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73番 広島城(広島県) [日本100名城めぐり]

築城
鎌倉時代、太田川下流の三角州に、小規模な集落がいくつも作られました。
戦国時代に、この地域は厳島の戦いで勝利した毛利氏の領土となります。
毛利氏の本城は内陸の郡山にあり、堅固な山城でしたが、輝元の代に豊臣秀吉が四国と九州を平定すると軍事より経済の方が優先されるようになり、瀬戸内海沿岸に新たな本城を築くことが決まりました。
輝元は太田川下流域を検地し、「最も広い島地」であった五箇村に築城することに決めました。
築城には秀吉の側近・黒田如水も参加し、大坂城や聚楽第を参考にしながら行われました。
「島普請」と呼ばれる埋立てや浚渫が困難を極めましたが、やがて堀と城塁が完成し、輝元が入城しました。
文禄元年に唐入りが始まると、名護屋城に向かう途中の秀吉が立ち寄り、城を見物しました。
やがて石垣、櫓、天守が完成すると、この城は「広島城」と名づけられました。

関ヶ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康が対立する上杉景勝を討つために大坂城をたって会津に出陣すると、輝元はかつて毛利家の外交僧を務めていた瑶甫(安国寺)恵瓊の進言を受け、大坂城に入城しました。
輝元は、家康が占拠していた西の丸を接収して総大将に就任しました。
岐阜城が徳川方の手に落ち、家康本隊が江戸をたって西進を開始すると、大垣城の石田三成から出馬要請が届きました。
しかし、密かに家康に通じていた従弟の吉川広家から押し留められ、輝元は大坂を動きませんでした。
やがて、東西両陣営が大垣近郊の関ヶ原で激突し家康方の圧勝に終わると、大坂城は先陣として活躍した福島正則の奔走によって家康方に接収されました。
その後、毛利家は改易となるところでしたが、広家の奔走で周防・長門の2ヶ国(長州、今の山口県)への減封ということで許されることになりました。
広島は召上げとなり、その後には正則が入ることとなりました。

武家諸法度
新たな広島城主となった正則は、大規模な城の改築と城下町の整備を開始します。
しかし、正則は秀吉子飼いの武将として家康に目を付けられていたこともあり、この整備をしたことでしばらくの謹慎を申し渡されました。
家康の死後間もなく、正則は水害によって被害を受けた石垣などを修築しますが、これが「武家諸法度違反の無届け改築に当たる」と咎められました。
正則は「雨漏りを止むを得ず直しただけだ」と謝罪し、「本丸以外の修築分の破却」という条件で許されることになりました。
しかし正則は逆に、「本丸の修築分」だけを破却し、「二の丸・三の丸の修築分」は据え置きました。
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その他にも将軍家に対して色々と反逆的な態度を取ったため、とうとう正則は2代将軍・秀忠を怒らせてしまい、所領を没収されてしまいました。
その後は、浅野長晟が入り、浅野家の統治下におかれました。

長州征討
長晟の10代後の当主・長訓の代に、長州征討が始まりました。
広島城は徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となりますが、やがて第2次長州征討で長州藩が勝利を収めると、広島藩は長州藩との関係を深めていきます。
その後、戊辰戦争が勃発すると、広島藩はそのまま新政府軍に加わりました。

広島大本営
幕府に取って代わった新政府により、広島城には広島鎮台が置かれることとなりました。
そこから広島市は「軍都」として発展し、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が置かれました。
明治27年9月15日から翌28年4月27日の間は明治天皇が行幸し、帝国議会も広島で招集され、臨時首都として機能しました。
日清戦争が終結すると大本営は解散し、その後、大本営跡は史跡に指定され、天守の一般公開も始まりました。
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原子爆弾投下
昭和20年、太平洋戦争の戦局が悪くなってくると、アメリカ軍との本土決戦に備えて広島城内に中国軍管区司令部が置かれ、半地下のシェルター構造の防空作戦室も設置されました。
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城内には1万名の兵士や軍属が駐留しました。
この頃、日本列島の都市という都市がことごとく空襲の対象となっていましたが、広島市は「軍都」と呼ばれている程の都市にもかかわらず、どういうわけかあまり空襲を受けることがありませんでした。
8月6日午前8時過ぎ、司令部の下に広島県警所轄のいくつかの監視哨から、「敵大型機が広島市方面に向かっている」との電話連絡が入り、8時13分、司令部は広島・山口両地区に警戒警報を発令しました。
8時15分、防空作戦室で学徒動員の女学生が各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとしたその瞬間、小窓から突然強烈な爆風が入ってきて、彼女たちは吹き飛ばされ気絶しました。
意識が戻った彼女たちが地上に出ると、天守はおろか城内の建造物は、自分たちのいた防空作戦室以外すべて倒壊・炎上していました。
城の外でも市内の建物がことごとく消え去っており、代わりに巨大なきのこ型の雲が立ち上っていました。
地上にいたほとんどの人は即死、もしくは瀕死の重傷を負っていました。
近くに倒れていた兵士によると、「新型爆弾にやられた」ということでした。
彼女たちは防空作戦室に戻ると、故障を免れた軍用の電話回線を使い、福岡の西部軍管区司令部と福山の歩兵第41連隊司令部に、「広島市壊滅」を伝えました。

復興
その9日後、戦争は終わりましたが、破壊された城域は放置され、草むらと化していきました。
昭和26年、広島国体が開催されると、木造の仮設天守が建てられました。
これを契機に天守復興の機運が高まり、広島復興大博覧会の目玉として、昭和32年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守が建てられました。
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平成6年には二の丸の復元も行われました。

100名城制覇まで残り5城。

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