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35番 金沢城(石川県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代に成立した浄土真宗・本願寺は、戦国時代に入ると8世・蓮如の手によって勢力を拡大し、加賀一向一揆によって戦国大名並みの力を持つようになりました。
やがて門徒たちによって、一向一揆の拠点として尾山御坊という城郭寺院が建立されました。
この一向一揆には、朝倉氏や上杉氏など、並み居る戦国大名たちが手を焼いていました。
織田信長は柴田勝家を対上杉、対一向一揆の北国軍として送り込み、勝家の甥・佐久間盛政や前田利家が一揆の鎮圧に当たっていました。
やがて盛政が尾山御坊を陥落させると、ここは「金沢城」と改名され盛政が城主を務めることになりました。

しかし信長が本能寺で倒れると、その後継をめぐって勝家と羽柴秀吉が対立することになりました。
盛政も利家も旧恩ある勝家側に付きますが、やがて利家は旧友でもある秀吉に懐柔され、秀吉軍の急先鋒として勝家を滅ぼします。
戦後、秀吉によって金沢城は利家に与えられ、「尾山城」と改名されます。
また、利家はキリシタン大名高山右近を呼び寄せ、尾山城の大改修を行いました。
この時に再び「金沢城」と改名されました。
利家が没するとその子・利長によってさらに改修が行われますが、江戸時代の初期に天守は落雷で喪失してしまいました。
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5代藩主・綱紀の代には蓮池庭という庭園が造営され、これが後に「兼六園」と呼ばれるようになりました。
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宝暦年間に城は大火に巻き込まれますが、その後幕末にかけて少しずつ再建されていきました。

明治になると金沢城は陸軍の所有になり、第六旅団司令部が置かれました。
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戦後は金沢大学のキャンパスとなりますが、平成に入って大学が転出すると、石川県によって金沢城公園として整備されることになり、平成13年には菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋が復元されました。
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公園内の案内所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り35城

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