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37番 一乗谷城(福井県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代より、朝倉氏は越前国の一乗谷を本拠にしていました。
ここは、谷間にある居館、町と、背後の山にある城からなっていました。
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山間の長閑な地でしたが、室町時代に京の都で応仁の乱が始まると、多くの貴族・文化人が亡命してきて、一躍文化の中心地になりました。
また、朝倉氏には富田氏という家臣がいましたが、この一族の勢源は剣術の流派・富田流を興し、城下に道場を開いていました。
この道場からは、鐘捲自斎や佐々木小次郎などが輩出されました。
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さて、応仁の乱の後も京の都は殺伐としており、13代将軍・義輝が配下の松永久秀らに暗殺されるという事件が起こりました。
この事件の後、義輝の弟・義秋は朝倉氏の義景を頼って一乗谷に亡命します。
ここで歓待を受けた後、義秋は義昭と名を変え、今度は織田信長を頼って尾張国(今の愛知県)に行きました。
そして信長の力によって上洛を果たし、15代将軍の座に就きます。

しかしその後、だんだん義昭と信長の中が険悪になってきて、ついに義昭は朝倉氏を含む信長の周りの大名たちに文を出して信長包囲網を築きあげます。
一時は追い詰められた信長でしたが、強運にも助けられながら周辺大名を次々と打ち破り、ついに朝倉氏の本拠の一乗谷まで攻め込んできました。
そして刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を捨て、落ち延びていきました。
その翌日、一乗谷は信長の手勢によって焼き払われ、灰燼に帰しました。
そして、義景も追い詰められ、自害します。

この戦いで信長方に付いて功を挙げた朝倉氏旧臣の桂田長俊に一乗谷城が与えられましたが、同じ旧臣である富田長繁らが一揆を扇動して一乗谷城に攻め込み、長俊は討取られました。
信長がこの一揆を平定した後は柴田勝家に越前国が与えられたのですが、勝家は北の庄に居城を築いたので、一乗谷城は廃城となり、その多くは土の下に埋もれていきました。

時は下って、昭和時代になってから一乗谷のあたりは発掘・復元をされるようになりました。
かつての城下町が復元されているところもあります。
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この復元町並みの入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り39城

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