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74番 岩国城(山口県) [日本100名城めぐり]

桃山時代末期、豊臣秀吉の死後に徳川家康と石田三成の対立が激化すると、五大老の一人・毛利輝元は三成により西軍の総大将に担ぎ上げられてしまいました。
これにより、輝元の従弟・吉川広家も西軍に付かざるを得なくなりましたが、家康率いる東軍の勝利を確信していたので、密かに家康と内通し、東軍に呼応する代わりに毛利家の本領を安堵してもらう密約を交わしていました。

関ヶ原の戦いの時に広家はまず、輝元を大坂城に留めて参陣させませんでした。
代わりに広家・輝元の従弟であり輝元の養子になっている秀元が毛利隊を率いて、家康本陣の背後の南宮山に布陣しますが、広家は毛利隊の前に陣取り、開戦後も動こうとしませんでした。
吉川隊が邪魔で毛利隊も動くことができず、その毛利隊の後ろに布陣していた長宗我部盛親から出撃要請を受けた秀元は苦し紛れに「今、兵に弁当を食わせている」などと言い訳し、「宰相殿の空弁当」という言葉も生まれました。
やがてその様子を見た一族の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝負は決しました。

ところが戦後、約束されていたはずの毛利家の本領安堵が反故にされ、毛利家は改易、その所領のうち周防・長門の2ヶ国(長州)は広家に与えるという話まで出てきました。
慌てた広家は必死に交渉を行い、最終的に毛利家の所領を長州のみとすることで決着しました。
この一件で広家は毛利家中での立場を無くしてしまいましたが、周防国の一部である岩国を与えられ、家康が開いた江戸幕府からは大名並みの扱いを受けることとなりました。
一方、秀元は長州藩の支藩・長府藩の藩主となって、幕府からは疎まれながらも長州藩の藩政に強い力を持つようになり、広家とは度々対立するようになりました。

やがて広家は、横山で築城を開始しました。
まずは横山の麓に平時の居館となる「土居」を築き、完成すると山頂に戦時の城となる「横山城」を築きました。
この土居と横山城からなる「岩国城」は8年の歳月をかけて築城され、本丸には4重6階の天守も築かれました。
しかし幕府が「元和の一国一城令」を出すと、周防国には岩国城しかなかったため破却の義務はなかったのですが、秀元が居城の櫛崎城を破却したことにより広家も岩国城を破却せざるを得なくなり、完成から7年で廃城となってしまいました。
天守は破却され、麓の土居のみが陣屋として使用されることになりました。

陣屋と城下町の間には錦川という川が流れていましたが、この川がたびたび氾濫し、よく橋が流失しました。
そこで、3代藩主広嘉は洪水に耐えられる錦帯橋をかけました。
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時は下って昭和37年、鉄筋コンクリート造りで天守が復興されました。
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また、平成7年には天守台が発掘復元されました。
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天守受付窓口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り7城。


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