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36番 丸岡城(福井県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、織田信長は徳川家康と同盟を組み、天下布武のため戦いに明け暮れていました。
東の方では、長篠で武田氏を撃退しました。
この長篠の戦いの時、家康の家臣・本多重次は、陣中から妻にあてて「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という有名な手紙を送りました。
お仙というのは、重次の幼い長男でした。
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一方北の方では、朝倉氏を滅亡させ、その後加賀国(今の石川県)の一向一揆を平定するために信長は家臣の柴田勝家に越前国を任せました。
この勝家の甥・勝豊によって、丸岡城は築かれました。
その後も破竹の勢いで快進撃を続ける信長でしたが、明智光秀の裏切りによって本能寺に倒れます。

信長亡き後の体制を決めるために開かれた清州会議で、勝豊はそれまで羽柴秀吉が居城していた近江国(今の滋賀県)の長浜城に移されることになり、勝家は家臣の安井家清を丸岡城代に置きました。
しかしその後、秀吉と勝家の対立が決定的なものとなり、ついに勝家は秀吉の前に滅ぼされてしまいました。
その後は丹羽長秀の所領となり、丸岡城はその家臣の青山宗勝に与えられました。
宗勝は長秀の死後は羽柴改め豊臣秀吉に仕えたため所領は安堵となりました。
やがて、宗勝の息子・忠元が家督を継ぐと、忠元は天守を建造しました。(ただし、天守は勝豊が建造したという説もあります)
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秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは宗勝、忠元親子は石田三成の西軍に付いて敗北したため、家康によって改易されました。
江戸時代に入ると、越前国は家康の二男・結城秀康に与えられ、丸岡城には秀康の家臣・今村盛次が入りました。
しかし、越前騒動という御家騒動が起こり盛次は失脚、その後丸岡城に入ったのは本多成重、「お仙泣かすな」のお仙でした。
その後しばらく本多氏の時代が続きます。
丸山城下には本多氏の菩提寺・本光院も建立されました。
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しかしこの本多氏も御家騒動で改易となり、その後は有馬氏が入りました。

明治時代になると、天守以外の建造物は破却されました。
残った天守も昭和23年に福井地震で倒壊してしまったのですが、その7年後、極力元の建材を使用して再建されました。
現在、城の管理棟に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り40城
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