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7番 多賀城(宮城県) [日本100名城めぐり]

奈良時代の初期、東北地方の蝦夷を征討するために、大野東人(おおののあずまびと)によって陸奥国の塩釜丘陵に多賀城が建造されました。
そして、この多賀城に陸奥国府の政庁が置かれました。
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この多賀城創建とともに、少し南東に行ったところに付属寺院も建造されました。
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奈良時代の中期には藤原朝狩によって大幅な改築が行われました。
この時に、多賀城の創建と改築を記録した石碑も作成されました。
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しかし奈良時代の末期に伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱で焼失してしまい、その後再建されました。

平安時代に入ると、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷を征討するにあたっての拠点となりました。
しかしその後、貞観地震という大震災によって甚大な被害を受け、復興はされていったものの平安時代中期にはだんだん使用されなくなって廃れていきました。
その後起こった東北地方での戦役・前九年の役と後三年の役では、再び多賀城が戦略上の拠点として利用されます。

時代は下って、後醍醐天皇の建武の新政の時代、北畠親房・顕家親子が義良親王を奉じて多賀城に入城し、東北地方を統括する「陸奥将軍府」を誕生させました。
しかしその後の南北朝時代に足利氏との戦いの末、多賀城を追われ、陸奥将軍府は消滅してしまいます。
これ以降、多賀城は廃城となってしまいました。

現在、多賀城跡では埋蔵文化財の発掘調査が行われています。
多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り57城

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8番 仙台城(宮城県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代末期、陸奥国の青葉山には島津氏の居城、千体城がありました。
後に千代城と名を変え、室町時代末期には国分氏の居城となりました。

桃山時代の末期に、城主の国分盛重が甥の伊達政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城になってしまいました。
関ヶ原の戦いの後に、政宗は徳川家康の許しを得て、千代城に居城することになりました。
この時に城の名前を仙台城と改めています。

政宗は非常に野心的な性格であったのですが、生まれてきたのが戦国時代の終わりごろだったので、ある種戦いに飢えているところがありました。
そのため、仙台城もいつ戦になっても大丈夫なようにものすごく堅固な要塞として改築されました。
しかし当然ながら、江戸時代に東北で戦が起こるようなことはありませんでした。
晩年の政宗は非常に穏やかな性格になったと伝えられ、死後は山麓の瑞鳳殿に眠っています。
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江戸幕府の大政奉還により明治時代になると、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍との東北戦争に突入していきました。
しかし、新政府軍が仙台に到達する前に仙台藩は降伏したため、仙台城はまたしてもその力を発揮する機会に恵まれませんでした。

明治時代の間に仙台城の建造物は少しずつ取り壊されていきました。
荒れていく仙台城を見て、仙台出身の詩人・土井晩翠は「荒城の月」を作詞しました。

そして、太平洋戦争の時の仙台空襲で残った建造物もすべて焼夷弾により焼き払われてしまいました。
太平の時代に戦乱を見据えて堅固な要塞として建てられた仙台城でしたが、初めて経験した戦争で空からの攻撃を受け、あえなく燃え上がってしまったのです。

戦後の昭和25年、国有地払い下げにより、宮城神社(護国神社)が本丸一帯を所有することになりました。
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しかし本丸がすべて神社のものになることを望まなかった仙台市は、神社と交渉して一部を買い上げることになりました。
昭和42年には大手門脇櫓が復元されました。
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現在は、本丸跡に建てられた仙台城見聞館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り58城

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56番 竹田城(兵庫県) [日本100名城めぐり]

最初の竹田城は、室町時代に但馬国守護・山名持豊によって築城され、太田垣光景が城主に任じられたといわれています。
この頃には、山名氏と播磨国守護・赤松氏の間で小競り合いが頻発していました。
そして京では、将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される「嘉吉の乱」が起きました。
幕府から追討令を受けた持豊は満祐を討ち、太田垣氏とともに赤松氏掃討の戦いを行います。
この頃、持豊は出家して宗全と名乗るようになります。

やがて、管領・細川勝元が満祐の甥の子である政則を加賀国(今の石川県)守護に取り立て、赤松氏を再興しようとします。
これにより宗全と勝元が対立するようになり、そこに更に将軍家の跡目争いや有力守護大名の内紛が加わって、応仁の乱が勃発します。
この時に、細川軍に付いた内藤氏が攻め込んできて、竹田城を出撃した太田垣軍が迎撃に成功しています。

応仁の乱によって幕府や有力大名が没落していくと、次第に地方では新たな大名が割拠するようになり、時代は戦国へと移り変わっていきます。
やがて、それら戦国大名の中から、織田信長の力が突出してきました。
畿内を制圧した信長は、家臣の羽柴秀吉に命じて中国地方の制圧をもくろみます。
秀吉は弟の秀長に命じて竹田城を攻め落とすことに成功します。
秀吉は桑山重晴を新たな竹田城主にします。
本能寺で信長が死んで羽柴改め豊臣秀吉の時代になると、秀吉は秀長を紀伊国(今の和歌山県)の領主にし、重晴をそれに従わせます。
そして、政則の子孫である広秀を城主にしました。
この広秀が竹田城を改築しました。
天守も築かれましたが、今は天守台だけが残っています。
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やがて秀吉も死に、関ヶ原の戦いが起こると、広秀は西軍に付きました。
しかし西軍が徳川家康率いる東軍に敗れると、広秀は汚名返上のため鳥取城攻めに加わります。
鳥取城を攻め落とすことには成功しますが、この時城下に火を放ったことを家康に咎められ、広秀は切腹となってしまいました。
広秀の墓がかつての広秀の居館跡にあります。
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そして、竹田城も廃城になりました。

竹田城は季節によっては雲海に囲まれることもあり、また、登城すると空の上から見下ろしているような見晴らしを楽しめることから、「天空の城」とも呼ばれています。
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現在は、この眺望を求めて多くの観光客が訪れています。
麓の竹田駅に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り59城

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57番 篠山城(兵庫県) [日本100名城めぐり]

江戸時代、関ヶ原の戦いで勝利を収めて幕府を開いた徳川家康は、豊臣氏を抑え込むため、大坂城を取り囲むように城を築いていきました。
その中の一つ、松平康重に命じて丹波国の篠山盆地に築かれた城が、篠山城です。
築城は、普請総奉行を池田輝政が、縄張りを藤堂高虎が務めた天下普請でした。
堀も城壁も堅固で、あまりにも堅固すぎて逆に警戒した家康の意向により、天守台は築かれましたが、天守は築かれませんでした。
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康重は家康、秀忠、家光の三代に仕えていましたが、家光の養育係に青山忠俊という人物がおりました。
忠俊は、家光を厳しく育てましたが、諫言を繰り返したため家光に嫌われ、老中を免職の上、蟄居させられてしまいます。

さて、康重以降、篠山城主は松平家が務めていましたが、寛延年間に青山氏の忠朝が城主になりました。
さらに忠裕の代には、藩校を充実させ、藩の教育に特に力を入れられました。

明治時代になると、大書院を残して建物は取り壊されてしまいました。
明治15年には、かつての本丸の場所に、忠俊を教育と学問の神として祀った青山神社が設立されました。
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この神社には、昭和5年には忠裕も合祀されることになりました。

昭和19年には唯一残っていた建造物である大書院が失火で焼失してしまいましたが、平成12年に再建されました。
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この大書院に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り60城

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24番 武田氏館(山梨県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、武田信虎が甲府の躑躅ヶ崎に館を構えました。
館とは言え、周囲を堀と石垣に囲まれた厳重なものでした。
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信虎は嫡男・晴信と不仲で、ついには晴信によって駿河国(今の静岡県)に追放されてしまいました。
晴信は積極的な領土拡張政策をとりました。
やがて晴信は出家して信玄と名を変えました。

一方その頃西の方では織田信長が急速に勢力を拡大していましたが、それを苦々しく思った将軍・足利義昭は信玄に信長追討令を出しました。
信玄は信長の盟友・徳川家康を打ち破りながら西進を続けましたが、その途上で病に倒れ、死去しました。
武田軍は甲斐に引き返し、甲府にて息子の勝頼により火葬にされました。
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勝頼の代になると武田氏は急速に弱体化し、長篠の戦いでの敗北を皮切りにして、やがて信長と家康によって滅ぼされてしまいました。
その後甲斐国は家康の領有するところになり、家康は躑躅ヶ崎から一条小山に甲府の拠点を移したので、館は廃城になってしまいました。

時は下って明治時代になると、信玄を軍神として祀る神社を立てようという機運が盛り上がってきました。
そして大正8年、かつての武田氏館の跡に武田神社が設立されました。
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神社の宝物殿に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り61城

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25番 甲府城(山梨県) [日本100名城めぐり]

平安時代末期、甲斐国の一条小山には、甲斐源氏(武田氏)の一条忠頼の居館がありました。
忠頼は暗殺されてしまって、館はその後夫人が忠頼を弔う尼寺になりました。
鎌倉時代には、新しく興った仏教の一宗派・時宗の一蓮寺になります。

戦国時代には武田氏支配下の城下町の一角になりますが、やがて武田氏は織田氏、徳川氏によって滅ぼされ、織田信長も本能寺で死亡したので、甲斐国は徳川家康の領有となりました。
家康は家臣の平岩親吉に命じて一蓮寺を移転し、新たにこの地に城を築こうとしますが、完成前に豊臣秀吉が天下を統一し、秀吉の命によって関東に移封となりました。
甲斐国は豊臣系の大名が入れ替わりつつ治めますが、最終的に浅野長政、幸長父子の時代に甲府城が完成します。
甲府城には天守台はあるものの、実際に天守が建てられたかは定かではありません。
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やがて秀吉が死に、関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、再び甲府城に親吉が戻ってきます。
その後江戸時代には徳川一族が代々城主を務めますが、宝永年間に江戸幕府の重臣であり、一条氏の末裔でもある柳沢吉保が城主になりました。
しかし吉保の嫡男・吉里が大和郡山(今の奈良県)に転封になると、その後は江戸幕府の城代が置かれるようになりました。

幕末期に戊辰戦争が勃発すると、京都から逃れてきた新選組が甲陽鎮撫隊と改称し、甲府城の確保を目指しますが、一足先に板垣退助率いる新政府軍が甲府城に無血入城してしまいました。
その後、甲州勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊は壊滅しました。

そして明治時代になり廃城となりますが、平成15年に稲荷櫓が復元されました。
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また、平成19年には山手御門が復元されました。
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稲荷櫓に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り62城

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29番 松本城(長野県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、信濃守護の小笠原氏が松本平に深志城を築きました。
小笠原長時の代に、隣国甲斐(今の山梨県)の武田晴信(後の信玄)に攻め込まれ、塩尻峠の戦いで敗退し、京に落ち延びます。
その後深志城は武田氏による信濃平支配の拠点となりました。
何とか旧領を奪還すべく越後国(今の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りますが、川中島での戦いは膠着し、奪還に至りませんでした。
長時の息子・貞慶の代になると織田信長を頼り、やがて織田氏、徳川氏によって武田氏は滅亡します。
本能寺で信長が死亡すると、貞慶は徳川家康の家臣となり、ようやく大名として深志城に返り咲くことができました。
この時貞慶は、深志城を松本城と改めました。

同じく家康の家臣・石川数正が出奔して豊臣秀吉の家臣になると貞慶もそれに従ったりしますが、秀吉の天下統一後は再び家康の元に戻り、家康が秀吉によって関東に移封になると、それにつき従って松本城を離れます。
次に松本城主になったのは数正で、数正の息子・康長の代には天守、門、城下町の整備を行いました。
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関ヶ原の戦いでは康長は東軍に付いたので所領は安堵されますが、江戸時代に康長は改易されてしまい、小笠原氏の貞慶の息子・秀政がまたも松本に返り咲きました。
しかし、大坂の陣以後は松本は親藩や譜代大名が治めることとなりました。

享保年間には、政治の中枢部であった本丸御殿が焼失してしまいました。
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その後は二の丸御殿が政治の中枢になりますが、こちらも明治9年に焼失してしまいました。
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明治時代には天守も破壊の危機にさらされますが、市川量造や小林有也らの尽力により危機を免れ、現在は国宝として多くの観光客が訪れています。
管理事務所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り63城

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42番 掛川城(静岡県) [日本100名城めぐり]

室町時代中期、今川氏の遠江支配の拠点として、家臣の朝比奈泰煕が掛川に城を築きました。
泰煕の孫の泰朝の代に、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、急速に弱体化した今川氏は武田氏と徳川氏の挟撃を受けます。
義元の子・氏真は武田信玄に駿府を追われ掛川城に逃げ込んだのですが、今度はその掛川城が徳川家康によって攻められます。
この時、井戸から立ち込めた霧が城を包んで攻撃から守ったという伝説があります。
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泰朝は奮戦して何とか和議に持ち込むと、氏真の身の保証と引き換えに開城に応じます。
徳川氏の勢力下に入った掛川城には、家康の家臣の石川家成が入城し、武田氏の侵攻からの防御の拠点となりました。

やがて、豊臣秀吉が天下を統一すると、家康は関東に移封となり、代わりに秀吉の家臣・山内一豊が入りました。
一豊は大規模な城の改築を行い、この時に天守も築かれました。
秀吉が死去すると再び家康が勢力を拡大しました。
それに反発する上杉景勝を討つため家康が会津に進軍すると、一豊もそれに従いました。
しかしその間隙を縫って関西で反家康の筆頭・石田三成が挙兵し、その対策を練るため家康は下野国(今の栃木県)小山で軍議を開きました。
この「小山評定」で、一豊は真っ先に掛川城を家康に提供することを申し出ると、他の東海道に城を持つ諸将もこれに倣いました。
東海道の磐石が確保されると、家康たちは西進し、関ヶ原で三成を破ります。
この戦いの後、一豊はその功績を評価され、土佐国(今の高知県)を与えられます。
土佐に入府した一豊は、掛川城をモデルにして河中山城(高知城)を築きました。
再び徳川氏の勢力下に戻った掛川城には、その後江戸時代を通して親藩や譜代大名が居城しました。

掛川城は「東海の名城」と謳われるぐらい美しいものでしたが、幕末に発生した安政の東海大地震で天守をはじめとしてほとんどの建造物が倒壊してしましました。
震災後、御殿など一部の建物だけが再建されました。
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時代は下って、平成時代になると掛川城の天守を再建しようという話が持ち上がりました。
その時に再建の大きなヒントになったのが、一豊が掛川城をモデルに高知城を築き、その高知城の天守が一度焼け落ちて再建しているとはいえ、同じデザインで現存しているということでした。
そして平成6年に天守が再建されました。
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再建された天守と、江戸時代から現存する御殿には、多くの観光客が訪れています。
御殿の入り口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り64城

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41番 駿府城(静岡県) [日本100名城めぐり]

室町時代、今川範国が駿河国の守護に任ぜられると、その中心部に館を構え、領国支配の本拠地にしました。
戦国時代には、今川氏9代目の義元の代に、隣国三河(今の愛知県)から松平竹千代が人質としてやってきます。
竹千代はこの地で元服し、元信、後に元康と名を改めます。
義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、元康は独立を宣言して領国に帰りました。
また、この機に乗じ甲斐国(今の山梨県)の武田信玄が攻め込んできて、今川氏は滅亡しました。

こうして駿河国は武田氏の領国となり、今川氏の館は武田氏の駿河支配の拠点となりました。
しかし、信玄が病死すると武田氏の力も弱まり、徳川家康と名を変えた元康は信長と手を組んで武田氏を滅亡させました。
これにより、武田氏の領地は徳川氏のものとなったので、家康は今川氏の館のあったところに駿府城を築きました。
やがて信長が本能寺で死に、跡を継いだ豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下を統一すると、家康は関東に移封となってしまい、駿府城の城主は秀吉の家臣・中村一氏になりました。

秀吉も死に、その後勃発した関ヶ原の戦いで勝利した家康は、征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
そして、将軍職を息子・秀忠に譲った家康は再び駿府に舞い戻って隠居しますが、このときに駿府城は大規模な改築を受けました。
この時期に、家康が手植えしたと言われるミカンの木が残っています。
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家康の後は息子の頼宣、次いで孫の忠長が城主を務めますが、忠長は兄である3代将軍・家光との確執の末自害に追い込まれ、その後駿府藩は幕府直轄領となり、駿府城には城代が置かれるようになります。

駿府城には大きな天守があったのですが、寛永年間に焼け落ちてしまい、その後再建はされませんでした。
また、明治時代になって歩兵第34連隊が駐屯することになると、天守台を含めすべての施設が取り壊されてしまいました。
今は天守のあったところに案内板だけが立っています。
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昭和時代になると城の敷地は駿府公園として整備されるようになり、平成元年には巽櫓が、平成8年には東御門が再建されました。
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この東御門の券売所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り65城

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100番 首里城(沖縄県) [日本100名城めぐり]

グスク時代
日本が平安時代だった頃、「おきなは」と呼ばれた島には狩猟・採集を中心とした社会があり、海岸部に多くの集落が生まれていました。
源為朝が大暴れした保元の乱や、平治の乱、その後の源平の戦いを経て日本は鎌倉時代に入りますが、その頃におきなはも農耕社会に移行していきました。
集落は農耕に適した台地に移り、また、おきなはは日本列島と大陸の間に位置していたことから、交易の中継地としても栄えるようになりました。
そこで力を付けた有力者たちは地元の農民を束ねて按司(あじ)となり、石垣で囲まれた城(グスク)を建造するようになりました。

唐ぬ世
力の強い按司が周辺の集落を傘下に入れることによって小さな国が出来上がり、その中からさらに強い国が周辺の国を併合していくという過程を繰り返し、やがて北山、中山、南山の三王国が成立しました。
この三王国の一つ、中山王国は浦添を首都とし、明への朝貢を開始しました。
また、この頃に中山王国の一都市であった首里にも、城が建造されました。

三山統一
中山王国で武寧が国王として在位していた頃、南山王国に尚思紹という佐敷按司がいました。
思紹の子・巴志は若くして父の跡を継いで佐敷按司になると、浦添に攻め込んできました。
武寧の部下も尚氏に味方したため、武寧は敗北し、浦添城を去ります。
勝利した巴志は思紹を中山王に即位させ、中山王国の乗っ取りに成功します。
その後、浦添から首里への遷都が行われ、首里城が王城と定められました。
次いで巴志は北山王国を攻め滅ぼし、次男・忠を北山監守として北部の抑えにします。
やがて思紹王が薨去すると、巴志が新たな中山王に即位します。
そして巴志王は古巣の南山王国をも攻め滅ぼし、おきなは全島を統べる「琉球國」を成立させました。

志魯・布里の乱
巴志王は、首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城にしました。
また、那覇港を整備し、日本、明、朝鮮、南方諸国等との交易を盛んに行い、琉球國繁栄の基礎を作りました。
巴志王が薨去すると、北山監守になっていた忠が即位します。
この頃、巴志王の7男・越来王子は、郷里を追われて首里に流れてきた金丸という人物と知り合い、その能力を見出して家臣としました。
巴志王の5男・金福は、忠王の2代後に即位すると、かつて父が整備した那覇港を一大貿易港に拡張しました。
金福王が薨去すると、その子・志魯と巴志王の6男・布里が王位をめぐって争いを起こします。
この乱で首里城が焼失してしまった上、志魯と布里の双方が戦死してしまいました。
そこで金丸らが越来王子を擁立し、越来王子が「泰久」と改名して即位することになりました。
政情が落ち着くと、首里城も再建されました。
その後も金丸は順調に出世し、泰久王の片腕となりました。

第二尚氏
泰久王が薨去するとその子・徳が即位しますが、金丸とはうまく行きませんでした。
血気にはやる徳王は自ら2000の兵を率いて喜界島に遠征し、琉球國の領土としました。
しかし、この遠征には負担も多かったので重臣たちからの信頼は失われ、金丸も隠遁してしまいました。
徳王が若くして薨去すると、法司は徳王の子を次期王として推挙しようとしますが、その資質を疑った重臣たちはそれを押し止め、隠遁していた金丸を次期王に推挙します。
金丸は隠遁先から首里城に迎え入れられ、「尚円」と改名して即位しました。
その後、新王朝は巴志王血統の王族をことごとく殺害・追放しました。

己酉の乱
円王の6代後の寧王の代に、日本の島津家が3000の兵を率いて琉球國に侵攻してきました。
琉球國は4000の兵を動員しますが、過酷な戦国時代を生き抜いてきた島津相手に歯が立つわけがないと判断し、ほとんど抵抗もせず早々に降伏しました
これにより、琉球國は日本と明の両方に服属する国家となりました。
明が滅びた後も、清に対して冊封と朝貢を続けました。
その後、首里城は2度にわたって火災によって焼失しますが、島津から原木の提供を受けるなどして再建されました。

黒船来航
寧王の12代後の泰王の代に、アメリカのマシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊が那覇沖に現れました。
ペリーから打診された首里城訪問を琉球國は拒否しますが、これを無視したペリーは武装兵員とともに上陸し、市内を行進しながら首里城に進軍してきました。
琉球王国は仕方なく、ペリーと武装解除した士官数名のみを入城させ、北殿で簡単にもてなしました。
その後、黒船艦隊は日本の幕府に開国を迫るため、浦賀に向けて出航していきました。
翌年、日米和親条約締結のために再来日したペリーが条約締結後に琉球に来航し、琉球國は琉米修好条約を締結しました。

大和ぬ世
幕府が倒れると、琉球の支配権は薩摩藩から明治政府に移管されることになり、「琉球藩」が設置され、泰王は「琉球藩王」に封じられました。
その後、廃藩置県を開始した明治政府より、清への冊封と朝貢の中止命令が下りました。
泰王はこれを無視して朝貢を続けますが、やがて東京に強制連行され、名実ともに王国は滅亡しました。
県が新設されるにあたって、当初は「琉球県」という名称が検討されましたが、「琉球」は中国語に由来する呼称であったため、日本に帰属することをよりはっきりさせるために、旧称「おきなは」に由来する「沖縄県」という名称が採用されることになりました。
その後、首里城は荒廃していき、正殿の取り壊しも検討されますが、歴代王を祭る社殿として保護されることが決定され、昭和初期には改修工事が行われました。

沖縄戦
太平洋戦争が勃発し、南方戦線の戦局が悪くなってくると、大日本帝国陸軍は、奄美群島から先島諸島までを守備範囲として連合国軍の上陸に備える第32軍を編成し、首里城の地下に大規模な地下壕を掘って司令部としました。
昭和19年10月10日にアメリカ軍による大規模な空襲が行われ、那覇市の90%が壊滅しました。
翌年3月26日に慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、29日に占領されました。
4月1日に読谷村に55万のアメリカ軍が上陸し、地上戦が始まります。
この時に、読谷村の多くの住民が自決しました。
第32軍は南下してくるアメリカ軍を迎え撃ちますが、圧倒的な火力の前に戦線はじりじりと後退し、やがて首里はアメリカ軍に包囲されます。
5月25日から首里城防衛隊に対する艦砲射撃が開始され、27日に城は灰塵と帰しました。
第32軍は首里を放棄し、南部に向けて撤退を開始します。
この時地下壕では、5000名の歩行不能の負傷兵が自決しました。
6月19日にアメリカ軍が沖縄陸軍病院の地下壕への攻撃を開始すると、100名を超える女子学徒が死亡しました。
6月23日に摩文仁で抵抗を続けていた軍司令官・牛島満と参謀長・長勇が自決し、沖縄における日本軍の組織的抵抗は終結しました。

琉球王国のグスク及び関連遺産群
ポツダム宣言の受諾によって日本が無条件降伏すると、沖縄はアメリカの統治下に入り、首里城の跡地には琉球大学が置かれました。
昭和32年に園比屋武御嶽石門が、翌33年に守礼門が復元されたのを皮切りに、首里城の復元が始まりました。
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沖縄が本土復帰した後の昭和54年に琉球大学が移転すると、城趾の本格的な復元が始まりました。
平成4年には正殿も復元され、「首里城公園」として開園されました。
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平成12年には首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵が世界遺産に認定されました。

100名城制覇まで残り66城

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99番 中城城(沖縄県) [日本100名城めぐり]

琉球で三国が鼎立していた三山時代に、中山王国で数世代の先中城按司(さちなかぐずくあじ)によって中城城は築き上げられていきました。
その後、北山王国の討伐に功のあった護佐丸がこの地に封じられると、城の改修にかかりました。
そのため、中城城には下部と上部で石垣の積み方が異なっている部分があります。
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しかしその後、勝連城主・阿麻和利の策略で中城城は包囲され、護佐丸は抵抗せずに自害して城を明け渡します。

本土が江戸時代になると、琉球国は薩摩藩の植民地となります。
正殿のあった一の郭には、薩摩藩の番所が築かれました。
そして幕末には、日本に開国を迫ったアメリカのペリーの艦隊が琉球にもやってきました。
そのとき、ペリー艦隊の探検隊は中城城も訪れ、特にアーチ型の門に対して技術水準の高さに驚嘆したという記録が残っています。
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アメリカとの地上戦が行われた太平洋戦争のときには、一の郭の番所が焼失してしまいました。
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平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、管理事務所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り67城

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98番 今帰仁城(沖縄県) [日本100名城めぐり]

日本の本土が鎌倉時代だった頃、琉球は北山王国、中山王国、南山王国の三国が鼎立する三山時代にありました。
このうち、北山王国の王城として築かれたグスクが今帰仁(なきじん)城です。

琉球は明の影響を強く受けていたため、築かれている石垣も本土のものとは異なる、曲線を多用したものとなっています。
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また、主郭には王の屋敷が築かれていました。
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しかし、力を付けてきた中山王国の尚巴志王に今帰仁城は攻略され、北山王国は滅亡します。
その後今帰仁城には北山監守が置かれて、中山王国の統治下に置かれました。

やがて、南山王国も滅ぼされ琉球国は統一されますが、本土が江戸時代になった頃、琉球国は薩摩藩の侵攻を受けます。
そのときに真っ先に標的になったのが今帰仁城で、薩摩軍によって焼き討ちにあいました。
最終的に琉球国は薩摩藩に降伏し、以後日本と明の両方に服属する国家となりました。

明治維新や太平洋戦争で沖縄は大きく揺れ動きましたが、それらは今帰仁城にはあまり影響はなく、アメリカ統治下の昭和37年に平郎門が修復されました。
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平成12年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に認定され、多くの観光客が訪れるようになりました。
現在、今帰仁グスク交流センターに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り68城

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87番 名護屋城(佐賀県) [日本100名城めぐり]

平安時代末期から戦国時代の間、肥前国松浦地方では、松浦党と呼ばれる水軍集団が勢力を誇っていました。
この松浦党の最大の力を持っていた波多氏の一族・名護屋氏が、東松浦半島の北端に垣添城という城を築きました。

やがて、豊臣秀吉が天下を統一して桃山時代が到来すると、秀吉は大陸侵攻を目論見ます。
そして、朝鮮半島に出兵するための前線基地として、垣添城を大規模に改修し、名護屋城を築城しました。
この名護屋城には秀吉自ら居城したため、単なる軍事基地ではなく、大坂城並みの絢爛な城が築かれました。
また、動員された諸大名も城の周りに陣を構え、当時は都をも凌ぐ活気にあふれていたといわれています。
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朝鮮半島では文禄・慶長と2度にわたる戦役が行われましたが、秀吉が死去すると日本軍は朝鮮から撤兵し、それによって名護屋城も廃城になりました。
やがて徳川家康が天下を取って江戸時代になりますが、江戸時代初期に同じ肥前国で島原の乱が起こりました。
乱の鎮圧後、同様の一揆の立てこもりを防ぐため、幕府はすでに廃城になっていた名護屋城を、天守台も含めて石垣にいたるまで破却させました。
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大正時代に、名護屋城と周りの陣跡は国の史跡に指定され、その後石垣の復元作業等が行われるようになりました。
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また、平成5年には、かつて秀吉の義理の甥・木下延俊が陣を構えたところに佐賀県立名護屋城博物館が建てられました。
この博物館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り69城

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40番 山中城(静岡県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、北条氏康によって小田原の西を防衛するために箱根山に築かれた城が山中城です。
この丘の上に天守が築かれていました。
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氏康の息子・氏政の時代になると、豊臣秀吉による天下統一が目前に迫り、最後まで抵抗するのは後北条氏のみとなりました。
そこで氏政は更なる防備を重ねるために急遽堀等を整備しました。
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山中城の堀は障子掘や畝堀と呼ばれる、中に仕切りを設けた堀が特徴で、これによって敵兵が堀の中を自由に動き回れないようになっています。
しかし、増築も間に合わず、秀吉の甥・秀次が率いる大軍によりわずか半日で落城、そのまま山中城は廃城となってしまいました。
城跡内にある宗閑寺には、この戦いで戦死した北条方、豊臣方双方の武将が葬られています。
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昭和48年から山中城跡は公園として整備され始め、学術的な調査も始まりました。
山中城跡の中の売店に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り70城

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19番 川越城(埼玉県) [日本100名城めぐり]

室町時代、北武蔵で覇権を持っていた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の持朝は、対立する古河公方・足利成氏に対抗するため、家臣の太田道真・道灌父子に命じて河越城を築城させました。
関東地方は石が少ないので、土塁を中心とした防備の城となり、その周囲には堀も張り巡らされました。
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また、実質上の天守である富士見櫓もこの頃、この小高い丘の上に建造されました。
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この城は代々扇谷上杉氏の居城でしたが、戦国時代になると関東地方に後北条氏が台頭しだし、幾度にわたる攻城戦の末、北条氏綱が奪取します。
氏綱の子・氏康の時代に、扇谷上杉氏の朝定は、それまで対立していた山内上杉氏の憲政と和睦し、大軍を率いて河越城の奪還に乗り出します。
しかし、氏康の奇襲によって上杉勢は壊滅、これが日本三大夜戦の一つ、河越夜戦です。
この戦によって扇谷上杉氏は滅亡、憲政は越後国(今の新潟県)の長尾景虎を頼って落ち延びます。
やがて景虎は憲政の養子となり、上杉姓を名乗るようになりました。
後の上杉謙信です。

さて、後北条氏の時代、城代は代々大道寺氏が務めますが、桃山時代になると、後北条氏以外のすべての大名が豊臣秀吉に臣従するようになりました。
秀吉の天下取りの最後の仕上げとして小田原征伐が始まると、河越城は前田利家の軍勢によって攻め落とされます。

後北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に移封されました。
この頃から、「河越」は「川越」と表記されるようになります。
以後江戸時代を通して、川越城は徳川の譜代、親藩が代々城主を務めます。

幕末には本丸御殿も造営されました。
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明治時代になるとこの本丸御殿は武道場や中学校として使用されるようになりましたが、昭和時代に文化財に指定されました。
この本丸御殿の受付窓口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り71城

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49番 小谷城(滋賀県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、北近江の戦国大名・浅井亮政が小谷山に築いた山城が小谷城です。
最初の小谷城は小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれましたが、あまりに高すぎて不便であるということで、南側の尾根上に本城が移され、本丸もそちらに築かれました。
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小谷城は、同じく近江国を拠点とする六角氏との幾度かの戦いの舞台にもなりました。
その戦いの中で六角氏に内応した今井秀信を誅殺して首をさらしたと言われる「首据石」が今でも城内に残っています。
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浅井氏は亮政、久政、長政の三代に渡って小谷城とともに繁栄しますが、長政の時代に織田信長の妹・お市の方を嫁に迎え、織田氏との同盟を結びます。
長政とお市の方の間には、茶々、初、江の三姉妹が生まれました。
しかし、信長が同じく浅井氏の同盟相手である朝倉義景を攻めると、長政は朝倉氏との関係の方を重視し、織田氏との同盟を破棄して金ヶ崎で織田軍に攻めかかります。
命からがら脱出に成功した信長は態勢を立て直し、再び近江に進行しました。
姉川にて浅井・朝倉連合軍を打ち破りますが、小谷城は難攻不落であり、ここから長政は小谷城での篭城戦に入ります。
信長は、小谷山正面の虎御前山に陣を敷きます。
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信長はまず朝倉氏を滅亡させると、浅井氏の家臣を次々に調略しました。
そして孤立した小谷城本陣は羽柴秀吉の軍によって攻め落とされ、長政はお市の方と三人の娘を託すと自刃して果てました。
落城した小谷城は秀吉が接収しますが、秀吉はすぐに長浜に拠点を移したため、小谷城は廃城になりました。

小谷山麓の、かつて武家屋敷があったところに建てられている小谷城戦国歴史資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り72城
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50番 彦根城(滋賀県) [日本100名城めぐり]

井伊の赤鬼
古来、近江国の金亀山には、活津彦根明神が祭られていました。
安土桃山時代末期、徳川家康方と石田三成方の両陣営が関ヶ原に集結すると、井伊直政は本多忠勝や娘婿の松平忠吉とともに家康本陣で采配を採りました。
井伊家にはかつて織田・徳川によって滅ぼされた武田家の遺臣が配属されており、直政はその兵制を引き継いで自軍を赤備えとしていました。
徳川方圧勝で戦闘が終息しかけた頃、福島隊を突破して突如前方から出現した島津隊がまっすぐに突撃してきました。
島津隊が方向転換して退却を始めると、直政は忠勝、忠吉とともに追撃を開始しました。
敵将・島津豊久を討ち取ったものの、銃撃を受けて落馬した直政は重傷を負ってしまいました。
やがて家康から追撃中止の命令が下り、島津隊は本国・薩摩(今の鹿児島県)に撤退していきました。

治部少に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近に 佐和山の城
戦後、直政は怪我を押して精力的に戦後処理に当たりました。
特に、島津家も含む旧石田方の大名家との和平交渉に尽力し、関ヶ原での軍功と戦後の働きが認められた直政は、石田旧領の近江北東部を賜ることになりました。
佐和山城に入った直政は、ここが三成の居城であったことを嫌って、より琵琶湖に近い所へ居城を移す計画を立て始めました。
しかし、関ヶ原で負った戦傷と長年の過労がたたり、間もなく直政はこの世を去りました。

築城
直政の嫡男・万千代が元服して「直継」と名乗り、井伊家の家督を継ぎますが、若年であったため政務は家老の木俣守勝が代行することになりました。
守勝は家康と相談し、直政の遺志を継いで金亀山に新城を築くことにしました。
大坂の豊臣秀頼を封じ込めるための拠点がほしいという家康の思惑もあって、一大名家の城としては異例とも言える天下普請とされ、古からの神社を移転した後に、佐和山城を含む周辺の城から建材が集められて作事が進められました。
天秤櫓は長浜城から移築されました。
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天守は大津城から移築されました。
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天守完成後に直継が入城し、この城はかつてここに祭られていた神の名を取って「彦根城」と呼ばれるようになりました。

赤備え
豊臣家を討伐することに決めた家康は、諸大名に参戦命令を出しました。
家康から井伊隊の大将に指名された直継の異母弟・直孝は、赤備えを率いて大坂城南方面に布陣しますが、家康は戦経験のない若い将兵の煌びやかな赤い軍装を見て嘆き、一方で使い古された赤い具足を身に付けた旧武田遺臣団を見て「あれこそが本来の赤備えである」と言ったと伝えられています。
この南方面は堅城・大坂城の唯一の弱点と見られていましたが、いつの間にか巨大な出城が築かれており、敵方の赤備えが守備に就いていました。
出城の正面に布陣していた前田隊が挑発に乗って城壁に接近したところ、一斉射撃を受けて壊滅的な損害を被ってしまいました。
直孝も釣られて松平隊とともに不用意に大坂城に攻め込んでしまい、木村重成の軍勢から一斉射撃を受けて大損害を被ってしまいました。
その後、家康が本丸に大筒を撃ち込んで和睦を引き出したことで、ひとまず戦闘は終結しました。
戦後、直継が武田遺臣団をまとめきれなかったことで御家騒動が発生すると、家康の命によって直孝が正式な当主とされ、直継は上野国(今の群馬県)安中に転封の上、分家扱いとなりました。

大坂夏の陣
翌年の夏、豊臣と最終決着をつけるために家康は再び諸大名に出兵を命じ、直孝は藤堂隊とともに河内路の先鋒を務めることになりました。
ところが、大坂城をうって出てきた長宗我部隊の前に藤堂隊は壊滅状態となり、井伊隊の前にも木村隊が立ちはだかりました。
直孝は木村隊への攻撃を決断し、激戦の末に重成を討ち取って雪辱を晴らしました。
木村隊・長宗我部隊は壊滅したものの、この戦闘によって井伊隊にも大きな損害が出たので、大坂城攻囲戦では先鋒を辞退し、藤堂隊とともに岡山口二番手に就きました。
戦闘が始まると、先鋒の前田隊が大野治房隊に切り崩されてしまいました。
井伊隊と藤堂隊は援護のために動きますが、その陣立ての崩れを見た治房隊が秀忠本陣に攻め寄せてきて、大混乱に陥りました。
しかし、兵力に勝る徳川方は徐々に盛り返し、天王寺口でも大坂方を撃破しました。
徳川方の将兵が大坂城に乗り込むと、井伊隊は山里丸の櫓に立て籠った秀頼らを包囲し、鉄砲を撃ちかけました。
やがて秀頼らは自害し、豊臣家は滅亡しました。

招き猫
直孝が参勤交代で江戸勤めをしていたある年、鷹狩の帰りに小さな貧しい寺の前を通りかかった直孝の前に、一匹の猫が現れました。
その猫が手招きするような仕草をしていたので、直孝は思わず寺に入ってしまいました。
そこで猫の飼い主である住職から接待を受けていると、にわかに天気が崩れて雷雨が降り始めました。
雨に濡れずにすんだ直孝は大いに喜び、この寺に多額の寄進をして井伊家の菩提寺としました。
直孝の死後、この寺は直孝の戒名を取って「豪徳寺」と改名されました。

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
直孝の11代後の当主・直中には15人の男子がいました。
その中の14男・直弼は、養子の行き口すらなく、彦根城近くの邸宅に「埋木舎」と名を付けそこに住まい、武術、学問、芸術に明け暮れるなど世捨て人のような生活を送っていました。
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しかし、相次ぐ兄たちの死によって奇跡的に当主の座に就くと、藩政改革を行い名君と呼ばれるようになりました。
一方その頃、江戸では黒船来航による幕政の混乱が起こっていました。
また、13代将軍・家定の継嗣を、水戸徳川家出身の慶喜にする(一橋派)か、紀州徳川家の慶福にする(南紀派)かを巡った対立も起こっていました。
しばらくすると、アメリカが修好通商条約の締結を強く求めてきました。
幕府側としても、清と戦争中のイギリスとフランスが日本にも侵略してくる恐れがあったことから、その脅威を排除するためにも条約の締結が急務であると考えていました。
安政5年、幕府は勅許を得て世論を納得させた上で条約を締結しようとしますが、京都で暗躍していた尊王攘夷派の工作もあり、勅許は下りませんでした。
やがて、老中・阿部正弘が急死し、家定が病に倒れて重態になると、直弼は南紀派から白羽の矢が立ち、大老に擁立されました。

飯泉喜内初筆一件
大老に就任した直弼はあくまで勅許の上での条約締結を主張しますが、幕閣の大勢は無勅許での締結止む無しとの考えに傾き、最終的には直弼の意向を無視する形で日米修好通商条約が締結されました。
条約締結が無勅許で行われたことで尊王攘夷派の抗議活動が全国で巻き起こり、また、直弼と対立する一橋派による圧力も日に日に強まり、政情は不安定となっていきました。
この混乱を収束させるために直弼は、慶喜の父で水戸徳川家前当主・斉昭をはじめとする一橋派と尊王攘夷派の粛清を開始しました。
間もなく家定が死亡し、慶福改め家茂が14代将軍に就任すると、直弼はさらに権力を自分に集中させるとともに、反対勢力への弾圧・粛清を強めていきました。
直弼の下には、命を狙おうとしている不穏な動きがあるという報告と警告が寄せられるようになりますが、動揺していると見られるのを嫌った直弼は、特に警護を強化するというような対策を採りませんでした。

桜田門外の変
安政7年3月3日、直弼は雛祭りの祝賀行事に参列するため、駕籠に乗って江戸屋敷を出発しました。
外桜田門の辺りに差し掛かった頃、駕籠の外でにわかに騒動が発生しました。
直後、銃声が鳴り響き、駕籠を貫通してきた弾丸が直弼の太腿に命中しました。
すぐに駕籠の周囲で戦闘が始まりました。
居合の達人でもある直弼でしたが、銃創によってすでに体は動かなくなっていました。
やがて、駕籠の外から突き立てられた無数の刀が、直弼の体を次々に貫きました。
虫の息となった直弼は駕籠から引き摺り出され、その場で首に刀が降り降ろされました。

戊辰戦争
水戸浪士たちによって直弼が殺害されたことはしばらくの間伏せられ、その後、直弼の子・直憲が家督を継ぐことは認められたものの、一橋派が復権したことで井伊家は冷遇されるようになってしまいました。
長州征討が始まると直憲は赤備えを率いて出陣しますが、赤い具足は近代戦では格好の狙撃の的となり、戦場で脱ぎ捨てて潰走するという結果になりました。
この戦の最中に家茂が死去して慶喜が将軍職を継ぎますが、先の敗戦によって彦根藩では勤皇派が台頭するようになっていました。
大政奉還の後に王政復古の大号令が発せられて鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、彦根藩は新政府にくみし、大津の守備に就きました。
その後、彦根藩兵は新政府軍に合流し、会津戦争にも従軍しました。

殿様市長
明治政府の廃藩置県により井伊家は彦根の統治者ではなくなりますが、彦根城の所有は続けました。
廃城令によって各地の城が破却されていく中で彦根城も存続の危機に瀕しますが、明治11年に巡幸で彦根を通過した天皇が保存を命じたことで、存城の決定がなされました。
昭和19年には、直憲の子・直忠によって、彦根城が彦根市に寄贈されました。
同27年には、天守と附櫓・多聞櫓が国宝に指定されました。
翌28年に直忠の子・直愛が彦根市長に就任し、市長在任中の昭和43年に水戸市との間で和解の印として親善都市盟約が結ばれました。

100名城制覇まで残り73城

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2番 五稜郭(北海道) [日本100名城めぐり]

江戸時代末期、ペリーの黒船が来航し日米和親条約が結ばれると、箱館(現在の函館)が開港されることになり、箱館山麓に奉行所が設置されました。
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しかしこの地では海からの艦砲射撃の射程圏内であるということで、奉行所をもう少し内陸に移動し、それを守るために蘭学者・武田斐三郎の設計によって西洋式の星型要塞が建造されました。
それが五稜郭です。
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実際に五稜郭が外国勢力から攻撃を受けるようなことはありませんでしたが、折りしも本土では、黒船来航に始まる一連の政情不安の末、薩摩・長州を中心とする新政府軍と幕府軍が衝突するという事態になっていました。
戦いは幕府軍の敗北に終わり、時代は明治を迎えますが、これに納得しない榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三などを中心とする旧幕臣勢力が箱館に上陸し、新政府軍に属していた松前藩を撃破して五稜郭を占拠しました。
そして、選挙によって総裁に選ばれた榎本を中心に新政府軍に対して抵抗を続けますが、やがて体制を整えた新政府軍による箱館総攻撃が始まり、土方は一本木関門にて戦死、榎本や大鳥は降伏して五稜郭を明け渡します。

旧幕府勢力が一掃されると、奉行所を始めとする建造物は解体され、大正時代には公園として一般に開放されました。
昭和39年には入り口付近に五稜郭タワーが建造され、星型の縄張りを高所から眺めることができるようになりました。
そして平成22年には箱館奉行所が復元されました。
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五稜郭タワーの一階券売所および、奉行所前の売店に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り74城

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51番 安土城(滋賀県) [日本100名城めぐり]

目賀田城
多数の有力家の御家騒動が複合した応仁の乱が京都で勃発すると、近江守護・六角氏もその例に漏れず、東西に分かれました。
六角氏本城・観音寺城には宗家の亀寿丸が籠っていましたが、ここも度々戦場になったので、宗家を護る六角家臣団は多数の支城を築きました。
その中の一つが、目賀田氏が目賀田山に築いた目賀田城でした。
やがて乱は終結しますが、10年にも及んだ大乱は足利将軍家の求心力を低下させ、時代は戦国に突入していきました。

観音寺城の戦い
永禄8年、京都で足利氏13代将軍・義輝が三好三兄弟(三好長逸・三好政康・岩成友通)に暗殺されるという事件が起こりました。
3年後、隣国・美濃(今の岐阜県)の織田信長が、義輝の弟・義昭を奉じて岐阜城で上洛の兵を挙げました。
六角家当主・義賢とその子・義治は抵抗の構えを見せますが、支城の箕作城と和田山城が一日足らずで落城すると、観音寺城を捨てて甲賀に落ち延びていきました。
他の支城を守る家臣団は、目賀田氏を含め一斉に降伏しました。
唯一、日野城の蒲生賢秀が籠城の構えを見せましたが、妹婿である織田家臣・神戸具盛の説得に応じ、3男・鶴千代を人質に差し出して恭順しました。
信長は鶴千代を一目見て、いたく気に入りました。
その後、三好三兄弟を追い落として上洛を達成した信長の力により、義昭は念願の15代将軍に就任しました。
義昭と信長の間を仲介していた明智光秀は、そのまま義昭と信長の両方に仕えるようになりました。
目賀田氏は光秀の配下に就くことになりました。
信長は鶴千代に英才教育を受けさせ、さらには自らが烏帽子親となって元服の儀を執り行い、「賦秀」と名乗らせました。
この期待に応えて初陣を飾った賦秀に、信長は自分の次女を娶らせました。

天下布武
その後、信長と義昭との仲が険悪になって交戦状態に陥ると、光秀は義昭を見限って織田家の直臣となりました。
信長は京都に攻め上って義昭を追放し、次いで朝倉、浅井を滅ぼし、長篠で武田軍を壊滅させ、着々と天下人への階段を駆け上がっていきました。
嫡男・信忠が美濃の岩村城の攻略に成功すると、信長は信忠に家督と尾張(今の愛知県)・美濃二ヶ国を譲ることにしました。
そして、京都に近く、琵琶湖の水運が利用でき、なおかつ北陸方面にも睨みを利かせられる旧六角本領に目を付け、ここを自身の新たな本拠地にすることを考えました。
信長から目賀田山の明渡しを求められた目賀田家当主・貞政は、代替の領地と引換えに退去しました。

築城
信長は、自分が天下人であることを世に知らしめるため、これまでになかった巨大で絢爛な城を築くことを考えました。
信長はまず活津彦根神社に参詣寄進し、普請の無事を願いました。
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城は観音寺城の様式を発展させた総石垣造りとし、城内には自らの菩提寺として「摠見寺」を建立しました。
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やがて、山頂の石垣台の上に5重6階の巨大建造物がお目見えしました。
「天主」と呼ばれたこの建造物は、最上階が金色でその下の階が朱色の八角堂、南蛮建築の影響を受けて中央部が吹抜けになっているという、それまで誰も見たことのないようなものでした。

第六天魔王
信長は岐阜城を信忠に引き渡し、安土城に移りました。
天主のような高層建築は住むには不便と思われますが、信長は日常的にここで寝泊まりしていました。
翌年、イエズス会巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に拝謁するために安土城を訪れました。
信長はヴァリニャーノに狩野永徳が描いた安土城の屏風絵を贈り、代わりに彼に従っていた黒人奴隷を所望して譲り受けました。
信長はこの黒人に「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、自身の側近としました。
ヴァリニャーノが布教活動のために日本を離れることになると、出発前のお盆の夜に信長は城全体を提灯で飾り付け、はなむけとしました。
翌年の正月に信長は城の一部を一般公開し、武士・庶民問わず100文の拝観料を支払った者は誰でも招き入れました。
拝観料の徴収は信長が自分でやっていました。

是非に及ばず
長年の盟友・徳川家康が安土城に来城することになり、信長は武田征伐の労をねぎらうため、光秀に饗応役を命じました。
饗応が始まって3日目、中国で毛利攻めを行っていた羽柴秀吉から援軍の要請が届きました。
毛利との決着をつけるため自ら出陣することに決めた信長は、まず光秀を先発させました。
その後、信長は賢秀に安土城の留守居役を任せ、信忠と合流するために上洛しました。
信長が京都の本能寺に到着すると、先に上洛していた信忠が訪問してきました。
その夜、信長は我が子と酒を酌み交わし、宴もたけなわで信忠は滞在先の妙覚寺に帰っていきました。
翌日未明、信長と小姓衆は、寺の周りの喧騒で目が覚めました。
下々の者が喧嘩でも始めたのかと思っていると、突然鬨の声が上がり、鉄砲が一斉に撃ち込まれました。
謀反であることに気付いた信長は、謀反人が誰なのかを知るために小姓の森(蘭丸)成利に物見に行かせました。
戻ってきた成利から襲撃しているのが明智勢であることを告げられた信長は、光秀の性格と能力からして脱出は不可能であることを悟り、火の回った御殿の奥深くに退いて、内側から納戸を締め切りました。
その後、信忠も近隣の二条新御所で明智勢に襲われ、討死しました。
戦闘終結後、明智勢は灰になった本能寺を引っ搔き回しましたが、信長らしき死体はどこからも出てきませんでした。

三日天下
安土城で報せを受けた留守居役の賢秀は、賦秀と手分けして信長の妻子を保護し、日野城に連れ帰りました。
安土城は空城となりますが、程なくして京都と近江を制圧した光秀が入りました。
やがて、誠仁親王の勅使が到着すると、京都の治安維持を命じられた光秀は、重臣・明智秀満に城を預けて上洛しました。
そこで新政権を築こうとした光秀でしたが、中国遠征中だった羽柴軍が驚異的な速さで京都に向かってきているという報せが入りました。
光秀が迎撃態勢を取ると、秀満も後詰のために出陣しました。
しかし、秀満が合流する前に光秀は信長の3男・信孝を擁した秀吉に山崎で敗れて討死、秀満も打ち出浜で秀吉の家臣・堀秀政に敗れ、坂本城に撤退した末に自害しました。
程なくして安土城で原因不明の火災が発生し、天主と本丸は焼け落ちてしまいました。
完成からわずか3年目のことでした。
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清洲会議
当主と前当主を同時に失ってしまった織田家の、家督及び遺領の相続を決めるための会議が清洲城で開催されました。
この会議では、信孝と次兄・北畠信意が互いに後継者の立場を主張して退きませんでしたが、最終的に信忠の嫡男・三法師が家督を継いで安土城に入り、信孝がその後見役を務めるということで決着しました。
その後、仇討ちの功労者である秀吉は、信長の4男であり自分の養子でもある秀勝を喪主に立て、京都大徳寺で信長の葬儀を大々的に執り行いました。
葬儀では秀吉が信長の位牌を持ち、自身こそが信長の後継者であるということを世に知らしめました。
葬儀終了後、秀吉は安土城に信長の御霊を供養する廟を建立しました。
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廃城
信孝は、三法師を岐阜城に留め、織田家の実権を握ることを画策しました。
反発する信意が旧姓・織田に復し「信雄」と改名すると、同心する秀吉、丹羽長秀、池田恒興が信雄を当主に擁立しました。
信孝は柴田勝家や滝川一益らと結び、三法師を擁立して挙兵したものの、勝家は賤ヶ岳での敗戦後に本領・北ノ庄で自刃、信孝も降伏した後に自害に追い込まれました。
その後、三法師は仮屋敷が整備された安土城に入り、信雄が新たな後見役となりました。
しかし、三法師はすぐに別の城に移され、秀吉の甥・秀次が近隣に八幡山城を築くことになると、安土城は廃城となりました。

調査整備
時は流れ、大正時代になると城跡を史跡として保存しようという動きが高まり、昭和時代に入ると発掘調査なども行われるようになりました。
平成元年からは、20年計画での調査整備が実施されました。

100名城制覇まで残り75城

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52番 観音寺城(滋賀県) [日本100名城めぐり]

飛鳥時代、繖山の山頂近くに聖徳太子が観音正寺を建立したという言い伝えがあります。
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その後、観音正寺に至る参道の途上に、藤原鎌足の息子・定恵和尚が桑実寺を建立しました。
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南北朝時代の動乱期には、北朝方の六角氏頼が観音正寺を砦として使用していたとの記録があります。
応仁の乱が起こると少しずつ城郭としての造りが形成され、3度にわたってこの観音寺城をめぐる攻防戦が繰り広げられました。

戦国時代に入ると、京を追われた室町幕府12代将軍・足利義晴が桑実寺に一時的に幕府機能を移し、そのときに観音寺城も大改修が行われ、居住性があがりました。
将軍が京に戻った後は、六角定頼によって城下町石寺で全国初の楽市が開かれました。
また、この頃になると戦に鉄砲が使用されるようになってきたので、それに対応できるように石垣が築かれました。
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やがて、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するにあたり、観音寺城の支城が信長によって次々と落とされていき、それに恐れおののいた六角義賢・義治父子は甲賀に落ち延びて観音寺城は無血開城されました。
六角親子はその後観音寺城に戻ることはできず、そのまま廃城となってしまいました。

観音寺城にゆかりの深い、観音正寺、桑実寺および石寺楽市会館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り76城

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23番 小田原城(神奈川県) [日本100名城めぐり]

平安時代末期、小田原の地に小早川氏の居館がありましたが、室町時代中期に大森氏がこれを奪い、城として拡充しました。
これが初期の小田原城です。

戦国時代になると、伊勢盛時(早雲)がこの城を奪って改築しました。
2代目・氏綱の時代にこの一族は北条姓を名乗るようになり、小田原城を拠点として関東に君臨するようになりました。
そして、3代目・氏康の時代にはさらに勢力を拡大します。
4代目・氏政の時代には、上杉謙信や武田信玄の侵攻を受けますが、ことごとくそれらを撃退し、小田原城はその堅牢ぶりを証明することになります。
しかし、やがて西の方では豊臣秀吉が着々と天下統一事業を進めるようになりました。
その秀吉に対抗するため小田原の町全体を城壁で囲んだため、小田原は「城の中に町がある」とまで言われるようになりました。
5代目・氏直の時代にはとうとう秀吉が空前絶後の大軍を率いて小田原に攻め込んできました。
小田原城内では抗戦派の氏政とその弟・氏照、降伏派の氏直の対立で評定が紛糾したため、後の世で結論の出ない会議のことを「小田原評定」と言うようになりました。
さて、堅牢を誇った小田原城でしたが、3ヶ月の篭城の末、結局は大軍の前に降伏を余儀なくされました。
降伏時に氏政と氏照は切腹しましたが、二人が最期を遂げた地には小さな墓が立てられています。
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その後、秀吉の命で徳川家康が関東に入封することになり、小田原城は家康の家臣・大久保氏の城となりました。
江戸時代には天守が建てられましたが、その倒壊や修築が何度か繰り返されました。

明治時代になると建造物はことごとく破却されてしまいました。
明治27年には、小田原出身の農政家・二宮尊徳を祭る報徳二宮神社が建立されました。
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昭和に入ってから少しずつ建造物の復元が始まり、昭和35年には鉄筋コンクリート造りで天守が復元されました。
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この天守の1階に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り77城

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86番 大野城(福岡県) [日本100名城めぐり]

飛鳥時代、日本がまだ倭国と呼ばれていた頃、大和朝廷は地方行政機関として何箇所かに「大宰府」を置きました。
そのうち九州の大宰府は、主に大陸に対する外交・軍事をつかさどっていました。
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さて、そのころ大陸はどういう状況だったかというと、中国は唐王朝が支配しており、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれていました。
このうち倭国は百済と友好関係を結んでおり、百済を通して大陸の文化・文明を吸収していたのですが、百済は唐・新羅連合軍によって滅ぼされてしまいました。
倭国は百済復興をかけて朝鮮半島に出兵しますが、白村江の戦いで大敗してしまいます。
すると今度は、逆に唐・新羅が倭国に攻め込んでくるのではないかという危機感が生まれてきて、百済からの亡命者の手を借りて西日本各地に防御体制を敷き始めました。
真っ先に標的になりそうな九州の大宰府を守るために、防御のための城として水城(みずき)、基肄城(きいじょう)を、それらが破られたときに大宰府の機能を背後の大野山に移して立てこもるための城として大野城が築かれました。
大野城跡には、現在も建物の礎石跡や、朝鮮式の土塁、石垣が残っています。
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奈良時代には、唐との関係も安定してきたので城としての機能は失われ、四天王を祭る祭事場に変わっていきました。

現在、大野城跡は福岡県立四王寺県民の森として、憩いの場所になっています。
この県民の森の管理事務所および、大宰府展示館、大野城市総合体育館等に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り78城


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38番 岩村城(岐阜県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代の初め、平氏討伐に功のあった加藤景廉が源頼朝から美濃国の遠山庄を拝領しました。
後に景廉の嫡男・景朝がこの地に着任し、姓を地名に倣って「遠山」と改めました。
この頃遠山氏の砦として築かれたのが、初期の岩村城です。

戦国時代には近隣の織田・徳川・武田家等が狙う戦略の要衝となり、徐々に山全体が城塞化していきました。
岩村城の城主には代々秘蔵の蛇骨が受け継がれていて、敵が急襲してきたときに「霧ヶ井」という井戸にそれを投げ込むとたちまち山全体を霧が覆って敵をかく乱できたという言い伝えがあり、「霧ヶ城」とも呼ばれています。
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さて、遠山氏の末裔・景任が城主を務めていた頃、織田信長はこの地を自分の勢力化に置くため、年下の叔母・おつやの方を景任と結婚させます。
武田信玄が攻め込んできたこともありましたが、信長の援護によって城は守り抜かれました。
ところが程なくして景任が病没し、世継ぎがいなかったため、信長は5男・御坊丸を養子として差し出しました。
御坊丸は幼少であったため、おつやの方が岩村城の女城主として政務を執ることになりました。

しかし、この地をあきらめていなかった信玄は、徳川家康のいる遠江国(今の静岡県)を攻める際、家臣の秋山虎繁に対して岩村城攻略を命じました。
堅牢を誇った岩村城はなかなか落ちませんでしたが、このとき虎繁は一計を案じます。
それは、「おつやの方と虎繁の結婚」でした。
戦を長引かせたくなかったおつやの方はこの案を呑み、虎繁は岩村城を奪取することに成功します。
このとき、信長から養子として差し出されていた御坊丸は、甲府に送られてしまいました。
当然ながら、城と息子を奪われてしまった信長は激怒しました。
数年後、信玄が病没し、跡を継いだ勝頼も長篠の戦いで大敗して武田氏の勢力に陰りが見え始めると、信長は嫡男・信忠を総大将として大軍を送り込み、岩村城の攻略に成功します。
そして、おつやの方は虎繁らとともに裏切り者として逆さ磔の刑に処されてしまいました。

その後、岩村城の城主は次々と変わっていき、信長が本能寺で横死した後は森長可が接収します。
この時代に、家老・各務元正によって城は近世城郭として再構築されていきました。
岩村城には天守はありませんが、急峻な山岳地帯に築かれた城なので、本丸に6段の石垣があります。
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羽柴秀吉と家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発すると、長可は秀吉方に付いて小牧山に進軍します。
その間、家康の元に逃れていた遠山氏の利景が岩村城に攻め込みますが、元正によって撃退されました。
しかし、この小牧・長久手の戦いによって長可は戦死し、森氏は弟の忠政が相続することになりました。
合戦は家康の勝利に終わりますが、秀吉は家康を懐柔して臣下にすることに成功します。
その後、羽柴改め豊臣秀吉は天下統一を成し遂げます。

秀吉が死去した後、忠政は信濃国(今の長野県)松代に転封となり、代わりに田丸直昌が入城しました。
やがて家康と上杉景勝の対立が激化し、家康が上杉討伐のため会津に進軍すると、直昌も討伐軍に従軍しました。
しかし、その間隙をぬって石田三成が挙兵すると、直昌もそれに呼応して西軍の一員として大坂城の守備に就きました。
家康は、利景らに命じて岩村城を攻撃させます。
やがて、関ヶ原で家康率いる東軍が勝利を収めると、岩村城の田丸軍は投降し利景が城を接収します。

家康は田丸家を改易とし、利景には功を認めて旧領の明知を与え、岩村城には親族の松平家乗を入れました。
家乗は、山上にあった城主居館を山麓に移しました。
その後江戸時代の間、一時丹羽家が藩主を務めた時期もありましたが、基本的に松平家が岩村藩を治めました。

明治時代になると廃城になってしまい、石垣と山麓の藩主邸を除く建造物が破却されてしまいました。
残った藩主邸も明治14年に全焼してしまいますが、平成2年に門や太鼓櫓などが復元されました。
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この門の奥に岩村町歴史資料館があり、そこに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り79城

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43番 犬山城(愛知県) [日本100名城めぐり]

創建年は定かではありませんが、少なくとも平安時代には、木曽川のほとりのとある丘に針綱神社という神社がありました。
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室町時代、京の都で応仁の乱が繰り広げられていた頃、織田広近がここに砦を築きました。
後に織田信康がこの砦を改築し、針綱神社も別の場所に移転して城郭を構築しました。
これが犬山城です。
信康の時代に天守の二階部分までが建てられたと言われています。
信康が斎藤道三との戦いで敗れて死亡すると、その子・信清が跡を継ぎますが、やがて従兄弟の信長と対立するようになり、ついには信長に城を攻め取られてしまいます。
その後、信長配下の池田恒興や信長の子・勝長が城主を務めました。

信長が本能寺の変で横死すると、信長の子・信雄が部下の中川定成を城主として羽柴秀吉と対立しますが、かつての城主であり織田氏譜代であったはずの恒興が秀吉側に寝返り、奇襲をかけ城を奪い取ります。
信雄と同盟を結んでいた徳川家康はこれに対して軍事行動を起こし、小牧・長久手の戦いが始まりました。
この戦いで秀吉は犬山城を拠点としていました。
戦いは膠着しましたが、最終的には講和が成立し、犬山城は再び信雄のものとなります。
羽柴改め豊臣秀吉が天下人となると、信雄は秀吉に臣従しますが、やがて怒りを買い改易されました。
次に、犬山は秀吉の甥・秀次の領地となり、秀次の実父・三好吉房が城代を務めることになりましたが、秀次事件で秀次が切腹すると、吉房も連座して流罪となり、石川貞清が城主となりました。
貞清は城を改築しますが、程なくして秀吉が死去し、家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが始まります。
この戦いで貞清は西軍に付いて敗北したため、戦後は没落しました。

家康が幕府を開いて江戸時代が始まると、小笠原氏、平岩氏を経て、尾張藩の付家老・成瀬正成が城主となりました。
その後は代々成瀬氏が城主を務めることになりました。
正成の代に城の整備が行われ、天守の3階以上の部分が増築されます。
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明治時代になると、犬山城はいったん廃城となり、天守以外の建物はほとんど破却されてしまいました。
明治15年に、かつて信康が移転させた針綱神社が、犬山城の敷地に戻ってきました。
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明治24年の濃尾震災で天守の一部が壊れてしまうと、それを修理するという条件で再び犬山城は成瀬氏のものになりました。
そして、実に平成16年まで、犬山城は成瀬氏の所有であり続けましたが、同年、(財)犬山城白帝文庫が設立され、財団所有に切り替わりました。
現存天守の中でも最古と言われており、国宝として今も多くの観光客が訪れています。
入城門の二階事務室に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り80城

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39番 岐阜城(岐阜県) [日本100名城めぐり]

稲葉山城
鎌倉時代、政所執事・二階堂行政は、井之口の井口山に山砦を築きました。
この砦を継いだ行政の孫・伊賀光資は、「稲葉」に改姓した際、同時に山の名を「稲葉山」、城の名を「稲葉山城」と改めました。
しかし、その次の二階堂行藤の代を最後に稲葉山城は廃城となりました。
室町時代に土岐氏が美濃守護に任ぜられると、守護代・斎藤利永は廃城となっていた稲葉山城を修築し、自らの居城としました。

美濃の国盗り
戦国の世になると、斎藤氏支流の長井長弘は、幼少にして斎藤家の家督を継いで守護代となった利良を補佐するため、稲葉山の麓に自身の館を建てました。
やがて長弘は、松波庄五郎という人物を家臣として召し抱えました。
めきめきと頭角を現した庄五郎は、やがて長井姓を賜って「新左衛門尉」と名乗るようになり、守護・政房の次男・頼芸からも信頼を勝ち取りました。
しばらくして、頼芸とその兄・頼武の間で、土岐家の家督争いが始まりました。
この争いで利良は頼武を、長弘と新左衛門尉は頼芸を支持することとなりましたが、政房の死後、頼武は妻の兄・朝倉孝景の軍事力を盾に守護の座に就きました。
これに対して長弘と新左衛門尉が政権奪取を企てて挙兵し、稲葉山城は攻め落とされました。
稲葉山城を奪取した長弘は美濃守護所の福光館も占拠しました。
その後、規秀は頼芸から賜った女性を側室とし、程なくして嫡男・豊太丸が生まれました。
しかし、この女性が元々頼芸の妾であったことから、この子は頼芸の子なのではないかとの噂も流れました。
やがて頼武は孝景を頼って越前国(今の福井県)に亡命しました。
これにより、長弘は美濃の実権を握ることとなりましたが、その後、越前に逃れた頼武と内通したとして、新左衛門尉に誅殺されました。

美濃の蝮
間もなく、新左衛門尉も死去しました。
二人の強力な後ろ盾を失った頼芸は、規秀を稲葉山城主にして重用し、勢力の保持を図りました。
台頭してきた規秀のもとに、土岐氏支流の明智光安から妹が人質として差し出されますが、規秀はこれを正室とし、やがて娘・帰蝶が生まれました。
頼芸は自らの守護としての正当性を宣言しましたが、このことが頼武の跡を継いだ頼純との対立を激化させ、戦火が美濃全土に拡大しました。
その渦中に利良が病死し、規秀は斎藤家の名跡を継いで「斎藤利政」と名乗るようになりました。
ただし、利良の死には不審な点も見られました。
その後、利政は稲葉山の山頂に城作りを始めるとともに、山麓の居館の改築も実施しました。
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主をきり 婿を殺すは 身のおはり 昔はおさだ 今は山城
頼芸が勅許によって正式に守護の座に就くと、追い詰められた頼純は父と同様に孝景を頼って越前に亡命していきました。
その後、利政は頼芸の弟・頼満を毒殺し、さらに頼芸を隣国・尾張(今の愛知県)に追放して、美濃一国の掌握を果たしました。
追放された頼芸は尾張の大名・織田信秀の支援を受け、越前に亡命していた頼純とも連携するようになりました。
やがて、織田、朝倉の支援で頼芸と頼純が美濃への再入国を果たすと、織田軍が南から、朝倉軍が西から本格的な侵攻をかけてきました。
織田軍は5000の兵で、村々を焼き払いながら加納口に迫ってきました。
日が暮れて織田兵が撤兵を開始すると、半分ぐらいひいたあたりを見計らって利政は総攻撃をかけました。
この攻撃で織田軍は壊滅し、信秀は6、7人のお供だけを連れて尾張に逃げ帰っていきました。
頼純もこの結果を見て、朝倉軍とともに越前に撤退していきました。
戦後、朝倉と「頼純を守護とする」という条件で和睦が成立しました。
利政は和睦条件に従って頼純を守護の座に就け、帰蝶を嫁がせ、そしてその上で殺害しました。

尾張の大うつけ
織田とも和睦を結ぶことにした利政は、後家となっていた帰蝶を、信秀の嫡男・信長に嫁がせることになりました。
光安を媒人として婚礼が執り行われ、帰蝶は「美濃から来た姫」ということで「濃姫」と呼ばれるようになりました。
数年後、利政は、婿となった信長と尾張の正徳寺で会見することになりました。
「大うつけ」と名高い信長でしたが、利政の前には多数の鉄砲を装備した護衛とともに、堂々たる正装で現れました。
利政は大変驚きましたが、すぐに信長の器量を見抜き、「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と呟きました。
やがて信秀が死去し、信長が織田家の家督を継ぎました。
国境の憂いを取り除いた利政は国内の残りの対立勢力を駆逐し、頼芸を再び尾張に追放して、ついに美濃をその手中に完全に収めました。

おいぼれ
利政は謀略の限りを尽くして美濃一国を手に入れたため、当然ながら旧土岐・斎藤家臣団からの信頼は得られず、領国経営もうまくいきませんでした。
やがて利政は重臣たちに追われる形で、元服して「義龍」となっていた豊太丸に家督を譲り、自らは出家して「道三」と号しました。
鷺山城に隠居した道三は義龍の弟・孫四郎と喜平次を「利口者」として可愛がっており、「おいぼれ」として疎んじられていた義龍は道三に廃嫡されそうになりました。
限界に達した義龍は、家臣と共謀してその弟たちを殺害しました。
そして義龍は、唐の故事に登場する、止むを得ない事情で父を殺めて孝行とされた人物の名を取り、「范可」と名乗るようになりました。

長良川の戦い
緊張が頂点に達し、17500の范可軍と2700の道三軍が長良川を挟んで対峙する事態となりました。
范可軍の渡河により乱戦が始まり、やがて兵力に勝る范可軍が道三の本陣に到達しました。
かつて道三に仕えていた長井道勝が道三を生捕りにしようとしますが、もみ合っている間に同僚の小牧源太が横から道三の脛を薙ぎ、首を斬り落としてしまいました。
これに道勝は激怒しましたが、一番手柄の証拠として道三の鼻を削いで懐に収めると、その場は退きました。
道三を討ち果たした范可は、道三の救援のために向かってきた織田軍にも攻めかかりますが、織田軍はすぐに撤退していきました。
同じ頃、別動隊が道三方に付いていた光安の居城・明智城を攻めていましたが、2日間の攻城戦の後に光安が自刃して城は落ちました。
明智氏は一族離散となり、光安の甥・光秀は越前に流れていきました。

美濃一国譲り状
「父殺し」の汚名を着るような状況でしたが、范可には「道三の実子ではなく土岐氏の落胤」という噂が流れていたので、范可はこれを利用し、足利氏13代将軍・義輝から許可を得て、土岐氏の主筋である「一色」に改姓しました。
道三から「美濃一国を譲る」という遺言を残された信長が再三侵攻してきましたが、その度に范可はこれを撃退しました。
しかしそんな中、范可は急死してしまいました。
范可の長男・龍興が家督を継いで斎藤に復姓しますが、龍興が若年であったことから家臣団に動揺が走りました。
それを見た信長が大規模な侵攻を仕掛けてきますが、歴戦の斎藤家臣団は竹中(半兵衛)重治の巧みな伏兵戦術の下でこれを撃退しました。

稲葉山城乗っ取り
しかし、龍興はこの労に報いず、一部のお気に入りの家臣だけを寵愛して古参の重臣たちを遠ざけるようになりました。
重治の岳父でもある重臣・安藤守就が諫言したものの、逆に龍興の逆鱗に触れることとなってしまいました。
ある日、人質として城中にいた重治の弟・重矩が急病に倒れました。
「弟に良い治療を受けさせたい」という重治からの申出により、竹中家の家臣と人夫がいくつもの長持を携えて登城しました。
しばらくして、今度は数人の家臣を伴った重治が登城して見舞いのために重矩の部屋に入りますが、その直後、武装して部屋から出てきた重治、重矩ら17名により、城兵が次々に斬り殺されていきました。
不意を突かれて城内が大混乱に陥っているところに、さらに守就率いる2000の兵が現われ、瞬く間に城下も制圧されてしまいました。
敵軍襲来と思い込んだ龍興は城から逃げ出し、たった一日で稲葉山城は重治のものとなりました。

稲葉山城の戦い
この話を聞きつけた信長から「稲葉山城を明け渡せば美濃半国を与える」という話が持ち掛けられましたが、重治は「この城は主を諫めるために一時的に預かっているだけである」と回答して退けました。
重治は、統治能力の低い龍興に代わって美濃を治めようとしますが、思ったほど斎藤家臣団の支持が得られなかったため、乗っ取りから半年後、龍興に城を返還して美濃を去りました。
龍興は美濃の主に返り咲きましたが、この一件以降、叔父・利堯や有能な家臣たちが次々と織田方へ離反していきました。
やがて井之口は裸同然となり、満を持して攻め込んできた信長によって稲葉山城は落城しました。
龍興は、長良川を下って伊勢国(今の三重県)長島に落ち延びていきました。

岐山より起こり 天下を定む
道三の遺言通りに美濃を手に入れた信長は、小牧山から稲葉山に自らの拠点を移しました。
そして、井之口を「岐阜」、稲葉山城を「岐阜城」と改名し、山麓の居館も建て直しました。
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岐阜城を拠点として「天下布武」の事業を開始した信長の頭には、かつて自分の前に幾度も立ちはだかり、今は牢人の身となってしまっている重治のことがありました。
重治を登用したいと考えた信長は、家臣の木下秀吉に勧誘に行かせました。
重治は当初は固辞の姿勢を見せていましたが、それでも秀吉は熱心に勧誘を続け、結局、信長の直臣となることは拒否されたものの、その代わり秀吉の家臣となることで了承を得ました。
信長のもとにはこの頃、越前に逃れていた光秀も現れました。
永禄8年に殺された義輝の弟・義昭と越前で知り合った光秀は、ともに上洛して義昭を将軍職に就かせることを信長に要請するためにやってきたのでした。
信長はこの要請にこたえて大軍を率いて上洛し、義昭を15代将軍に就かせました。
光秀は信長と義昭の両方に仕えるようになりますが、やがて信長と義昭との仲が険悪になって交戦状態に陥ると、義昭を見限って織田家の直臣となりました。
その後、信長は京都に攻め上って義昭を追放し、次いで朝倉、浅井を滅ぼし、長篠で武田軍を壊滅させ、着々と天下人への階段を駆け上がっていきました。

ときは今 天が下知る 五月哉
信長は、岩村城攻略に成功した嫡男・信忠に家督と美濃・尾張二ヶ国を譲ることにしました。
利堯とその弟・利治は、信忠の家臣となりました。
その後、信長は琵琶湖畔に安土城を築城して移り、岐阜城は信忠に譲りました。
新たな岐阜城主となった信忠はさらなる整備改修を行いました。
また、織田軍の兵権も任されるようになったので、信忠は東へ西への転戦を繰り広げることとなりました。
しばらくすると、信長のもとに、中国で毛利攻めを行っていた木下改め羽柴秀吉から援軍の要請が届きました。
信忠は父とともに出陣することになったので、利堯に留守居役を任せ、利治とともに岐阜城をたちました。
合流のために上洛した信忠は妙覚寺に滞在し、父が京都に到着するとその滞在先の本能寺を訪れました。
その夜は父と酒を酌み交わし、妙覚寺に戻りました。
翌日未明、信忠のもとに火急の報せが到着しました。
「本能寺が明智勢に襲われている」というものでした。
急いで救援に向かったものの道中で父自害の知らせを受け、京都脱出をあきらめた信忠は光秀を迎え撃つために二条新御所に籠城しました。
信忠は自ら刀を振るって敵兵と死闘を繰り広げますが、兵力差は歴然でついには自刃、利治も討死しました。

清洲会議
岐阜城で報せを受けた留守居役の利堯は、城を掌握した上で中立を保ち、様子を見ることにしました。
やがて、中国から驚異的な速さで引き返してきた秀吉が、信長の3男・信孝を奉じて山崎で光秀を討ちました。
その後、前当主と現当主を同時に失ってしまった織田家の、家督及び遺領の相続を決めるための会議が清洲城で開催されました。
この会議では、信長の次男・北畠信意と信孝が互いに後継者の立場を主張しましたが、最終的に信忠の嫡男・三法師が家督を継ぎ、信孝をその後見役とすることで決着しました。
遺領については、信孝が美濃を、信意が尾張・伊賀・南伊勢を相続することとなりました。
利堯はこの決定に従い、岐阜城を明け渡して信孝の家老となりました。

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
信孝は、三法師を岐阜城に留め、織田家の実権を握ることを画策しました。
反発する信意が織田に復して「信雄」と改名すると、秀吉、丹羽長秀、池田恒興は信雄を当主に擁立しました。
信孝は柴田勝家や滝川一益らと結び、三法師を擁立して挙兵しますが、逆に秀吉、長秀、恒興の嫡男・元助の軍勢に岐阜城を囲まれてしまいました。
信孝は降伏し、三法師を引き渡した上で、母、妹、娘、側室を人質として差し出しました。
その後、体勢を立て直した信孝は、一益と組んで再挙兵しました。
秀吉が美濃に進軍してくると、その背後の近江国(今の滋賀県)で勝家が挙兵しました。
秀吉はこれに対して、かつて中国から大返しをやったときと同じように美濃から近江に取って返していき、両軍は賤ヶ岳で激突しました。
この戦いで敗北した勝家は本領・越前北ノ庄に撤退したものの、冬が明けたころに攻め込まれ、自刃しました。
信孝の挙兵により、秀吉に人質として差し出されていた信孝の家族は磔にされました。
やがて岐阜城も信雄の軍勢に包囲され、信孝は降伏しました。
秀吉は信孝を尾張知多の野間に送り、そこで自害させました。

小牧・長久手の戦い
秀吉の支配体制が確立すると美濃は恒興に与えられることになり、恒興が大垣城主、元助が岐阜城主となりました。
秀吉と信雄が険悪になると、東で勢力を拡大していた徳川家康が信雄と結託し、軍勢を進めて清洲城に入りました。
織田家譜代である恒興は周囲から信雄方に付くと思われていましたが、尾張1国を約束してくれた秀吉に味方することを決め、先手を打って犬山城を占拠しました。
大坂を出陣した秀吉が岐阜を経由して犬山に到着すると、両陣営は小牧で膠着状態になりました。
恒興は三河国(今の愛知県)に攻め込むために元助と次男・照政を連れて出陣しますが、長久手で織田・徳川連合軍の猛攻に合い、恒興と元助は討ち取られてしまいました。
照政は家臣から「父と兄はすでに戦場を離れた」と説得されて離脱しました。
その後、池田隊および共闘していた森隊は壊滅しました。
戦で勝てないと判断した秀吉は、信雄と講和を結んで家康から戦闘を続行する大義名分を奪い、何とか休戦に持ち込みました。
当主と嫡男を同時に失った池田家の家督は、照政が継ぐことになりました。
岐阜城を相続した照政は、天守や櫓を築きました。
秀吉が関白に就任して「豊臣」姓を賜ると、家康も臣従し、豊臣政権が確立しました。
その後、西国を平定した秀吉は天下統一事業の総仕上げとして小田原征伐を行いますが、照政はその時の軍功を評価され、三河吉田に加増転封となりました。

岐阜城の戦い
岐阜城には秀吉の甥・秀勝が入りますが、文禄元年に秀吉が開始した唐入りに従軍した秀勝は、巨済島で病死してしまいました。
その後、岐阜城は、元服して「秀信」と名乗っていた三法師が継ぐことになりました。
秀吉の死後、家康は自分に従わない上杉景勝を討つため諸将を率いて会津への進軍を開始しますが、その隙を突いて秀吉の側近であった石田三成が挙兵しました。
三成から美濃・尾張二ヶ国を提示された秀信は三成方に加勢することを表明し、美濃諸将もそれに従いました。
照政、浅野幸長、山内一豊率いる18000の軍勢が木曽川対岸まで迫ってくると、秀信は渡河を阻止するために城を出て9000の兵で迎撃しますが、兵力差を覆すことはできず、迎撃軍は壊滅しました。
寡兵で城に戻った秀信は犬山城と大垣城に援軍要請を送りますが、敵将の照政が岐阜城の造りを熟知していたこともあって、援軍を待つ間もなく敵軍が一斉に攻め上ってきました。
追い詰められた秀信は自刃しようとしますが、照政の説得を受けて開城に応じ、剃髪した後に尾張知多に送られました。

天下分け目の関ヶ原
岐阜城落城の報せを聞いた家康は、江戸を出陣し、岐阜を経て赤坂に入りました。
石田方が大垣城を出て家康の進路を阻んだことで、両軍は関ヶ原で全面衝突となりました。
この戦で勝利を収めた家康は、戦後、新たな天下人となりました。
「岐阜」という名前は、信長が天下取りの願いを込めて命名したと言われていたことから、家康に代わる新たな天下人の出現を彷彿とさせるため、「加納」と改名されました。
岐阜城は廃城となり、天守、櫓、石垣等は加納城に移築されました。

吾死スルトモ自由ハ死セン
徳川の世が終わり、明治政府が廃藩置県を実施すると、「岐阜」という地名が復活しました。
明治15年、「金華山」と呼ばれるようになった稲葉山の麓に岐阜公園が開園し、ここで演説を行った自由党党首・板垣(退助)正形が暴漢に刺されるという事件が起きました。
明治43年には、かつて天守のあったところに、観光用の模擬天守が彦根城を参考にして建てられました。
この天守は昭和18年に失火によって焼失しますが、同31年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守が再建されました。
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昭和50年には、かつて武器庫や食料庫のあったところに隅櫓が建てられ、「岐阜城資料館」となりました。
昭和59年からは、麓の信長居館跡の発掘調査が進められています。

100名城制覇まで残り81城

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76番 徳島城(徳島県) [日本100名城めぐり]

室町時代、細川頼之が阿波国の小山に小さな城を築きました。
戦国時代には群雄が割拠し城の取り合いになりましたが、やがて長宗我部元親が四国を統一すると、この城も長宗我部氏の支配下に入ります。
しかし、豊臣秀吉の四国平定により長宗我部氏が秀吉の軍門に下ると、この平定で功のあった蜂須賀家政が入封し、大規模な改築を行うとともに、この地を「徳島」と名づけました。

江戸時代になっても蜂須賀氏の支配は継続され、初期には美しい庭園も築かれました。
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また、徳島城ではめずらしく本丸ではなく二の丸に天守が建てられていました。
ただし現在は石垣しか残っていません。
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明治時代に入るとほとんどの建造物は破却されました。
太平洋戦争では徳島大空襲で唯一現存していた建造物である「鷲の門」も焼失してしまいました。
しかし惜しむ声も多く、鷲の門は平成元年に再建されました。
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平成4年には庭園に隣接する形で徳島城博物館が建てられました。
この博物館の受付カウンターに100名城のスタンプがあります。

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62番 和歌山城(和歌山県) [日本100名城めぐり]

桃山時代、紀州を平定した豊臣秀吉が弟・秀長に命じて若山に城を立てさせました。
その際、秀吉の命で若山は和歌山と改名され、和歌山城も完成しましたが、城には秀長の家臣・桑山重晴が城代として入城しました。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こると、そこで軍功のあった浅野幸長が新たな城主となり、このときに天守も建造されました。
やがて浅野氏が安芸国(今の広島県)に移封になると、今度は徳川家康の子・頼宣が入城し、以後は紀州徳川家の支配下に置かれることになりました。
頼宣の時代に、美しい庭園も築かれました。
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江戸時代の中期には、城下で紀州徳川家5代目当主となる吉宗が生まれました。
やがて徳川将軍家の血筋が絶えてしまうと、吉宗は8代将軍として江戸に上りました。
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幕末には雷で一度天守が焼失し、その後再建されました。
明治時代に入ると城内の建造物の多くは破却されましたが、天守は残りました。
しかし、太平洋戦争の和歌山大空襲によってそれも消失してしまい、現在は昭和33年に再建された天守がそびえ立っています。
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この天守入り口のチケット売り場に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り83城

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46番 長篠城(愛知県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、今川氏の家臣・菅沼元成が、奥三河の地に長篠城を築城しました。
やがて桶狭間の戦いを契機に今川氏が滅亡し徳川氏が台頭してくるようになると、この地は徳川氏と武田氏が奪い合う要衝の地になりました。
今川氏滅亡後、菅沼氏は徳川氏に臣従するのですが後に武田氏に寝返りました。
そして、武田信玄が死ぬと徳川家康が長篠城に攻め込み、城の奪還に成功します。
代わって長篠城に入ったのが、武田氏から徳川氏に寝返った奥平貞昌です。

ここで、武田氏の勢力を盛り返すべく、信玄の息子・勝頼が長篠城に攻め込みます。
長篠城は武田軍に包囲され落城寸前となりますが、このとき足軽・鳥居強右衛門(すねえもん)が密かに城を脱出し、援軍を要請するため織田・徳川連合軍が待機する岡崎城に向かいました。
すると岡崎城ではすでに援軍の準備が整っていたので、強右衛門はそのまま長篠城に戻りますが、途中で武田軍に捕らえられてしまいます。
このとき強右衛門は、「徳川の援軍は来ないから早々に降伏して城を明け渡せ」と叫べば武田の家臣として取り立ててやると取引を持ちかけられ、その取引に乗りました。
しかし、実際に城前に連れてこられると「後三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえろ!」と反対のことを叫んだため、その場で武田軍によって磔にされてしまいました。
長篠町内には強右衛門の墓もあり、その忠義ぶりは今でも称えられています。
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さて、織田・徳川連合軍は長篠城の近くの設楽原(したらがはら)に陣を構えます。
このとき、織田・徳川軍は当時としては異例ともいえる大量の火縄銃を装備しており、また、馬防柵を建設して武田軍の襲撃に備えました。
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勝頼は家臣の諫言を聞き入れず、設楽原に強行襲撃をかけますが、馬防柵と火縄銃の前に次々と将兵が討ち死にし、大敗を喫します。
これによって武田氏は戦国大名としての勢力を失ってしまい、織田・徳川氏の勢力が拡大しました。
また、この合戦で大きく損壊した長篠城は、まもなく廃城ということになってしまいました。

現在は当時の建造物などは残っておりませんが、昭和時代には城内一体が史跡に指定されました。
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また、長篠城祉史跡保存館には当時にまつわる色々なものが展示されています。
この保存館に100名城のスタンプがあります。

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21番 江戸城(東京都) [日本100名城めぐり]

武蔵平一揆
平安時代末期、平氏の末裔・秩父重継は、江戸郷を相続すると「江戸四郎」を称して江戸氏を興しました。
重継は桜田の高台に居館を構えますが、この館はその後すぐに消滅してしまいました。
時は下り、足利氏2代将軍・義詮が死去した後、江戸氏ら平氏の流れを汲む関東の国人衆は、関東管領・上杉憲顕に反旗を翻し、戦いに敗れて没落してしまいました。
以後、鎌倉公方の補佐である関東管領職は上杉氏が独占するようになり、憲顕の家は、鎌倉の山内に居館を置いたことから「山内上杉家」と呼ばれるようになりました。
上杉氏には他にも多くの支族がおり、鎌倉の扇谷に居館を置いた家は「扇谷上杉家」と呼ばれるようになりました。

五十子の戦い
鎌倉公方と関東管領が対立するようになると関東の国人衆も両派に分かれ、やがて4代鎌倉公方・持氏の敗死によって鎌倉公方は途絶えました。
その後、持氏の子・成氏により鎌倉公方が再興されると、山内上杉家の家宰・長尾景仲と、その婿である扇谷上杉家の家宰・太田資清は鎌倉に攻め込みました。
この軍事行動は関東管領・憲忠に無断で起こしたものであったため、管領・畠山持国の仲裁により両者お咎めなしで収拾しました。
しかし、管領が細川勝元に交代すると再び対立が激化し、享徳3年、憲忠が成氏に謀殺されるという事件が起こりました。
足利将軍家の命を受けた駿河(今の静岡県)守護・今川範忠が鎌倉に攻め込むと、成氏は下総国(今の茨城県)古河に逃れ、「古河公方」と呼ばれるようにました。
関東管領方と古河公方方の両派が利根川を挟んで睨み合いを始めると、その最前線である五十子に、関東管領職を継いだ憲忠の弟・房顕が着陣しました。
扇谷上杉家の当主・持朝は、資清の跡を継いで家宰となっていた資長に、利根川下流域を守るための築城を命じました。
資長はかつて江戸氏の居館があったところに簡素な城を築いて城主となり、この城は「江戸城」と呼ばれるようになりました。
房顕が死去すると、越後上杉家の顕定が山内上杉家の家督を継ぎ、持朝も死去して、孫の政真が扇谷上杉家の家督を継ぎました。
ところが、すぐに政真は五十子で討死してしまい、資長ら老臣一同は協議の結果、持朝の3男・定正を新当主に迎え入れることにしました。
家督を継いだ定正は、五十子に着陣しました。

当方滅亡
出家して「道灌」と号するようになった資長は、景仲の孫で自分とは従兄弟にあたる景春から、謀反の誘いを受けました。
道灌はこの誘いを断って五十子に赴き、対処について顕定に進言を行いますが、その進言は受け入れられませんでした。
今川家で家督争いが勃発すると、道灌は介入のために駿河に出張しました。
道灌は足利将軍家から仲裁のために派遣された伊勢盛時と会談を行い、家督争いは収拾しました。
しかし、その隙に景春が挙兵し、五十子が急襲されて陥落しました。
景春の反乱に古河公方方を含む多くの国人・地侍が同心し、その一角の豊島氏によって、江戸城は、河越城・岩槻城との連絡線を断たれてしまいました。
道灌は速やかに兵を動かし、諸城を一つづつ落としながら五十子を奪還して、ついには景春の立て篭もる鉢形城を攻略しました。
その後、両上杉家と成氏の間で和睦が成立し、30年にも及んだ争乱は収束しました。
道灌の威望は絶大なものとなりますが、次第に定正からは冷遇されるようになりました。
ある時、定正の居城・糟屋館に招かれた道灌は、定正との面会を終えた後、風呂を勧められました。
道灌が入浴を済ませて風呂場から出ようとすると、入口の陰から突然何者かが襲いかかってきました。
刺客は、定正の家臣・曽我兵庫でした。
道灌は深手を負い、「当方滅亡」と叫んで絶命しました。
この道灌の最期の言葉は、「自分がいなくなれば扇谷上杉家は滅亡する」という予言でした。

江戸城の乱
道灌の子・資康は江戸城に戻って太田家の家督を継ぎますが、間もなく定正の軍勢に攻め込まれて、甲斐国(今の山梨県)に逃れました。
江戸城は扇谷上杉家の本城となりましたが、内外で信望が高かった道灌が誅殺されたことで、扇谷上杉家の家臣は次々に離反して山内上杉家に流れていきました。
やがて、顕定が定正家臣の領土に侵攻してきたことで、再び戦乱が始まりました。
有力家臣に去られて劣勢となっていた定正は、今川家の重臣となっており、出家して「早雲庵宗瑞」と名乗っていた盛時と手を組みました。
足利氏11代将軍・義澄から堀越公方・足利茶々丸の討伐を命じられていた宗瑞は、定正の手引きで討ち入り、伊豆国(今の静岡県東部)を奪取しました。
次いで定正は、顕定との決戦のために宗瑞とともに出陣しますが、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去してしまいました。
定正の跡を継いだ甥の朝良は河越城に移り、資康の帰参を許しました。
朝良は顕定打倒のための支援を今川家当主・氏親に依頼しますが、援軍として差し向けられた宗瑞は、道中で小田原城を奪い取ってしまいました。
朝良はこれを追認することにし、宗瑞とともに顕定を打ち破りました。
しかし、すぐに顕定による反撃が始まり、その上、宗瑞が離反して扇谷上杉家の諸城を次々に奪われていきました。
山内上杉軍に河越城を囲まれ、朝良は降伏して江戸城に移りますが、宗瑞という新たな脅威に対応するため、両上杉家は手を組むことにしました。

戦国大名
宗瑞が江戸城の近くまで迫ってくると、朝良は撃退して反撃に転じました。
その後、扇谷上杉家に従属する相模国(今の神奈川県)三浦郡の三浦道寸が小田原城に迫ると、朝良の下に宗瑞から和睦の提案が来ました。
朝良が受諾すると、宗瑞の攻撃の矛先は三浦に向かっていきました。
朝良の甥・朝興は、道寸の娘婿でもある資康とともに三浦の救援に向かいますが、その戦いで資康は戦死し、三浦氏も滅亡しました。
太田家の家督は、資康の子・資高が継ぎました。
やがて朝良も死去し、扇谷上杉家の家督は朝興が継ぎました。
宗瑞の跡を継いだ氏綱は、「北条」姓を名乗り始めました。
氏綱が武蔵に侵攻してくると、朝興はこれを迎え撃つも敗北を喫してしまいました。
資高が北条方に寝返って攻め込んでくると、敗れた朝興は山内上杉家の河越城に逃げ込み、江戸城には北条家臣・富永政辰が入りました。
その後、氏綱の跡を継いだ氏康は、河越城に奇襲をかけました。
この戦で山内上杉家は関東を追われ、扇谷上杉家は道灌の予言通り滅亡しました。
氏康はその後も勢力を拡大し続け、ついには関八州の支配者となりました。

江戸の内府
氏康の2代後・氏直の代、北条以外のほとんどの大名を傘下に収めた豊臣秀吉が空前の大軍を率いて攻め寄せてきて、小田原城はたちまちのうちに包囲されてしまいました。
その包囲勢の中から徳川家康配下の将兵を中心に編成された軍勢が武蔵に進軍してきて、江戸城は開城しました。
氏直が降伏して戦が終結すると、北条旧領は家康に恩賞として与えられることとなりました。
その代わり東海地方の徳川旧領は召上げとなっており、実際のところは家康を警戒する秀吉による左遷でした。
荒廃しきっていた江戸城に入った家康はここを本拠と定め、大掛かりな改築と城下町の整備に取り掛かりました。

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川
秀吉の死後、前田利家の死去、石田三成の失脚を経て、家康が政治の主導権を握りました。
反抗的な態度を見せる上杉景勝を討つために家康は会津に向けて出陣しますが、背後で三成らが反家康の兵を挙げると、江戸城に取って返しました。
家康に同心する諸将は清洲を目指して西進を開始しますが、家康は背後の佐竹義宣の動向がはっきりしなかったために江戸を動くことができませんでした。
その代わり家康は、藤堂高虎や黒田長政らを使って、全国の諸将にひたすら手紙を送り続けました。
に留まることを余儀なくされました。
その間に西進していった諸将は清洲に到着しますが、そこから動く気配が見られなかったため、家康は美濃攻略の督促の使者を送りました。
その督促に応えて清洲の諸将が岐阜城を落とすと、家康は5男・松平信吉や浅野長政らに留守居役を任せ、満を持して江戸を発ちました。
家康は関ヶ原で石田方を撃破し、戦後、征夷大将軍に任じられました。
天下人の城となった江戸城は「江城」と呼ばれるようになり、天下普請で更なる増築が進められ、慶長12年には天守が完成しました。
2代将軍・秀忠の治世には、豊臣家を滅亡させた後に天下普請が行われ、元和8年に天守が建て替えられました。
3代将軍・家光の治世にも天下普請で改築・増築が行われ、慶長15年に天守が再度建て替えられたことにより、江城は完成を見ました。
その後、家光は海禁政策を開始し、日本の交易相手をオランダ、清、朝鮮、琉球、蝦夷のみに制限しました。

振袖火事
4代将軍・家綱の治世の明暦3年に、江戸の町で大火が発生しました。
その飛び火で天守が焼け落ちてしまうと、前田綱紀によって新しい天守台が速やかに再築されました。
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しかし、大政参与として家綱の輔佐役を務めていた、家光の異母弟・保科正之が「天守に実用的な価値はないので無駄な出費は避けるべきである」と主張し、最終的に天守の再建は見送られてその分の金は市街地の復興に充てられることになりました。
6代将軍・家宣の代に将軍侍講・新井君美(白石)らによって天守再建が計画され、図面や模型も作成されましたが、白石の失脚によって計画は中止となり、富士見櫓が代用天守として活用されることになりました。
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泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず
12代将軍・家慶の治世、長崎奉行の下にオランダ商館から「アメリカが日本との交易を求めて艦隊を派遣しようとしている」という情報がもたらされました。
1年後、浦賀沖に巨大な黒船4隻が現れました。
黒船はいずれも多数の巨砲を備えており、うち2隻は黒煙を吐く蒸気船でした。
幕府に開国を求めた提督・マシュー・ペリーは1年後にまた来航すると予告して帰港の途に就きますが、その後すぐに家慶は死去してしまいました。
将軍職を継いだ家定は病弱で子を成せる見込みがなく、生前の家慶も一橋徳川家当主の慶喜を継嗣にしようと考えていたほどだったので、幕政は大混乱に陥りました。
日本の混乱を聞き及んだペリーが予定を早めて再来航すると、幕府は日米和親条約を締結して開国を行いますが、間もなく、家定の継嗣を慶喜にする(一橋派)か、紀州徳川家当主・慶福にする(南紀派)かを巡った対立が起きました。
数年後、アメリカ総領事・タウンゼント・ハリスが江城に登城し、修好通商条約の締結を強く求めてきました。
安政5年、老中首座・堀田正睦は、条約締結に当たって勅許を得ようと入京しますが、異国嫌いの天皇(孝明天皇)を納得させることはできず、勅許は下りませんでした。
この内憂外患の危機を打開すべく南紀派は彦根藩主・井伊直弼を大老に擁立し、日米修好通商条約の締結を断行しました。

桜田門外の変
条約締結が無勅許で行われたことに憤った前水戸藩主で慶喜の父でもある斉昭が、水戸藩主・慶篤と慶喜、尾張藩主・徳川慶恕、福井藩主・松平春嶽を引き連れて登城してくると、直弼は「不時登城」の廉で、隠居や謹慎の処分を下しました。
そして、これをきっかけに、直弼は尊王攘夷派と一橋派の粛清を開始しました。
家定が死去して慶福改め家茂が将軍職を継ぐと、直弼はさらに権力を自分に集中させるとともに、反対派の弾圧・粛清を強めていきました。
安政7年3月3日、その日は江城で恒例の雛祭りの祝賀行事が執り行われる日でした。
季節外れの雪が降る中、直弼は駕籠に乗って登城しますが、行列が外桜田門の前に差し掛かった時、直訴状を掲げた一人の侍が行列の先頭に現れました。
井伊家の供侍が取り押さえようとすると、その侍は突然斬りかかってきました。
直後、大きな銃声が鳴り響いて弾丸が直弼の駕籠に命中すると、群衆に紛れて潜んでいた20人近くの侍が一斉に襲撃してきました。
雪が降っていたため刀に柄袋をかぶせていた供侍たちは、即座に応戦することができませんでした。
多くの供侍が逃走していく中、一部の剣豪が果敢に抵抗を行いますが、次々に殺傷されていきました。
やがて襲撃者たちによって、直弼の駕籠には次々に刀が突き立てられました。
虫の息の直弼は駕籠から引き摺り出され、その場で首を斬り落とされました。
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宮さん宮さん
この事件によって急速に威信が低下した幕府は、かねてより構想していた公武合体策を実行に移すことにしました。
天皇の妹・和宮親子内親王には有栖川宮熾仁親王という許婚がいましたが、この婚約は破棄して家茂の下に降嫁されることになりました。
一方で、幕府は恭順しない長州藩への征討を実施しますが、密かに同盟を結んでいた薩摩藩からの支援と大村(益次郎)永敏による軍制改革で生まれ変わった長州軍の前に、幕府軍は各地で敗退を繰り返しました。
その渦中に家茂が病死し、慶喜が将軍に就任しました。
天皇も崩御して、その子・睦人親王が即位(明治天皇)しました。
慶喜は、徳川家の力を温存したまま平和裏に幕府を終わらせるために大政奉還を行いますが、あくまでも武力倒幕を果たそうとする薩摩・長州の工作により、王政復古の大号令が発せられました。
江戸市中では薩摩浪士による挑発行為が連日行われ、江城西の丸にも火がかけられました。
浪士を匿う薩摩藩邸に佐幕諸藩が焼討ちをかけたことで緊張が頂点に達し、ついには京都での軍事衝突に発展しました。
この戦いは旧幕府軍の惨敗に終わり、敗報を聞いた慶喜は大坂城から江城に撤退しました。
その後、熾仁親王を東征大総督とした新政府軍が京都を発したという報が入ると、慶喜は恭順の姿勢を表すため、江城を田安徳川家の慶頼に任せて上野の寛永寺で謹慎を始めました。

江戸無血開城
慶喜が謹慎せざるをえなくなったことに不満を持った一橋徳川家ゆかりの者たちは、賛同する旧幕臣、諸藩士、志士を集め、「大義を彰(あきら)かにする」という意味を込めて「彰義隊」を結成しました。
頭取には、一橋徳川家時代から慶喜に仕えてきた旧幕臣・渋沢成一郎が、副頭取には同じく旧幕臣の天野(八郎)忠告が選出されました。
新政府を刺激したくなかった旧幕府は、懐柔を兼ねて彰義隊を江戸市中取締に任じました。
噂を聞き付けた旧新選組などの旧幕府ゆかりの者や、町人、博徒、侠客までが集結し、彰義隊は1000人を超える規模になりました。
一方、新政府への対応を任された軍艦奉行・勝海舟は、遊撃隊頭取・高橋泥舟を東征軍下参謀・西郷武雄(後の隆盛)への使者に差し向けようとしますが、高橋は慶喜の傍を離れるわけにはいかないと辞退し、代わりに弟子の山岡鉄舟を推薦しました。
山岡は駿府城に赴いて西郷相手に必死で交渉を行い、その心意気に折れた西郷は勝と会談を行うことに決めました。
この会談の結果、江城は無血開城されることで合意が成立し、慶喜は水戸に退去することとなりました。

火吹き達磨
江城は新政府の大総督府となりますが、彰義隊は慶喜には付き従わず、寛永寺を拠点に定めて江戸に残りました。
西郷から江戸市中の治安維持を委任された勝は彰義隊に解散を促しますが、各地から脱藩した浪士が集結したことで、逆に3000人を超えるまでの大軍に膨れ上がってしまいました。
その後、隊内で内部分裂が起こって渋沢が離脱すると、「頭並」として実権を握った天野の下で彰義隊は先鋭化していきました。
彰義隊による新政府軍への集団暴行殺害事件が連日発生し、それが関東各地に飛び火して幕府再興を名目にした放火・強盗事件が続発するようになると、業を煮やした勝は山岡に説得を依頼しますが、彰義隊との会談は不発に終わりました。
この報告を受けた新政府は、関東の速やかな治安回復のために、大村を送り込むことにしました。
江城に入った大村はまず、城内の宝物を売り払って兵器を調達しました。
勝から治安維持の権限を委譲された大村は、江戸府知事も兼任して江戸の軍権を掌握しました。
その上で大村は、「根岸方面を敵軍の逃げ道として開けておいた上で残りの三方から上野を包囲して殲滅する」という三面包囲作戦を立案しました。
この作戦を聞いた西郷から「彰義隊を皆殺しになさる気ですか?」と問われると、大村は一言「そうです」と返答しました。
5月15日午前7時頃、新政府軍からの宣戦布告によって戦闘が始まりました。
午後5時頃、江城内にいた大村は、時計を見ながら「そろそろ新政府軍が勝利した頃合いだ」と呟きました。
実際その時間に彰義隊の壊滅で戦闘が終結しており、残党が根岸方面への敗走を始めていました。

東京奠都
彰義隊の残党の多くは旧幕臣・榎本武明に合流して軍艦で北上し、一部は陸路で会津・磐城方面に逃れていきました。
新政府によって都が京都から江戸に遷されることになると、大久保利通の建白によって江戸は「東京」と改称されました。
天皇が東京に到着すると、その日のうちに江戸城も「東京城」と改称されました。
新政府軍が会津を制圧すると、天皇はいったん京都に還幸しました。
榎本らの立て篭もる箱館を攻略して戦争が終結すると、天皇は東京に再幸しました。
かつて薩摩人の手によって焼かれた西の丸が天皇の居住地となり、「皇城」と改称されました。
明治21年に明治宮殿が完成すると、「宮城」と改称されました。
大正12年9月1日正午に関東地域で発生した大震災では多くの建造物が被災しましたが、富士見櫓などはその後、解体・復元が行われました。

東京大空襲
昭和6年、関東軍が満洲全土を電撃占領し、満洲国を建国させました。
この事変に係る国際連盟の勧告を不服とした日本は、国際連盟を脱退しました。
列強が爆撃機を保有するようになると、宮内省第2期庁舎の地下に鋼鉄扉の防空室「地下金庫室」が建設されました。
その後、スペイン内戦に介入したドイツがゲルニカを爆撃し、中国と開戦した日本も渡洋爆撃や重慶爆撃を実施するなど、戦略爆撃の時代が到来しました。
地下金庫室は手狭で大型爆弾にも耐えられない造りだったので、鉄筋コンクリート造りによる新たな防空壕の建設が開始されました。
建設が進められる中、アメリカから最後通牒を突き付けられた日本は、昭和16年12月8日、真珠湾に奇襲を仕掛け、アメリカに宣戦を行いました。
明くる年、南方戦線で日本軍が破竹の快進撃を続ける中、4月18日午後12時28分、東京に空襲警報が発令されました。
宝剣・神璽が地下金庫室に移御され、天皇・皇后も後から避難しました。
15時51分に警報は解除されますが、その間に東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸が相次いで爆撃を受けていました。
本土上空にアメリカ軍機が侵入したことに衝撃を受けた日本軍は、かねてより計画していたミッドウェー作戦を実行に移しました。
しかし、この作戦は大敗に終わり、そこから日本軍の旗色は徐々に悪くなっていきました。
大晦日に「御文庫」と名付けられた新防空壕が完成しますが、戦線は後退の一方で、やがて全国の大都市、地方都市が連日のように空襲を受けるようになりました。
昭和20年3月10日の空襲では、新型焼夷弾によって東京は火の海と化し、12万を超える死傷者を出しました。
その後も大規模空襲は繰り返され、5月25日の空襲では明治宮殿が焼失し、天皇の住居は御文庫に移されました。

宮城事件
6月23日に沖縄が陥落し、7月26日にはアメリカ、イギリス、中国から、無条件降伏を迫るポツダム宣言を突き付けられました。
大本営はこれを黙殺して本土決戦の準備を進行させますが、8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。
9日にはもう一発の原子爆弾が長崎に投下され、満洲にもソ連が中立条約を破棄して侵攻してきました。
翌日午前0時、首相・鈴木貫太郎の招集によって御文庫地下の附属室で御前会議が開催され、ポツダム宣言の受諾が決定されました。
大本営は、陸軍の反発を押し切って連合国にポツダム宣言の受諾と国体護持の要請を伝えますが、12日午前0時過ぎ、連合国から「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従うものとする」という回答文が放送されました。
国体護持が認められなかったことで陸軍の反発は激化し、9時頃、陸軍に呼応した近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城に入城しました。
14日、鈴木は陸軍の妨害を排するために御前会議を再招集し、天皇の聖断を仰ぎました。
天皇は鈴木の要請に応じ、必要があれば自ら国民に語りかけてもよいと述べました。
これを受けて「大東亜戦争終結ノ詔書」が作成され、すべての国民にあまねく伝わるよう、天皇自身による朗読がラジオで放送されることとなりました。
午後11時25分に天皇が宮内省政務室に入り、翌日午前1時頃までかかって録音が行われました。
6時過ぎ、天皇のもとに、宮城内で降伏阻止を目的とするクーデターが発生したことが伝えられました。
数時間後にクーデター鎮圧の報が伝えられると、玉音の収められたレコード盤が日本放送協会東京放送会館に持ち出されました。
そして正午、ラジオの電波に乗った玉音が内地・外地を含めたすべての地域に放送され、戦争の終結が告げられました。

皇居
昭和23年に宮城は「皇居」と改称され、翌24年には西の丸下区域が「皇居外苑」として一般開放されるようになりました。
昭和43年には本丸・二の丸・三の丸区域が「皇居東御苑」として、翌44年には北の丸区域が「北の丸公園」として一般開放されるようになりました。

100名城制覇まで残り86城

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55番 千早城(大阪府) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代末期、後醍醐天皇が倒幕のために挙兵すると、河内国の土豪・楠木正成もそれに呼応して鎌倉幕府軍との戦いを始めました。
正成は本城である上赤坂城を幕府軍に奪われてしまったので、金剛山に新たな拠点を築きました。
それが千早城です。

幕府軍は千早城にも攻め込みますが、楠木軍の巧みな山岳ゲリラ戦術に翻弄され、撤退を余儀なくされました。
楠木軍には1000人足らずの兵しかいなかったのですが、藁人形に甲冑を着せて大軍を擁しているように見せていたと、「太平記」にも記述があります。
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この楠木軍の奮戦に呼応して足利尊氏や新田義貞らも挙兵し、鎌倉幕府は滅亡します。
しかし、後に尊氏が離反し、後醍醐天皇の南朝に対して北朝を擁立すると、正成は尊氏との戦いを開始します。

湊川の戦いで敗れた正成が自害し、尊氏によって室町幕府が成立した後も、子の正行、孫の正勝と代々楠木家が千早城に篭り続けますが、正勝の時代に室町幕府の守護・畠山基国に攻められ千早城は落城し、そのまま廃城になってしまいました。
その後千早城址には千早神社が建てられました。
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この千早神社で祭られているのは武運の神・八幡大菩薩でしたが、明治時代になって武士の世が終わり天皇が復権すると、後醍醐天皇に最期まで忠義を尽くした人物ということで、正成、正行親子も合祀されるようになりました。

現在城址には往年の建造物などは一切残っておらず、神社と石碑ぐらいしかありませんが、多くの登山客が訪れています。
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山麓にあるレストラン「まつまさ」に100名城のスタンプはあります。

100名城制覇まで残り87城
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