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63番 鳥取城(鳥取県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、山名氏によって、久松山の山頂に鳥取城が築城されました。
山名誠通の家臣、武田国信は自ら申し出て鳥取城番となり、城を改築しました。
国信の子・高信は鳥取城を乗っ取ると、毛利氏と組み、山名氏を追い落として但馬国を実質的に支配することに成功します。
すると今度は、因幡守護・山名元豊が、毛利元就に滅亡させられた尼子氏の残党と組み、鳥取城を攻めます。
高信は降伏し城を明け渡しますが、間もなく元豊に謀殺されます。
城は元豊のものとなり、元豊は天守を建てるなど、城の改築に努めました。
しかし、今度は元就の次男・吉川元春に攻め落とされ、毛利豊元が城主になります。
その後また尼子残党に取り返されますが、この頃から毛利氏の力が但馬国におよぶようになり、尼子残党は鳥取から手を引き、元豊が元就の孫・輝元の軍門に下った上で城主として落ち着きました。

やがて、東の方から織田信長が勢力を伸ばしてくるようになりました。
鳥取城は信長の家臣・羽柴秀吉によって攻められ、籠城戦の末、元豊は信長に臣従することになりました。
信長の下に付いた元豊は豊国と名を改めますが、信長と対立する毛利氏が来訪すると、豊国は再び毛利氏に降伏しました。
そして、元春は一族の中でも武勇に優れた経家を鳥取城将として送り込みます。
さて、豊国は毛利氏に降伏はしたものの、裏では信長と通じたままでした。
やがてそれがばれると、豊国は秀吉の下に出奔しました。
これを受けて、秀吉は再び鳥取城を攻めました。
このとき秀吉は、直接戦闘ではなく、兵糧攻めという戦術を選択しました。
これによって、4か月後には食糧が尽きた鳥取城内は凄惨な状態となり、ついに経家は自決と引き換えに降伏・開城しました。
いわゆる、「秀吉の飢え殺し」です。

鳥取城を攻略した秀吉は、城を家臣の宮部継潤に与えます。
この継潤の手によって、鳥取城は石垣造りの城に作り替えられました。
やがて信長が本能寺で死ぬと秀吉は豊臣と改姓し、ついには天下を取ります。
継潤の子・長房も秀吉に仕えますが、秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いで西軍に付き、本戦終了後に鳥取城は東軍の亀井茲矩に攻め落とされました。

最終的に天下を取った徳川家康により、関ヶ原での軍功を認められて、鳥取城は池田長吉に与えられました。
長吉の手により、鳥取城は近世城郭に作り替えられました。
久松山山頂の山上の丸に対して、麓に山下の丸が増設されました。
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山上の丸には天守がありましたが、元禄年間に落雷により焼失しました。
tottori2.jpg

明治になると、城内の建造物はすべて破却されました。
そして明治40年に、池田家14代当主・仲博によって洋館が建てられました。
洋館が完成すると皇太子が来館し、そのとき随行した海軍大将・東郷平八郎によって「仁風閣」と名付けられました。
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この仁風閣に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り34城


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