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10番 山形城(山形県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、羽州探題として山形に入部した斯波兼頼により、山形城は築かれました。
兼頼は「最上」と改姓し、その後山形城は代々最上氏の城となりました。

桃山時代の末期、豊臣秀吉の死後、天下取りに野心を見せる徳川家康とそれを阻止したい上杉景勝の間で緊張が高まりました。
やがて、家康は景勝を討つために会津に進軍しますが、その途中、石田三成が大坂で挙兵したという報に接し、急きょ西へ針路を変えました。
この時、最上氏の義光は家康の東軍方に付いたため、景勝の重臣、直江兼続が山形領内に侵攻しました。
兼続は山形城の支城を次々と落していき、ついに要の長谷堂城にたどり着きました。
長谷堂城では最上方が必至の抗戦を行いました。
この時、山形城は霞に覆われて直江軍から見えなくなったため、山形城は霞城とも呼ばれるようになりました。
長谷堂城での戦いが膠着している間に、関ヶ原では家康率いる東軍が大勝を納めました。
この報を聞いた兼続は一時は自害を考えますが、前田利益(慶次郎)に諌められ撤退を決意します。
撤退する直江軍を義光は追撃しますが、兼続の見事な撤退戦により取り逃がしてしまいます。
しかし戦後、直江軍を撃退した功により義光は家康によって加増されました。
義光は山形城を大規模な城郭に改修し、城下町の整備を行いました。
ところが、最上氏の内部では御家争いが絶えず、江戸時代の初期には最上氏は改易されてしまいました。

最上氏の後に入った鳥居忠政も、城の改修をしました。
この鳥居氏の後も親藩や譜代大名が入れ代わり立ち代わり城主を務め、やがて明治を迎えました。

明治時代には建物は破却され、陸軍が駐屯することになりました。
昭和時代にはかつての本丸、二の丸区域が霞城公園となり、明治時代に建てられた病院の建物・済生館が移築され、やがて「山形市郷土館」となりました。
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平成3年には二の丸東追手門が復元されました。
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平成18年、25年には本丸正門や追手橋が復元されました。
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100名城のスタンプは山形市郷土館および最上義光歴史館にあります。

100名城制覇まで残り37城

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