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34番 七尾城(石川県) [日本100名城めぐり]

室町時代、能登国守護の畠山満慶が砦を築きました。
この砦が築かれた場所は七つの尾根にまたがっていたので、「七尾」と呼ばれるようになりました。
やがて、京の都で応仁の乱が勃発したり、隣国加賀で一向一揆が発生したりで時代が戦国に移っていくと、畠山氏は石垣を築くなど、少しずつ堅固な城郭に作り替えていきました。
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能登畠山氏5代当主・慶致の代には、この七尾城が能登国の支配拠点となりました。

やがて、畠山氏の中では、一族、家臣の内紛や暗殺が横行するようになり、有力家臣により幼児であった春王丸が新当主として擁立されました。
これに対して、越後国(今の新潟県)の上杉謙信が、かつて畠山氏から人質として預かっていた上条政繁を新当主として擁立し、能登国の秩序を回復するという大義名分の下、七尾に侵攻しました。
百戦錬磨の謙信ではありましたが、長続連が指揮する七尾城の籠城軍は難攻不落でした。
そこで、謙信は七尾城の支城を落としたのですが、ちょうどその頃、相模国(今の神奈川県)の北条氏政が北関東方面に出兵したため、謙信は急いで本国に撤収しました。
謙信が撤収すると、畠山軍は反撃に転じ、奪われた支城を取り返しましたが、後北条軍の出兵が大したものではないと知った謙信は再び七尾に侵攻しました。
これを受けて続連は、支城に配置した兵をすべて七尾に引き上げ再び籠城の態勢に入り、謙信と対立していた織田信長に救援を要請します。
しかし、かねてより続連を快く思っていなかった、親謙信派の重臣・遊佐続光らが反乱を起こし、続連を討って上杉軍を城内に招き入れました。
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七尾城を手に入れた謙信は、本丸から見える眺めの良さに感嘆したと言われています。
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南からは、信長配下の柴田勝家軍が押し寄せてきましたが、謙信はその足で出陣し、手取川で勝家軍を撃退すると、能登国の支配権を手に入れることに成功しました。

ところが、その半年後に謙信が急死し、その後に起こった御館の乱という跡目争いで上杉家が急速に弱体化すると、結局能登国は信長の支配下に入ることになりました。
そして七尾城は、勝家とともに戦った前田利家に与えられました。
一国一城の主となった利家でしたが、山城である七尾城は領国支配には向いていなかったため、新たに小丸山城という城を築城して移動し、程なくして七尾城は廃城になりました。

時は下って昭和38年、七尾城主の子孫である畠山一清によって、城下に七尾城史資料館が建てられました。
この資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り29城

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