海津城代は安倍宗貞に交代となりました。
その後、景勝は勝利を収めて上杉家の後継者となりますが、天正10年、織田・徳川連合軍に追い詰められた勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡しました。

鬼武蔵
海津城は信長によって織田家臣・森長可に与えられますが、織田支配に抵抗する一部の武田旧臣が上杉と結んで一斉蜂起に及びました。
長可が彼らを根切にして一揆を鎮圧すると、信達をはじめとする信濃国衆は長可に恭順の姿勢を見せるようになりました。
領国統治が容易ではないことを痛感した長可は、国衆に対して妻子を海津城に住まわせる事を義務付けることにしました。
その後、柴田勝家が攻めている魚津城の救援に景勝が向かったという報せを受けた長可は、5000の兵を率いて越後侵攻を開始しました。
諸城を次々に陥落させ、春日山に肉薄するまでに至った長可のもとに、やがて二つの報せが入りました。
一つは「森軍に対処するため景勝が魚津を撤退したことで、勝家が魚津城攻略に成功した」という報せ、もう一つは「京都の本能寺で信長が明智光秀に急襲されて自害した」という報せでした。

甲斐一乱
一転して敵地深くに取り残される形となってしまった長可は、急いで陣を払って信濃に撤退し、軍議を開いて仇を討つことを決定しました。
しかし、領国ではすでに、信長死亡の報を聞きつけていた武田旧臣が反乱を起こしていました。
やむなく領国を放棄することにした長可は、海津城内に住まわせていた人質を連れ出し、美濃国(今の岐阜県)に向けて南進を開始しました。
武田旧臣の動きに呼応して上杉も侵攻してきたので、信達はこの機に森をせん滅しようと攻撃を開始しますが、森軍が連れて行った人質の中には嫡男・庄助の姿もありました。
森との協議の結果、信達は攻撃の手を止めますが、森軍が松本に到着すると庄助は長可の手によって殺害され、その他の反乱勢力の人質も森軍によってことごとく処刑されました。
海津城を奪還した信達は上杉に属することにしますが、武田時代の同僚でもある上田城主・真田昌幸の誘いに乗り、佐久郡に出兵してきた北条にも内通するようになりました。
しばらく後、信達は景勝の陣所に呼び出され、その場で殺されました。

上田合戦
信達誅殺後、景勝から城代を命じられて海津城に入った須田満親のもとに、昌幸からの使者がやって来ました。
北条に従っていたはずの昌幸はいつの間にか徳川についており、そして今度は上杉への転属を申し出てきたのです。
満親は交渉役を務めてこの話をまとめ、昌幸の次男・信繁を人質として預かりました。
その後、徳川が上田に攻め込むと、満親は景勝に真田救援を強く進言し、手勢を率いて真田軍に加勢して徳川軍の撃退に貢献しました。
一方、上方では、光秀を破って信長の仇を討った豊臣秀吉が、関白として天下を差配するようになっていました。
秀吉に臣従することに決めた景勝は上洛し、満親も付き従いました。
景勝は豊臣政権の中で重要な役割を与えられるようになりますが、やがて会津への移封が噂されるようになりました。
それを裏付けるように、秀吉の命で松坂城主・古田重勝らが北信の検地に送り込まれ、さらに、伏見城普請で不手際があったとして、嫡男・満胤がその他多くの上杉家臣とともに改易に追い込まれてしまいました。
その後、秀吉からの正式な会津移封の通達が届くと、満親は海津城内で自害しました。

待城
北信は秀吉の蔵入地となり、秀吉によって田丸直昌が海津城主に任じられますが、程なくして秀吉は死去してしまいました。
その後、羽柴忠政が、小牧・長久手の戦いで散った兄・森長可旧領への転封を豊臣家に強く願い出、領地交換という形で実現されることとなりました。
入封した忠政は、「兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしている」という思いを込めて海津城を「待城(まつしろ)」と改名し、春日一族を探し出して片っ端から磔にしていきました。
その後、秀吉亡き後の主導権を巡って家康と対立した石田三成が、忠政の参陣を求めるために来訪しました。
しかし、忠政は三成との会談の席で豊臣批判の言動を繰り返し、会談後、森姓に復姓して家康指示を明確に表明するようになりました。
三成と同心する景勝を討つために家康が会津に向けて進軍を開始すると、忠政はそれに先駆けて宇都宮に着陣しました。
ところが、徳川軍の進軍中に上方で三成が挙兵に及び、それに呼応した昌幸・信繁父子が徳川軍を離れて上田に帰国したため、忠政は家康の命で領国に戻ることになりました。
やがて、家康の子・秀忠が率いる大軍が東山道を西進してきて、上田攻めを開始しました。
この秀忠軍の中には、徳川につくという決断をした昌幸の嫡男・信幸の姿もありました。
特に出馬要請も来なかったため忠政は本国で待機しますが、予想外に秀忠軍は苦戦し、ついには攻略をあきらめて迂回して行ってしまいました。
その後、関ヶ原で家康が三成を打ち破ったため、真田は降伏・開城しました。
徳川軍が上田に入領する際には、忠政は一揆の鎮圧を担当しました。
戦後、家康から本領を安堵された忠政は、領内で総検地を実施しますが、これによって領民には重税が課されることとなったため、程なくして全領で大規模一揆が勃発しました。
忠政は徹底的な弾圧を開始し、600人以上を処刑して鎮圧に至りました。
程なくして、小早川家の無嗣改易によって美作国(今の岡山県)が空いたので、忠政はそちらに加増転封されることが決まりました。

松城
家康が征夷大将軍に任じられたのとほぼ同時期に忠政は美作に移り、北信は家康の6男・松平忠輝に与えられました。
忠輝が幼少の頃から家康に疎まれ続けていたこともあり、これは他の兄弟に比べて明らかに低い待遇でした。
しかし、忠輝の生母・茶阿局や岳父・伊達政宗の口添えもあって、越後高田を加増されることになりました。
越後高田に移ることになった忠輝は、家老・花井吉成を待城代に任じました。
吉成は、街道整備や治水工事などの領内整備に尽力し、領民からも感謝されるようになりました。
やがて、秀忠に将軍職を譲った家康が豊臣討伐の兵を挙げました。
流刑地の九度山村から密かに大坂城に入った信繁は、大坂の地で家康を追い詰める戦いぶりを見せますが、兵力に勝る徳川軍の反攻によって討死し、大坂城も落城して豊臣は滅亡しました。
家康の死後、この戦で問題行動のあった忠輝は秀忠によって改易となり、忠輝の甥・忠昌が後に入りました。
忠昌は待城を「松城」と改名しますが、間もなく忠輝旧領を継ぐ形で越後高田に転封となりました。
代わりに入った酒井忠勝もすぐに転封となり、その次に入ったのは、関ヶ原の戦いの後、父との決別を示すために「信之」と改名していた信幸でした。

天下の飾り
やがて、秀忠の長男・家光が将軍職に就きますが、信之はこの新将軍から、戦国の生き字引としてたいそう慕われていました。
古希を迎えようという頃になって、信之は嫡男・信吉に家督を譲ろうとしますが、その矢先に信吉が先立ってしまい、その子・熊之助も程なくして夭逝してしまったため、隠居を果たせなくなってしまいました。
同世代の武将は高齢で世を去り、気が付けば信之は、戦国を知る唯一の生き証人として皆から崇敬を受ける存在となっていました。
家光が死去して長男・家綱が将軍職を継ぐと、信之も次男・信政に家督を譲ろうとしますが、「幼い新将軍を支えてほしい」と老中から慰留され、またも隠居はかないませんでした。
卒寿を超えた頃、成長した家綱から信之はようやく隠居を認められますが、信政は家督継承のわずか2年後に死去してしまいました。
信政の遺言によって6男・右衛門が家督を継ぐことになったものの、この子が幼少であったことと、信之次男の血統であったことから、信吉の子・信利が異を唱え、御家騒動が勃発しました。
信之は、自らが右衛門の後見人になることで騒動を収めますが、これによって結局現役復帰することとなってしまいました。
ところで、信政は関ヶ原の戦いの折、信之によって家康のもとに人質として差し出されていたのですが、その忠義を賞され、家康から短刀・藤四郎吉光を賜っていました。
信之は家宝とも言えるこの短刀を長持に入れ、昼夜通して交代制で常に6人の家臣に警護させることにしました。
そして、家老級の者であっても、この長持を開けることは絶対に許しませんでした。
その年、信之は93年の生涯を閉じました。
家臣のみならず百姓までもが信之の死を嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したと言われています。

日暮硯
信之没後も右衛門はずっと江戸詰めの状態でしたが、元服して「信房」と名乗るようになった頃、ようやくお国入りが許されました。
「幸道」と改名した後、公儀の命により松城は「松代城」と改名されました。
その後、松代城は火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失し、天守代用の戌亥隅櫓も失われました。
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この再建のために公儀から1万両を借財したことで、松代の財政は徐々に困窮していきました。
幸道の2代後の信安の代には、台風で千曲川・犀川流域が大氾濫を起こし、城の一番高い石垣が水没する程の被害を受けました。
被害救済のためにまた1万両を借財したので、松代財政はいよいよ危機的状況となりました。
信安は原八郎五郎、次いで田村半右衛門をを登用して財政再建に当たらせますが、汚職の横行や一揆の発生などを引き起こす結果となってしまいました。
信安が死去して長男・幸弘が家督を継いだ頃には、年貢の未納も相次ぎ、もはや当主の生活費すら事欠くほどの状態に陥っていました。
幸弘は家臣の恩田(木工)民親を「勝手方御用兼帯」に登用し、破綻寸前の財政の再建を託しました。
民親は、質素倹約の励行や贈収賄の禁止を実施するとともに、重臣や豪商だけでなく領民とも膝を突き合わせて語り合い、訴えに耳を傾けながら改革の必要性を粘り強く説き続けました。
結局、財政はわずかに持ち直した程度に終わりましたが、民親の姿勢は家臣・領民の間に大きな意識改革をもたらしました。

五月塾
幸弘の2代後の幸貫は、家臣の佐久間(一学)国善に命じて城の北に土手を築かせ、「不崩(かけ)ずの土手」と名付けました。
その後、佐久間家の家督を譲られた国善の長男・国忠は、江戸に出て学問を進め、やがて故郷の寺院・象山恵明禅寺の名を取って「象山」と号するようになりました。
清とイギリスの間でアヘン戦争が勃発すると、老中兼海防掛に任ぜられた幸貫は、象山を顧問として抜擢しました。
海外情勢の研究を始めた象山は蘭学に目覚め、オランダ語を習得してオランダの書物を次々に読み漁るようになりました。
これを聞いた幸貫は象山を洋学研究の担当者に任じ、西洋兵学を学ばせることにしました。
やがて象山は大砲の鋳造に成功して西洋砲術家としての名声を轟かすようになり、国産ガラスの製造にも成功しました。
国元に帰ってからも生家を学問所とし、硝石の製造や日本初の電信実験にも取組みました。
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その後、再び江戸に出た象山は、私塾「五月塾」を開いて砲術や兵学を教え始めました。
この五月塾には、旗本の勝(麟太郎)義邦、長州の吉田(寅次郎)矩方ら、志のある者が全国から入門してきました。
やがて幸貫は孫の幸教に家督を譲ってこの世を去りますが、その後、マシュー・ペリー提督が率いるアメリカの黒船艦隊が浦賀に来航しました。
象山は松代藩の軍議役として、吉田を連れて浦賀視察に赴きました。
日本全国で攘夷か開国かの対立が巻き起こる中、欧米の脅威を深く理解していた象山は、「まずは開国し、欧米の軍備や科学技術を吸収した上で、欧米と対等に渡り合える国を造る」という思想を持つようになりました。
その一環として吉田に密航をけしかけたところ、翌年のペリー艦隊再来航時に吉田が決行しようとして失敗しました。
この一件で象山は、吉田に連座して伝馬町牢屋敷に繋がれる羽目になりました。
当然ながら五月塾も閉鎖となり、その際に、塾に掲げられていた象山直筆の書「海舟書屋」を持ち帰った勝は、「海舟」という号を名乗るようになりました。

人斬り彦斎
松代に送られた象山は、蟄居の身ながらも開国論と公武合体論を説き続けました。
大老・井伊直弼が暗殺されて幕府の指導力が低下すると、文政2年、薩摩国父・島津久光らの圧力によって「参勤交代の緩和」「洋学研究の推進」などを盛り込んだ幕政改革が開始され、象山も復権して軍制顧問に任じられました。
京都では、吉田の薫陶を受けた長州藩士を中心とした尊王攘夷派とそれに同心する急進派公卿が大きな力を持っていましたが、文久3年8月18日、会津・薩摩を主体とする公武合体派が彼らを追放しました。
一部の尊王攘夷派が地下に潜伏したという話が囁かれる中、徳川氏14代将軍・家茂が上洛し、象山も将軍後見職・徳川慶喜の招きによって上洛することになりました。
政情の不安定が続く中、松代では病弱な幸教の隠居が議論されるようになり、宇和島藩主・伊達宗城の長男・保麿を養嗣子として迎え入れることになりました。
やがて、市中の治安維持を担当していた新選組が、慶喜らの暗殺と天皇の長州への連れ去りを計画して池田屋に集結していた尊王攘夷派浪士を急襲し、壊滅させるという事件が起こりました。
その一月後、いつものように西洋式馬装で供も付けずに京都市中を闊歩していた象山は、三条小橋付近で2名の刺客に襲われました。
象山は近くの宿舎目指して馬を走らせますが、その前に別の刺客が現れました。
馬の脚を斬り付けられて落馬すると、間髪入れず、胴に居合のような逆袈裟の一閃が走りました。
象山は応戦しようと抜刀しますが、そこに二太刀目が振り下ろされ、追ってきた最初の刺客にも斬り掛かられ、その場で絶命しました。
事件後、主犯の河上(彦斎)玄明によって祇園社に掲げられた斬奸状には、「西洋学を唱えること」「開国論を主張すること」など、象山の「罪状」が記されていました。
象山の子・恪二郎は、仇討のために新選組に入隊しました。
しかし、その後象山の思想の真意を知った河上は、人斬りをやめました。

吉光の御長持
先の改革で参勤交代が緩和されたことにより帰国を許された幸教の妻子の住居として、城外に新御殿が建てられました。
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その後、元服して「幸民」と名乗るようになった保麿が家督を継ぎますが、政情は風雲急を告げ、長州征討の陣頭指揮を執っていた家茂が急死し、跡を継いだ慶喜が大政奉還を行い、薩摩・長州の主導で王政復古の大号令が発せられ、上方で旧幕府勢力が駆逐されるという事態になりました。
幸民は幕府から甲府城代を命じられますが、辞退して新政府側に付くことにしました。
新政府から改めて甲府城代を命じられた幸民は、江戸開城の後は北越・会津の戦争に従軍し、戦功を上げました。
戦争終結後、松代で信之以来200年以上にもわたって厳重に管理され続けてきた長持が開封されました。
長持の中からは、短刀・藤四郎吉光とともにたくさんの書状が出てきました。
それは、かつて関ヶ原前夜に三成から信之に送られてきた密書で、このようなものを隠し持っていることが幕府に知られれば御家取潰しもあり得るような代物でした。

復元
新政府によって松代城は廃城となり、城跡は藩士に払い下げられて畑になっていきました。
明治37年、幸民の子・幸正は払い下げられていた土地を買い戻し、本丸跡地を遊園地として開放しました。
昭和26年、幸正の子・幸治によって本丸跡地が長野県に寄附され、公用地となりました。
平成16年には太鼓門、堀、石垣、土塁等が復元されました。
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100名城制覇まで残り41城

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