33番 高岡城(富山県) [日本100名城めぐり]
江戸時代初期、前田利家の長男にして加賀藩初代藩主の利長は、富山城に隠居していました。
しかしこの富山城が大火で焼け落ちてしまうと、利長は魚津城に避難し、徳川家康、秀忠父子に、新しい城を築城したいという旨を願い出ました。
やがて許可が下り、利長は関野に城を建てはじめました。
築城中に関野は「高岡」と改名され、新しい城は「高岡城」と名付けられました。
この高岡城は、城内に見事な水堀が張り巡らされた城でした。
しかし、利長は入城してしばらくすると病没してしまいました。
その後程なくして、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府によって「一国一城令」が発せられ、できたばかりの高岡城はすぐに廃城となってしまいました。
しかしながら、利長の後を継いで2代藩主となった利長の弟・利常は、城を蔵に改装し、堀を埋め立てることもせず、密かに潜在能力を保持させました。
やがて利常によって、利長の菩提を弔う瑞龍寺も城下に建立されました。
明治時代になると、高岡城址は民間に払い下げられましたが、落札者は城跡の保存に努め、やがて明治8年には「高岡公園」として認定され、一般公開されるようになりました。
この時に、本丸に射水神社が遷座されました。
昭和時代には博物館や動物園なども建設され、高岡市民の憩いの場となっています。
その博物館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り36城
しかしこの富山城が大火で焼け落ちてしまうと、利長は魚津城に避難し、徳川家康、秀忠父子に、新しい城を築城したいという旨を願い出ました。
やがて許可が下り、利長は関野に城を建てはじめました。
築城中に関野は「高岡」と改名され、新しい城は「高岡城」と名付けられました。
この高岡城は、城内に見事な水堀が張り巡らされた城でした。
しかし、利長は入城してしばらくすると病没してしまいました。
その後程なくして、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府によって「一国一城令」が発せられ、できたばかりの高岡城はすぐに廃城となってしまいました。
しかしながら、利長の後を継いで2代藩主となった利長の弟・利常は、城を蔵に改装し、堀を埋め立てることもせず、密かに潜在能力を保持させました。
やがて利常によって、利長の菩提を弔う瑞龍寺も城下に建立されました。
明治時代になると、高岡城址は民間に払い下げられましたが、落札者は城跡の保存に努め、やがて明治8年には「高岡公園」として認定され、一般公開されるようになりました。
この時に、本丸に射水神社が遷座されました。
昭和時代には博物館や動物園なども建設され、高岡市民の憩いの場となっています。
その博物館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り36城
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