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32番 春日山城(新潟県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、越後国守護の上杉氏が春日山に城を作りました。
戦国時代になると、守護代・長尾為景が主君である守護・房能に対して下剋上を起こし、上杉定実を擁立した上で春日山城を奪い取りました。
このときに為景は春日山城に大改修を加えました。
やがて為景が隠居すると、春日山城は嫡男・晴景が引き継ぎ、その弟の虎千代は近隣の林泉寺に預けられました。
しかし晴景には越後を統率するだけの力量がなく、程なくして内乱状態になりました。
すると、元服して景虎と改名した虎千代は、次々と反乱勢力を鎮圧していきました。
やがて、晴景より景虎の方が実力があると考える勢力が増していき、その流れの中で晴景は景虎に家督を譲りました。
定実が死去すると景虎は幕府から越後国主としての地位を認められました。

景虎は自ら侵略戦争を引き起こすことはありませんでしたが、弱小大名の要請に応じて、しばしば武田晴信や北条氏康らと戦火を交えました。
関東管領・上杉憲政が河越夜戦で氏康に負け越後に逃れてくると、景虎はこれを庇護しました。
そして景虎は憲政の養子となり、関東管領職を受け継いで上杉政虎と名乗るようになりました。
その後政虎は輝虎と改名し、出家して謙信と名乗るようになりました。

やがて、晴信改め信玄や、氏康が死去すると、謙信の前には新興勢力の織田信長が立ちはだかるようになりました。
謙信は手取川の戦いで織田軍を撃破すると、春日山城に帰還し遠征の準備を始めましたが、突如として脳溢血で急死してしまいました。
謙信は少年期を過ごした林泉寺に葬られました。
林泉寺には謙信が春日山城から移築したと言われている惣門があります。
kasugayama1.jpg

謙信は生涯独身で実子もなく、後継ぎも定めていませんでした。
そして謙信には二人の養子がいました。
一人は後北条氏から人質としてやってきた氏康の息子の景虎、そしてもう一人は甥の景勝でした。
間もなく、この景虎と景勝の間で跡目争いが始まりました。
世に言う御館の乱です。
この戦いを制した景勝が、上杉家を相続することになりました。
しかしこの戦いで上杉氏の力は大きく弱体化し、織田軍との戦いも苦しくなってきました。
ところが今度は信長が本能寺で横死し、織田軍との戦いはひとまず終わりました。

信長の跡を継いだ豊臣秀吉とは良好な関係を築くことができ、豊臣政権の中でも景勝は重要な位置を占めるようになりました。
しかし、東北諸将や関東に移封されていた徳川家康への睨みを利かせるためということで、景勝は会津に移封されました。
景勝が去った春日山城には「天守閣阯」とされているところもありますが、実際に天守があったかどうかは定かではありません。
kasugayama2.jpg

その後、春日山城には堀秀治が配されますが、やがて堀氏は新築した福島城に移り、春日山城は廃城になります。

時は下り、昭和時代になると春日山城跡は国の史跡に指定され、発掘研究が進められるとともに観光客も訪れるようになりました。
平成8年には山麓で堀や土塁が復元され、春日山城史跡広場として公開されました。
kasugayama3.jpg

この広場に隣接する春日山城ものがたり館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り33城

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