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6番 盛岡城(岩手県) [日本100名城めぐり]

桃山時代、陸奥国北部を領有していた南部氏の信直は、嫡男の利直に命じて、不来方城を築城しました。
信直の死後勃発した関ヶ原の戦いでは利直は東軍に付いたため、徳川家康から本領を安堵され、さらなる城の改築を行いました。
江戸時代の初期には総石垣の城が完成し、利直は「不来方」を「盛岡」と改名して、城の名前も盛岡城になりました。
三の丸を整地した時に見つかった巨大な岩が、烏帽子岩として城内の櫻山神社に祭られています。
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幕府への遠慮から天守は築かれず、御三階櫓を代用天守としていましたが、天保年間に12代藩主・利済により天守と改称されました。
現在は天守台のみが残っています。
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明治時代になると、城内のほとんどの建造物は解体されました。
この建物のなくなったお城に、盛岡在住の石川一少年はよく学校をさぼって昼寝をしに来ていました。
この少年は後に「啄木」というペンネームを名乗って、「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という短歌を発表しました。
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明治39年にはこの土地は岩手県に貸与され「岩手公園」となり、現在も多くの人が訪れる公園となりました。
公園内のもりおか歴史文化館および隣接するプラザおでっての観光案内所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り27城


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31番 新発田城(新潟県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代初期、越後国の北部に新発田氏が居城を築き、周辺を支配していました。
戦国時代になると、長敦の代に、越後国で上杉謙信が台頭するようになり、長敦は謙信に臣従して側近となりました。
謙信亡き後に、二人の養子・景虎と景勝の間で勃発した御館の乱では長敦は弟・重家とともに景勝方に付きました。
この乱で軍功を挙げ、最終的に景勝方の勝利に導いたのですが、戦後の恩賞は直江兼続を初めとする上田衆が独占し、新発田氏にはほとんど恩賞が与えられませんでした。
これを不満に思った重家は反乱を起こしました。
御館の乱で国力を削がれた景勝はなかなか反乱を鎮圧することができませんでしたが、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉に臣従すると、秀吉の命もあって長年かかった反乱をようやく鎮圧し、新発田氏は滅亡しました。
秀吉の天下統一が成ると、景勝は会津に国替えとなり、代わりに越後国には堀秀治が入りました。
そして、秀治の家臣・溝口秀勝はかつて新発田氏の居城があったところに新発田城の築城を始めました。
秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦いでは秀勝は東軍に付いたため、戦後、幕府からは本領を安堵され、新発田藩が成立しました。

3代・宣直の時代にようやく新発田城は完成し、城下には清水谷御殿も建造されました。
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しかし、程なくして大火が起こり、城内の多くの建造物が焼けてしまいました。
また、しばらくすると、辰巳櫓が失火で燃えてしまい、この責任を取って中山弥次右衛門という藩士が浪人になってしまいました。
弥次右衛門の死後、一人残された息子の安兵衛は江戸に上り、剣術を修めました。
安兵衛の剣術の腕は一流で、知り合いに頼まれて助太刀した高田馬場の決闘で活躍すると、一躍江戸中で評判になりました。
この評判を聞きつけた赤穂藩浅野氏の家臣・堀部金丸に養子縁組を請われます。
当初は断っていた安兵衛でしたが、金丸の主君・長矩(内匠頭)の後押しもあり、受諾します。
浪人の身から晴れて赤穂藩士になった安兵衛は、金丸が死去すると堀部姓を名乗るようになります。
ところが、突然長矩が江戸城松の廊下で吉良義央(上野介)に斬りかかるという事件が起こり、これによって長矩は切腹、赤穂藩は取り潰しとなります。
再び浪人になった安兵衛は、義央に対する仇討を強硬に主張し、最終的に赤穂四十七士の一人として吉良邸に討ち入り、他の浪士たちとともに切腹して果てます。

4代・重雄の代に、城門や櫓など、火災で燃えた多くの建物が再建されました。
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幕末を経て明治時代に入ると戊辰戦争が勃発し、江戸城を無血開城させて北上を始めた新政府軍に対して、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗を始めます。
新発田藩も当初は同盟側で参戦する予定でしたが、藩主・直正を思う領民たちがそれを阻止し、新政府軍が上陸すると新発田藩は新政府側に付きました。

戦後、新発田城は本丸の一部を残して廃城となり、大部分の敷地に陸軍鎮台が置かれました。
明治7年にはフランス風建築様式の白壁兵舎が建造されました。
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太平洋戦争が終わった後も、陸軍が駐屯していたところには陸上自衛隊が駐屯し続けることになりました。
平成16年には、天守の代用であった三階櫓と、かつて安兵衛の父が追われる原因となった辰巳櫓が復元されました。
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現存する城門の下に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り28城


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34番 七尾城(石川県) [日本100名城めぐり]

室町時代、能登国守護の畠山満慶が砦を築きました。
この砦が築かれた場所は七つの尾根にまたがっていたので、「七尾」と呼ばれるようになりました。
やがて、京の都で応仁の乱が勃発したり、隣国加賀で一向一揆が発生したりで時代が戦国に移っていくと、畠山氏は石垣を築くなど、少しずつ堅固な城郭に作り替えていきました。
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能登畠山氏5代当主・慶致の代には、この七尾城が能登国の支配拠点となりました。

やがて、畠山氏の中では、一族、家臣の内紛や暗殺が横行するようになり、有力家臣により幼児であった春王丸が新当主として擁立されました。
これに対して、越後国(今の新潟県)の上杉謙信が、かつて畠山氏から人質として預かっていた上条政繁を新当主として擁立し、能登国の秩序を回復するという大義名分の下、七尾に侵攻しました。
百戦錬磨の謙信ではありましたが、長続連が指揮する七尾城の籠城軍は難攻不落でした。
そこで、謙信は七尾城の支城を落としたのですが、ちょうどその頃、相模国(今の神奈川県)の北条氏政が北関東方面に出兵したため、謙信は急いで本国に撤収しました。
謙信が撤収すると、畠山軍は反撃に転じ、奪われた支城を取り返しましたが、後北条軍の出兵が大したものではないと知った謙信は再び七尾に侵攻しました。
これを受けて続連は、支城に配置した兵をすべて七尾に引き上げ再び籠城の態勢に入り、謙信と対立していた織田信長に救援を要請します。
しかし、かねてより続連を快く思っていなかった、親謙信派の重臣・遊佐続光らが反乱を起こし、続連を討って上杉軍を城内に招き入れました。
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七尾城を手に入れた謙信は、本丸から見える眺めの良さに感嘆したと言われています。
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南からは、信長配下の柴田勝家軍が押し寄せてきましたが、謙信はその足で出陣し、手取川で勝家軍を撃退すると、能登国の支配権を手に入れることに成功しました。

ところが、その半年後に謙信が急死し、その後に起こった御館の乱という跡目争いで上杉家が急速に弱体化すると、結局能登国は信長の支配下に入ることになりました。
そして七尾城は、勝家とともに戦った前田利家に与えられました。
一国一城の主となった利家でしたが、山城である七尾城は領国支配には向いていなかったため、新たに小丸山城という城を築城して移動し、程なくして七尾城は廃城になりました。

時は下って昭和38年、七尾城主の子孫である畠山一清によって、城下に七尾城史資料館が建てられました。
この資料館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り29城

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5番 根城(青森県) [日本100名城めぐり]

鎌倉幕府が滅亡すると、南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向しました。この時、甲斐国(今の山梨県)の地頭であった南部師行も同行し、国代として任じられました。
やがて後醍醐天皇の建武の新政が始まると、師行は糠部郡八森に城を築き、南朝方の根本になるという願いから「根城」と名付けました。
顕家と師行は陸奥国に逃れてきた鎌倉幕府の残党を滅ぼすなどの軍功を挙げますが、やがて南朝方から造反して北朝を建てた足利尊氏と和泉国(今の大阪府)で戦い、敗死します。
師行の後を継いだ弟・政長は、尊氏が開いた室町幕府から再三の降伏勧告を受けながらも南朝への忠義を通すのですが、南朝の衰退とともに南部氏も衰退していきます。
3代将軍・義満により南北朝の合体が成立すると、南部氏8代・政光は甲斐国の領土を引き払って、根城を拠点に南部氏の再興を図ります。
その後は数々の小競り合いを経ながらも、根城は一度も落城することはなく、南部氏は勢力を拡大していきました。

時は下って、江戸時代になると、南部氏は遠野に領地替えになって、根城は廃城となりました。
根城の城門と伝えられる門が、何度かの移築を経て残っています。
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昭和時代になると発掘整備事業が進められるようになり、平成6年には本丸主殿などが復元され、「史跡根城の広場」としてオープンしました。
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広場の料金所及び、併設されている八戸市博物館やボランティアガイドハウスに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り30城

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4番 弘前城(青森県) [日本100名城めぐり]

江戸時代初期、関ヶ原の戦いで東軍に付いた津軽為信は鷹岡に城を築き始めました。
築城中に為信が死去してしまい、しばらく築城が中断されますが、その子・信枚が引き継ぎ、鷹岡城が完成しました。
この頃に築造された門や櫓は、多くが現存しています。
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しかししばらくして、天守に雷が落ち、焼失してしまいました。
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その翌年、信枚が帰依する天海大僧正が鷹岡を「弘前」と名付け、城名も「弘前城」となりました。

江戸時代後期に、 蝦夷地(今の北海道)警備の功績を認められた9代藩主・寧親が、天守を再建しました。
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明治時代に入ると、本丸御殿は取り壊されましたが、多くの史跡を残したまま弘前公園として一般開放されるようになりました。
現在は桜の名所にもなっており、多くの観光客が訪れています。

天守内に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り31城


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12番 会津若松城(福島県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、蘆名直盛が陸奥国会津郡に東黒川館という館を築きました。
やがてこの館は黒川城と呼ばれるようになりました。

時は下って桃山時代、天下統一に向けて突き進んでいた豊臣秀吉は、全国の大名に私闘を禁ずる命令を出しましたが、伊達政宗がこれを無視して蘆名氏を滅ぼし、黒川城を奪い取りました。
しかしその翌年、小田原征伐の折に政宗は秀吉に臣従することとなり、黒川城は召し上げられました。
その後秀吉の命で黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、城を近世城郭に改修し、城下町を整備したうえで、地名を黒川から若松と改めました。
城の名前も若松城となりましたが、若松城という城は他にもあるので会津若松城と呼ばれます。
また、会津若松城には7重の天守も築かれました。
今日の会津若松の基礎を作った氏郷でしたが、やがて病没しました。
氏郷の墓が城下にあります。
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その後氏郷の嫡男・秀行が跡を継ぎますが、御家騒動が起こったために減封の上、下野国(今の栃木県)に移封になりました。
代わってこの地にやってきたのは、越後国(今の新潟県)の上杉景勝でした。
政宗や、徳川家康など、秀吉にとって信頼できない勢力が東国にひしめいていたため、それらを抑える役目を期待されてのことでした。
そして秀吉が没すると、秀吉の不安通り、家康が天下への野心をあらわにし始めました。
やがて家康と景勝の対立が決定的なものとなり、家康が景勝討伐の兵を挙げると、景勝の腹心・直江兼続と親しい石田三成も挙兵して、関ヶ原の戦いが起こりました。
しかしこの戦いで家康が勝利を収めると、上杉氏は会津の領土を召し上げられ、再び秀行が入封しました。
この秀行の時代に、会津地震が起きて天守が倒壊してしまいました。

江戸時代の初期に、蒲生氏は伊予国(今の愛媛県)に転封となり、代わりに加藤嘉明が入りました。
その子・明成の代には城の改築を行い、倒壊した天守の再建も行いました。
しかし明成は御家騒動によって改易されました。
その後会津若松にやってきたのは、3代将軍・家光の腹違いの弟・保科正之でした。
正之は2代将軍・秀忠の隠し子として育てられていましたが、家光にとても気に入られ、会津藩主として取り立てられました。
そのことを恩に思った正之は、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」で始まる御家訓15条を残しました。
即ち、自分の子孫であれば何があっても徳川将軍家に対して忠勤を尽くさなければならない、ということです。
保科氏は、正之の息子・正容の代から松平姓を名乗るようになりました。
5代目・容頌の代には、藩校・日新館が設立されました。
今も日新館の天文台の跡が残っています。
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幕末、ペリー艦隊の来航により開国を行うと、攘夷派と開国派で激しい対立が起こるようになりました。
特に、京都では長州系を中心とした尊王攘夷派が暗躍しており、政情不安定な状態になっていました。
そこで幕府は、それらの動きを抑えるために、京都守護職という役職を設け、そこに会津藩主・容保を推挙しました。
当初は固辞した容保でしたが、正之の御家訓を持ち出されるといよいよ断りきれなくなり、京都守護職の座に就きました。
会津藩は大軍を率いて上洛し、浪士集団である新選組なども用いて京都の治安維持に努めました。
しかし、やがて味方であったはずの薩摩藩が長州藩と同盟を組むと形勢は逆転し、ついには大政奉還により江戸幕府は終焉を迎えました。
そして鳥羽・伏見の戦いが勃発して新政府軍に敗れると、会津藩は本国に撤退することになりました。
その後も新政府軍は東進を続け、江戸城を開城させると、仇敵の会津を討伐するために北上を始めました。
会津藩は降伏することも許されず、会津戦争が開戦しました。
板垣退助率いる新政府軍に白河口、二本松を破られ、いよいよ城下に攻め込まれると、会津若松城は女子供老人も総動員して籠城の態勢になりました。
城には連日大量の砲弾が撃ち込まれ、多数の死傷者を出しました。
やがて奥羽越列藩同盟の諸国が降伏すると、ここに来てようやく会津藩も降伏を許され、会津若松城は開城しました。

会津若松城の天守は、新政府軍の砲撃に耐え切り、ボロボロになりながらも傾くことはなかったのですが、明治時代に入って取り壊されてしまいました。
その後は陸軍が駐屯するようになりますが、戦後は競輪場が設置されました。
しばらくすると競輪場は場外に移転され、城を復元しようという動きが高まってきました。
昭和40年には天守が復元されました。
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この天守内の売店に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り32城


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32番 春日山城(新潟県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、越後国守護の上杉氏が春日山に城を作りました。
戦国時代になると、守護代・長尾為景が主君である守護・房能に対して下剋上を起こし、上杉定実を擁立した上で春日山城を奪い取りました。
このときに為景は春日山城に大改修を加えました。
やがて為景が隠居すると、春日山城は嫡男・晴景が引き継ぎ、その弟の虎千代は近隣の林泉寺に預けられました。
しかし晴景には越後を統率するだけの力量がなく、程なくして内乱状態になりました。
すると、元服して景虎と改名した虎千代は、次々と反乱勢力を鎮圧していきました。
やがて、晴景より景虎の方が実力があると考える勢力が増していき、その流れの中で晴景は景虎に家督を譲りました。
定実が死去すると景虎は幕府から越後国主としての地位を認められました。

景虎は自ら侵略戦争を引き起こすことはありませんでしたが、弱小大名の要請に応じて、しばしば武田晴信や北条氏康らと戦火を交えました。
関東管領・上杉憲政が河越夜戦で氏康に負け越後に逃れてくると、景虎はこれを庇護しました。
そして景虎は憲政の養子となり、関東管領職を受け継いで上杉政虎と名乗るようになりました。
その後政虎は輝虎と改名し、出家して謙信と名乗るようになりました。

やがて、晴信改め信玄や、氏康が死去すると、謙信の前には新興勢力の織田信長が立ちはだかるようになりました。
謙信は手取川の戦いで織田軍を撃破すると、春日山城に帰還し遠征の準備を始めましたが、突如として脳溢血で急死してしまいました。
謙信は少年期を過ごした林泉寺に葬られました。
林泉寺には謙信が春日山城から移築したと言われている惣門があります。
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謙信は生涯独身で実子もなく、後継ぎも定めていませんでした。
そして謙信には二人の養子がいました。
一人は後北条氏から人質としてやってきた氏康の息子の景虎、そしてもう一人は甥の景勝でした。
間もなく、この景虎と景勝の間で跡目争いが始まりました。
世に言う御館の乱です。
この戦いを制した景勝が、上杉家を相続することになりました。
しかしこの戦いで上杉氏の力は大きく弱体化し、織田軍との戦いも苦しくなってきました。
ところが今度は信長が本能寺で横死し、織田軍との戦いはひとまず終わりました。

信長の跡を継いだ豊臣秀吉とは良好な関係を築くことができ、豊臣政権の中でも景勝は重要な位置を占めるようになりました。
しかし、東北諸将や関東に移封されていた徳川家康への睨みを利かせるためということで、景勝は会津に移封されました。
景勝が去った春日山城には「天守閣阯」とされているところもありますが、実際に天守があったかどうかは定かではありません。
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その後、春日山城には堀秀治が配されますが、やがて堀氏は新築した福島城に移り、春日山城は廃城になります。

時は下り、昭和時代になると春日山城跡は国の史跡に指定され、発掘研究が進められるとともに観光客も訪れるようになりました。
平成8年には山麓で堀や土塁が復元され、春日山城史跡広場として公開されました。
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この広場に隣接する春日山城ものがたり館に100名城のスタンプがあります。
100名城制覇まで残り33城

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63番 鳥取城(鳥取県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、山名氏によって、久松山の山頂に鳥取城が築城されました。
山名誠通の家臣、武田国信は自ら申し出て鳥取城番となり、城を改築しました。
国信の子・高信は鳥取城を乗っ取ると、毛利氏と組み、山名氏を追い落として但馬国を実質的に支配することに成功します。
すると今度は、因幡守護・山名元豊が、毛利元就に滅亡させられた尼子氏の残党と組み、鳥取城を攻めます。
高信は降伏し城を明け渡しますが、間もなく元豊に謀殺されます。
城は元豊のものとなり、元豊は天守を建てるなど、城の改築に努めました。
しかし、今度は元就の次男・吉川元春に攻め落とされ、毛利豊元が城主になります。
その後また尼子残党に取り返されますが、この頃から毛利氏の力が但馬国におよぶようになり、尼子残党は鳥取から手を引き、元豊が元就の孫・輝元の軍門に下った上で城主として落ち着きました。

やがて、東の方から織田信長が勢力を伸ばしてくるようになりました。
鳥取城は信長の家臣・羽柴秀吉によって攻められ、籠城戦の末、元豊は信長に臣従することになりました。
信長の下に付いた元豊は豊国と名を改めますが、信長と対立する毛利氏が来訪すると、豊国は再び毛利氏に降伏しました。
そして、元春は一族の中でも武勇に優れた経家を鳥取城将として送り込みます。
さて、豊国は毛利氏に降伏はしたものの、裏では信長と通じたままでした。
やがてそれがばれると、豊国は秀吉の下に出奔しました。
これを受けて、秀吉は再び鳥取城を攻めました。
このとき秀吉は、直接戦闘ではなく、兵糧攻めという戦術を選択しました。
これによって、4か月後には食糧が尽きた鳥取城内は凄惨な状態となり、ついに経家は自決と引き換えに降伏・開城しました。
いわゆる、「秀吉の飢え殺し」です。

鳥取城を攻略した秀吉は、城を家臣の宮部継潤に与えます。
この継潤の手によって、鳥取城は石垣造りの城に作り替えられました。
やがて信長が本能寺で死ぬと秀吉は豊臣と改姓し、ついには天下を取ります。
継潤の子・長房も秀吉に仕えますが、秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いで西軍に付き、本戦終了後に鳥取城は東軍の亀井茲矩に攻め落とされました。

最終的に天下を取った徳川家康により、関ヶ原での軍功を認められて、鳥取城は池田長吉に与えられました。
長吉の手により、鳥取城は近世城郭に作り替えられました。
久松山山頂の山上の丸に対して、麓に山下の丸が増設されました。
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山上の丸には天守がありましたが、元禄年間に落雷により焼失しました。
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明治になると、城内の建造物はすべて破却されました。
そして明治40年に、池田家14代当主・仲博によって洋館が建てられました。
洋館が完成すると皇太子が来館し、そのとき随行した海軍大将・東郷平八郎によって「仁風閣」と名付けられました。
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この仁風閣に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り34城


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35番 金沢城(石川県) [日本100名城めぐり]

鎌倉時代に成立した浄土真宗・本願寺は、戦国時代に入ると8世・蓮如の手によって勢力を拡大し、加賀一向一揆によって戦国大名並みの力を持つようになりました。
やがて門徒たちによって、一向一揆の拠点として尾山御坊という城郭寺院が建立されました。
この一向一揆には、朝倉氏や上杉氏など、並み居る戦国大名たちが手を焼いていました。
織田信長は柴田勝家を対上杉、対一向一揆の北国軍として送り込み、勝家の甥・佐久間盛政や前田利家が一揆の鎮圧に当たっていました。
やがて盛政が尾山御坊を陥落させると、ここは「金沢城」と改名され盛政が城主を務めることになりました。

しかし信長が本能寺で倒れると、その後継をめぐって勝家と羽柴秀吉が対立することになりました。
盛政も利家も旧恩ある勝家側に付きますが、やがて利家は旧友でもある秀吉に懐柔され、秀吉軍の急先鋒として勝家を滅ぼします。
戦後、秀吉によって金沢城は利家に与えられ、「尾山城」と改名されます。
また、利家はキリシタン大名高山右近を呼び寄せ、尾山城の大改修を行いました。
この時に再び「金沢城」と改名されました。
利家が没するとその子・利長によってさらに改修が行われますが、江戸時代の初期に天守は落雷で喪失してしまいました。
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5代藩主・綱紀の代には蓮池庭という庭園が造営され、これが後に「兼六園」と呼ばれるようになりました。
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宝暦年間に城は大火に巻き込まれますが、その後幕末にかけて少しずつ再建されていきました。

明治になると金沢城は陸軍の所有になり、第六旅団司令部が置かれました。
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戦後は金沢大学のキャンパスとなりますが、平成に入って大学が転出すると、石川県によって金沢城公園として整備されることになり、平成13年には菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋が復元されました。
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公園内の案内所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り35城

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33番 高岡城(富山県) [日本100名城めぐり]

江戸時代初期、前田利家の長男にして加賀藩初代藩主の利長は、富山城に隠居していました。
しかしこの富山城が大火で焼け落ちてしまうと、利長は魚津城に避難し、徳川家康、秀忠父子に、新しい城を築城したいという旨を願い出ました。
やがて許可が下り、利長は関野に城を建てはじめました。
築城中に関野は「高岡」と改名され、新しい城は「高岡城」と名付けられました。
この高岡城は、城内に見事な水堀が張り巡らされた城でした。
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しかし、利長は入城してしばらくすると病没してしまいました。
その後程なくして、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府によって「一国一城令」が発せられ、できたばかりの高岡城はすぐに廃城となってしまいました。
しかしながら、利長の後を継いで2代藩主となった利長の弟・利常は、城を蔵に改装し、堀を埋め立てることもせず、密かに潜在能力を保持させました。
やがて利常によって、利長の菩提を弔う瑞龍寺も城下に建立されました。
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明治時代になると、高岡城址は民間に払い下げられましたが、落札者は城跡の保存に努め、やがて明治8年には「高岡公園」として認定され、一般公開されるようになりました。
この時に、本丸に射水神社が遷座されました。
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昭和時代には博物館や動物園なども建設され、高岡市民の憩いの場となっています。
その博物館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り36城

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10番 山形城(山形県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、羽州探題として山形に入部した斯波兼頼により、山形城は築かれました。
兼頼は「最上」と改姓し、その後山形城は代々最上氏の城となりました。

桃山時代の末期、豊臣秀吉の死後、天下取りに野心を見せる徳川家康とそれを阻止したい上杉景勝の間で緊張が高まりました。
やがて、家康は景勝を討つために会津に進軍しますが、その途中、石田三成が大坂で挙兵したという報に接し、急きょ西へ針路を変えました。
この時、最上氏の義光は家康の東軍方に付いたため、景勝の重臣、直江兼続が山形領内に侵攻しました。
兼続は山形城の支城を次々と落していき、ついに要の長谷堂城にたどり着きました。
長谷堂城では最上方が必至の抗戦を行いました。
この時、山形城は霞に覆われて直江軍から見えなくなったため、山形城は霞城とも呼ばれるようになりました。
長谷堂城での戦いが膠着している間に、関ヶ原では家康率いる東軍が大勝を納めました。
この報を聞いた兼続は一時は自害を考えますが、前田利益(慶次郎)に諌められ撤退を決意します。
撤退する直江軍を義光は追撃しますが、兼続の見事な撤退戦により取り逃がしてしまいます。
しかし戦後、直江軍を撃退した功により義光は家康によって加増されました。
義光は山形城を大規模な城郭に改修し、城下町の整備を行いました。
ところが、最上氏の内部では御家争いが絶えず、江戸時代の初期には最上氏は改易されてしまいました。

最上氏の後に入った鳥居忠政も、城の改修をしました。
この鳥居氏の後も親藩や譜代大名が入れ代わり立ち代わり城主を務め、やがて明治を迎えました。

明治時代には建物は破却され、陸軍が駐屯することになりました。
昭和時代にはかつての本丸、二の丸区域が霞城公園となり、明治時代に建てられた病院の建物・済生館が移築され、やがて「山形市郷土館」となりました。
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平成3年には二の丸東追手門が復元されました。
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平成18年、25年には本丸正門や追手橋が復元されました。
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100名城のスタンプは山形市郷土館および最上義光歴史館にあります。

100名城制覇まで残り37城

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67番 津山城(岡山県) [日本100名城めぐり]

室町時代、美作国の守護大名・山名教清が一族の忠政に命じて、鶴山に城を築かせました。
しかし、その後勃発した応仁の乱で山名氏は没落し、この鶴山城は廃城となりました。

応仁の乱を契機として戦国時代に突入すると、全国各地で戦国大名たちが覇を競うようになりました。
年月が立ち、やがてその中から織田信長の力が突出してきましたが、天下統一を目前にして家臣の明智光秀の謀反に会い、本能寺で最期を遂げます。
このとき、信長の小姓・森蘭丸も共に討死を遂げました。

その後、豊臣秀吉の時代を経て徳川家康が天下を取り、江戸時代に入ると、蘭丸の弟・忠政が美作国に入ることになりました。
そして、鶴山を「津山」と改め、津山城を築城しました。
その後13年をかけ、総石垣で天守も抱いた荘厳な城を完成させました。
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跡を継いだ2代・長継は城の近くに大名庭園を造営しました。
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元禄年間に森氏が断絶すると、越前松平氏の宣富が入り、その後幕末まで松平氏の支配が続きました。

明治時代になると津山城は廃城となり、天守や櫓などことごとく破却されてしまいました。
しかし明治33年に城跡は町有化され、鶴山公園として一般開放されるようになりました。

平成17年には備中櫓が復元されました。
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この備中櫓の受付に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り38城

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37番 一乗谷城(福井県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代より、朝倉氏は越前国の一乗谷を本拠にしていました。
ここは、谷間にある居館、町と、背後の山にある城からなっていました。
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山間の長閑な地でしたが、室町時代に京の都で応仁の乱が始まると、多くの貴族・文化人が亡命してきて、一躍文化の中心地になりました。
また、朝倉氏には富田氏という家臣がいましたが、この一族の勢源は剣術の流派・富田流を興し、城下に道場を開いていました。
この道場からは、鐘捲自斎や佐々木小次郎などが輩出されました。
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さて、応仁の乱の後も京の都は殺伐としており、13代将軍・義輝が配下の松永久秀らに暗殺されるという事件が起こりました。
この事件の後、義輝の弟・義秋は朝倉氏の義景を頼って一乗谷に亡命します。
ここで歓待を受けた後、義秋は義昭と名を変え、今度は織田信長を頼って尾張国(今の愛知県)に行きました。
そして信長の力によって上洛を果たし、15代将軍の座に就きます。

しかしその後、だんだん義昭と信長の中が険悪になってきて、ついに義昭は朝倉氏を含む信長の周りの大名たちに文を出して信長包囲網を築きあげます。
一時は追い詰められた信長でしたが、強運にも助けられながら周辺大名を次々と打ち破り、ついに朝倉氏の本拠の一乗谷まで攻め込んできました。
そして刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を捨て、落ち延びていきました。
その翌日、一乗谷は信長の手勢によって焼き払われ、灰燼に帰しました。
そして、義景も追い詰められ、自害します。

この戦いで信長方に付いて功を挙げた朝倉氏旧臣の桂田長俊に一乗谷城が与えられましたが、同じ旧臣である富田長繁らが一揆を扇動して一乗谷城に攻め込み、長俊は討取られました。
信長がこの一揆を平定した後は柴田勝家に越前国が与えられたのですが、勝家は北の庄に居城を築いたので、一乗谷城は廃城となり、その多くは土の下に埋もれていきました。

時は下って、昭和時代になってから一乗谷のあたりは発掘・復元をされるようになりました。
かつての城下町が復元されているところもあります。
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この復元町並みの入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り39城

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36番 丸岡城(福井県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、織田信長は徳川家康と同盟を組み、天下布武のため戦いに明け暮れていました。
東の方では、長篠で武田氏を撃退しました。
この長篠の戦いの時、家康の家臣・本多重次は、陣中から妻にあてて「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という有名な手紙を送りました。
お仙というのは、重次の幼い長男でした。
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一方北の方では、朝倉氏を滅亡させ、その後加賀国(今の石川県)の一向一揆を平定するために信長は家臣の柴田勝家に越前国を任せました。
この勝家の甥・勝豊によって、丸岡城は築かれました。
その後も破竹の勢いで快進撃を続ける信長でしたが、明智光秀の裏切りによって本能寺に倒れます。

信長亡き後の体制を決めるために開かれた清州会議で、勝豊はそれまで羽柴秀吉が居城していた近江国(今の滋賀県)の長浜城に移されることになり、勝家は家臣の安井家清を丸岡城代に置きました。
しかしその後、秀吉と勝家の対立が決定的なものとなり、ついに勝家は秀吉の前に滅ぼされてしまいました。
その後は丹羽長秀の所領となり、丸岡城はその家臣の青山宗勝に与えられました。
宗勝は長秀の死後は羽柴改め豊臣秀吉に仕えたため所領は安堵となりました。
やがて、宗勝の息子・忠元が家督を継ぐと、忠元は天守を建造しました。(ただし、天守は勝豊が建造したという説もあります)
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秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは宗勝、忠元親子は石田三成の西軍に付いて敗北したため、家康によって改易されました。
江戸時代に入ると、越前国は家康の二男・結城秀康に与えられ、丸岡城には秀康の家臣・今村盛次が入りました。
しかし、越前騒動という御家騒動が起こり盛次は失脚、その後丸岡城に入ったのは本多成重、「お仙泣かすな」のお仙でした。
その後しばらく本多氏の時代が続きます。
丸山城下には本多氏の菩提寺・本光院も建立されました。
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しかしこの本多氏も御家騒動で改易となり、その後は有馬氏が入りました。

明治時代になると、天守以外の建造物は破却されました。
残った天守も昭和23年に福井地震で倒壊してしまったのですが、その7年後、極力元の建材を使用して再建されました。
現在、城の管理棟に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り40城
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26番 松代城(長野県) [日本100名城めぐり]

海津城
室町時代、村上氏の傍流・清野氏は、犀川と千曲川に囲まれた三角地帯・川中島の近隣に館を構えました。
戦国時代、村上義清を破って信濃中南部を平定した甲斐国(今の山梨県)の武田晴信が北信に侵攻してくると、義清ら北信国衆は越後国(今の新潟県)の長尾景虎に救いの手を求めました。
景虎は要請に応じて信濃に出兵し、武田軍と幾度も戦火を交えました。
晴信が出家して「徳栄軒信玄」と号するようになった頃、景虎は北条氏康に敗れて亡命してきた関東管領・上杉憲政の求めに応じて、関東に出兵しました。
上杉軍が小田原城を包囲すると、北条と同盟を結ぶ武田が北信に侵攻してきて、清野氏は館を接収されました。
信玄は、上杉の背後を脅かすため、屋代氏・香坂氏ら配下の国衆に命じてこの地に城郭を作らせました。
「海津城」と名付けられたこの城には、香坂虎綱が城代として入りました。
景虎は小田原城の包囲を解き、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行って「上杉政虎」と改名した上で、対応のために本国に引き上げました。

川中島の戦い
政虎が海津城攻略のために本国を出陣したという情報を入手した虎綱は、信玄に報せを入れました。
上杉軍が海津城西方の妻女山に陣取ると、川中島に到着した信玄本隊は、妻女山北方の茶臼山に着陣しました。
上杉軍に動く気配がないので、信玄は膠着状態を打破するために海津城に入りますが、やがて、川中島一帯に深い霧が立ち込めてきました。
信玄は兵を二手に分け、自身は本隊を率いて八幡原に布陣し、虎綱や馬場信房らが率いる別動隊は妻女山に向かわせました。
翌朝、霧が晴れると、信玄の目の前には、そこにいるはずのない上杉軍の姿がありました。
すぐに大混戦となり、両軍ともに夥しい数の死傷者が発生しました。
虎綱・信房の軍勢が救援に駆け付け撃退には成功したものの、信玄の弟・信繁をはじめとして名立たる家臣が多く討死するなど、武田にとっても甚大な損害を被る結果となりました。

逃げ弾正
その後、虎綱は「春日」に復姓しました。
政虎も「輝虎」と改名し、さらに出家して「不識庵謙信」と名乗るようになりました。
信玄の死後も、跡を継いだ勝頼から虎綱は引き続き海津城代として上杉への抑えを任されました。
勝頼が徳川を攻めるために長篠に出陣すると、海津城守備を命じられた虎綱の代わりに、嫡男・昌澄が従軍しました。
しかし、織田信長・徳川家康の援軍と彼らが装備する大量の鉄砲の前に、武田軍は惨敗してしまいました。
昌澄を含めて多くの家臣が討死したので、武田家は急激に弱体化することとなりました。
謙信が急死したことによって二人の養子・景虎と景勝による跡目争いが始まると、勝頼の調停を求める景勝からの使者が虎綱のもとにやって来ました。
虎綱は勝頼に取り次ぎ、景勝側との交渉にも携わりました。
同盟関係にある北条から景虎後援を依頼されていた勝頼でしたが、金の援助と引換えで景勝の要請に応じることにし、海津城に入って景勝と誓詞を交わしました。
その最中に虎綱がこの世を去り、次男・信達が跡を継ぐことになりました。
勝頼は上杉の本城のある春日山まで進軍して調停を試みますが、不首尾に終わったため、景勝との同盟に方針を切り替えました。
信達も交渉に加わって同盟が成立すると、武田の後ろ盾を得た景勝は争いを優位に進めようになりました。
武田と手切れになった北条に対処するため、信達は駿河国(今の静岡県)三枚橋城に入り、海津城代は安倍宗貞に交代となりました。
その後、景勝は勝利を収めて上杉家の後継者となりますが、天正10年、織田・徳川連合軍に追い詰められた勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡しました。

鬼武蔵
海津城は信長によって織田家臣・森長可に与えられますが、織田支配に抵抗する一部の武田旧臣が上杉と結んで一斉蜂起に及びました。
長可が彼らを根切にして一揆を鎮圧すると、信達をはじめとする信濃国衆は長可に恭順の姿勢を見せるようになりました。
領国統治が容易ではないことを痛感した長可は、国衆に対して妻子を海津城に住まわせる事を義務付けることにしました。
その後、柴田勝家が攻めている魚津城の救援に景勝が向かったという報せを受けた長可は、5000の兵を率いて越後侵攻を開始しました。
諸城を次々に陥落させ、春日山に肉薄するまでに至った長可のもとに、やがて二つの報せが入りました。
一つは「森軍に対処するため景勝が魚津を撤退したことで、勝家が魚津城攻略に成功した」という報せ、もう一つは「京都の本能寺で信長が明智光秀に急襲されて自害した」という報せでした。

甲斐一乱
一転して敵地深くに取り残される形となってしまった長可は、急いで陣を払って信濃に撤退し、軍議を開いて仇を討つことを決定しました。
しかし、領国ではすでに、信長死亡の報を聞きつけていた武田旧臣が反乱を起こしていました。
やむなく領国を放棄することにした長可は、海津城内に住まわせていた人質を連れ出し、美濃国(今の岐阜県)に向けて南進を開始しました。
武田旧臣の動きに呼応して上杉も侵攻してきたので、信達はこの機に森をせん滅しようと攻撃を開始しますが、森軍が連れて行った人質の中には嫡男・庄助の姿もありました。
森との協議の結果、信達は攻撃の手を止めますが、森軍が松本に到着すると庄助は長可の手によって殺害され、その他の反乱勢力の人質も森軍によってことごとく処刑されました。
海津城を奪還した信達は上杉に属することにしますが、武田時代の同僚でもある上田城主・真田昌幸の誘いに乗り、佐久郡に出兵してきた北条にも内通するようになりました。
しばらく後、信達は景勝の陣所に呼び出され、その場で殺されました。

上田合戦
信達誅殺後、景勝から城代を命じられて海津城に入った須田満親のもとに、昌幸からの使者がやって来ました。
北条に従っていたはずの昌幸はいつの間にか徳川についており、そして今度は上杉への転属を申し出てきたのです。
満親は交渉役を務めてこの話をまとめ、昌幸の次男・信繁を人質として預かりました。
その後、徳川が上田に攻め込むと、満親は景勝に真田救援を強く進言し、手勢を率いて真田軍に加勢して徳川軍の撃退に貢献しました。
一方、上方では、光秀を破って信長の仇を討った豊臣秀吉が、関白として天下を差配するようになっていました。
秀吉に臣従することに決めた景勝は上洛し、満親も付き従いました。
景勝は豊臣政権の中で重要な役割を与えられるようになりますが、やがて会津への移封が噂されるようになりました。
それを裏付けるように、秀吉の命で松坂城主・古田重勝らが北信の検地に送り込まれ、さらに、伏見城普請で不手際があったとして、嫡男・満胤がその他多くの上杉家臣とともに改易に追い込まれてしまいました。
その後、秀吉からの正式な会津移封の通達が届くと、満親は海津城内で自害しました。

待城
北信は秀吉の蔵入地となり、秀吉によって田丸直昌が海津城主に任じられますが、程なくして秀吉は死去してしまいました。
その後、羽柴忠政が、小牧・長久手の戦いで散った兄・森長可旧領への転封を豊臣家に強く願い出、領地交換という形で実現されることとなりました。
入封した忠政は、「兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしている」という思いを込めて海津城を「待城(まつしろ)」と改名し、春日一族を探し出して片っ端から磔にしていきました。
その後、秀吉亡き後の主導権を巡って家康と対立した石田三成が、忠政の参陣を求めるために来訪しました。
しかし、忠政は三成との会談の席で豊臣批判の言動を繰り返し、会談後、森姓に復姓して家康指示を明確に表明するようになりました。
三成と同心する景勝を討つために家康が会津に向けて進軍を開始すると、忠政はそれに先駆けて宇都宮に着陣しました。
ところが、徳川軍の進軍中に上方で三成が挙兵に及び、それに呼応した昌幸・信繁父子が徳川軍を離れて上田に帰国したため、忠政は家康の命で領国に戻ることになりました。
やがて、家康の子・秀忠が率いる大軍が東山道を西進してきて、上田攻めを開始しました。
この秀忠軍の中には、徳川につくという決断をした昌幸の嫡男・信幸の姿もありました。
特に出馬要請も来なかったため忠政は本国で待機しますが、予想外に秀忠軍は苦戦し、ついには攻略をあきらめて迂回して行ってしまいました。
その後、関ヶ原で家康が三成を打ち破ったため、真田は降伏・開城しました。
徳川軍が上田に入領する際には、忠政は一揆の鎮圧を担当しました。
戦後、家康から本領を安堵された忠政は、領内で総検地を実施しますが、これによって領民には重税が課されることとなったため、程なくして全領で大規模一揆が勃発しました。
忠政は徹底的な弾圧を開始し、600人以上を処刑して鎮圧に至りました。
程なくして、小早川家の無嗣改易によって美作国(今の岡山県)が空いたので、忠政はそちらに加増転封されることが決まりました。

松城
家康が征夷大将軍に任じられたのとほぼ同時期に忠政は美作に移り、北信は家康の6男・松平忠輝に与えられました。
忠輝が幼少の頃から家康に疎まれ続けていたこともあり、これは他の兄弟に比べて明らかに低い待遇でした。
しかし、忠輝の生母・茶阿局や岳父・伊達政宗の口添えもあって、越後高田を加増されることになりました。
越後高田に移ることになった忠輝は、家老・花井吉成を待城代に任じました。
吉成は、街道整備や治水工事などの領内整備に尽力し、領民からも感謝されるようになりました。
やがて、秀忠に将軍職を譲った家康が豊臣討伐の兵を挙げました。
流刑地の九度山村から密かに大坂城に入った信繁は、大坂の地で家康を追い詰める戦いぶりを見せますが、兵力に勝る徳川軍の反攻によって討死し、大坂城も落城して豊臣は滅亡しました。
家康の死後、この戦で問題行動のあった忠輝は秀忠によって改易となり、忠輝の甥・忠昌が後に入りました。
忠昌は待城を「松城」と改名しますが、間もなく忠輝旧領を継ぐ形で越後高田に転封となりました。
代わりに入った酒井忠勝もすぐに転封となり、その次に入ったのは、関ヶ原の戦いの後、父との決別を示すために「信之」と改名していた信幸でした。

天下の飾り
やがて、秀忠の長男・家光が将軍職に就きますが、信之はこの新将軍から、戦国の生き字引としてたいそう慕われていました。
古希を迎えようという頃になって、信之は嫡男・信吉に家督を譲ろうとしますが、その矢先に信吉が先立ってしまい、その子・熊之助も程なくして夭逝してしまったため、隠居を果たせなくなってしまいました。
同世代の武将は高齢で世を去り、気が付けば信之は、戦国を知る唯一の生き証人として皆から崇敬を受ける存在となっていました。
家光が死去して長男・家綱が将軍職を継ぐと、信之も次男・信政に家督を譲ろうとしますが、「幼い新将軍を支えてほしい」と老中から慰留され、またも隠居はかないませんでした。
卒寿を超えた頃、成長した家綱から信之はようやく隠居を認められますが、信政は家督継承のわずか2年後に死去してしまいました。
信政の遺言によって6男・右衛門が家督を継ぐことになったものの、この子が幼少であったことと、信之次男の血統であったことから、信吉の子・信利が異を唱え、御家騒動が勃発しました。
信之は、自らが右衛門の後見人になることで騒動を収めますが、これによって結局現役復帰することとなってしまいました。
ところで、信政は関ヶ原の戦いの折、信之によって家康のもとに人質として差し出されていたのですが、その忠義を賞され、家康から短刀・藤四郎吉光を賜っていました。
信之は家宝とも言えるこの短刀を長持に入れ、昼夜通して交代制で常に6人の家臣に警護させることにしました。
そして、家老級の者であっても、この長持を開けることは絶対に許しませんでした。
その年、信之は93年の生涯を閉じました。
家臣のみならず百姓までもが信之の死を嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したと言われています。

日暮硯
信之没後も右衛門はずっと江戸詰めの状態でしたが、元服して「信房」と名乗るようになった頃、ようやくお国入りが許されました。
「幸道」と改名した後、公儀の命により松城は「松代城」と改名されました。
その後、松代城は火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失し、天守代用の戌亥隅櫓も失われました。
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この再建のために公儀から1万両を借財したことで、松代の財政は徐々に困窮していきました。
幸道の2代後の信安の代には、台風で千曲川・犀川流域が大氾濫を起こし、城の一番高い石垣が水没する程の被害を受けました。
被害救済のためにまた1万両を借財したので、松代財政はいよいよ危機的状況となりました。
信安は原八郎五郎、次いで田村半右衛門をを登用して財政再建に当たらせますが、汚職の横行や一揆の発生などを引き起こす結果となってしまいました。
信安が死去して長男・幸弘が家督を継いだ頃には、年貢の未納も相次ぎ、もはや当主の生活費すら事欠くほどの状態に陥っていました。
幸弘は家臣の恩田(木工)民親を「勝手方御用兼帯」に登用し、破綻寸前の財政の再建を託しました。
民親は、質素倹約の励行や贈収賄の禁止を実施するとともに、重臣や豪商だけでなく領民とも膝を突き合わせて語り合い、訴えに耳を傾けながら改革の必要性を粘り強く説き続けました。
結局、財政はわずかに持ち直した程度に終わりましたが、民親の姿勢は家臣・領民の間に大きな意識改革をもたらしました。

五月塾
幸弘の2代後の幸貫は、家臣の佐久間(一学)国善に命じて城の北に土手を築かせ、「不崩(かけ)ずの土手」と名付けました。
その後、佐久間家の家督を譲られた国善の長男・国忠は、江戸に出て学問を進め、やがて故郷の寺院・象山恵明禅寺の名を取って「象山」と号するようになりました。
清とイギリスの間でアヘン戦争が勃発すると、老中兼海防掛に任ぜられた幸貫は、象山を顧問として抜擢しました。
海外情勢の研究を始めた象山は蘭学に目覚め、オランダ語を習得してオランダの書物を次々に読み漁るようになりました。
これを聞いた幸貫は象山を洋学研究の担当者に任じ、西洋兵学を学ばせることにしました。
やがて象山は大砲の鋳造に成功して西洋砲術家としての名声を轟かすようになり、国産ガラスの製造にも成功しました。
国元に帰ってからも生家を学問所とし、硝石の製造や日本初の電信実験にも取組みました。
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その後、再び江戸に出た象山は、私塾「五月塾」を開いて砲術や兵学を教え始めました。
この五月塾には、旗本の勝(麟太郎)義邦、長州の吉田(寅次郎)矩方ら、志のある者が全国から入門してきました。
やがて幸貫は孫の幸教に家督を譲ってこの世を去りますが、その後、マシュー・ペリー提督が率いるアメリカの黒船艦隊が浦賀に来航しました。
象山は松代藩の軍議役として、吉田を連れて浦賀視察に赴きました。
日本全国で攘夷か開国かの対立が巻き起こる中、欧米の脅威を深く理解していた象山は、「まずは開国し、欧米の軍備や科学技術を吸収した上で、欧米と対等に渡り合える国を造る」という思想を持つようになりました。
その一環として吉田に密航をけしかけたところ、翌年のペリー艦隊再来航時に吉田が決行しようとして失敗しました。
この一件で象山は、吉田に連座して伝馬町牢屋敷に繋がれる羽目になりました。
当然ながら五月塾も閉鎖となり、その際に、塾に掲げられていた象山直筆の書「海舟書屋」を持ち帰った勝は、「海舟」という号を名乗るようになりました。

人斬り彦斎
松代に送られた象山は、蟄居の身ながらも開国論と公武合体論を説き続けました。
大老・井伊直弼が暗殺されて幕府の指導力が低下すると、文政2年、薩摩国父・島津久光らの圧力によって「参勤交代の緩和」「洋学研究の推進」などを盛り込んだ幕政改革が開始され、象山も復権して軍制顧問に任じられました。
京都では、吉田の薫陶を受けた長州藩士を中心とした尊王攘夷派とそれに同心する急進派公卿が大きな力を持っていましたが、文久3年8月18日、会津・薩摩を主体とする公武合体派が彼らを追放しました。
一部の尊王攘夷派が地下に潜伏したという話が囁かれる中、徳川氏14代将軍・家茂が上洛し、象山も将軍後見職・徳川慶喜の招きによって上洛することになりました。
政情の不安定が続く中、松代では病弱な幸教の隠居が議論されるようになり、宇和島藩主・伊達宗城の長男・保麿を養嗣子として迎え入れることになりました。
やがて、市中の治安維持を担当していた新選組が、慶喜らの暗殺と天皇の長州への連れ去りを計画して池田屋に集結していた尊王攘夷派浪士を急襲し、壊滅させるという事件が起こりました。
その一月後、いつものように西洋式馬装で供も付けずに京都市中を闊歩していた象山は、三条小橋付近で2名の刺客に襲われました。
象山は近くの宿舎目指して馬を走らせますが、その前に別の刺客が現れました。
馬の脚を斬り付けられて落馬すると、間髪入れず、胴に居合のような逆袈裟の一閃が走りました。
象山は応戦しようと抜刀しますが、そこに二太刀目が振り下ろされ、追ってきた最初の刺客にも斬り掛かられ、その場で絶命しました。
事件後、主犯の河上(彦斎)玄明によって祇園社に掲げられた斬奸状には、「西洋学を唱えること」「開国論を主張すること」など、象山の「罪状」が記されていました。
象山の子・恪二郎は、仇討のために新選組に入隊しました。
しかし、その後象山の思想の真意を知った河上は、人斬りをやめました。

吉光の御長持
先の改革で参勤交代が緩和されたことにより帰国を許された幸教の妻子の住居として、城外に新御殿が建てられました。
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その後、元服して「幸民」と名乗るようになった保麿が家督を継ぎますが、政情は風雲急を告げ、長州征討の陣頭指揮を執っていた家茂が急死し、跡を継いだ慶喜が大政奉還を行い、薩摩・長州の主導で王政復古の大号令が発せられ、上方で旧幕府勢力が駆逐されるという事態になりました。
幸民は幕府から甲府城代を命じられますが、辞退して新政府側に付くことにしました。
新政府から改めて甲府城代を命じられた幸民は、江戸開城の後は北越・会津の戦争に従軍し、戦功を上げました。
戦争終結後、松代で信之以来200年以上にもわたって厳重に管理され続けてきた長持が開封されました。
長持の中からは、短刀・藤四郎吉光とともにたくさんの書状が出てきました。
それは、かつて関ヶ原前夜に三成から信之に送られてきた密書で、このようなものを隠し持っていることが幕府に知られれば御家取潰しもあり得るような代物でした。

復元
新政府によって松代城は廃城となり、城跡は藩士に払い下げられて畑になっていきました。
明治37年、幸民の子・幸正は払い下げられていた土地を買い戻し、本丸跡地を遊園地として開放しました。
昭和26年、幸正の子・幸治によって本丸跡地が長野県に寄附され、公用地となりました。
平成16年には太鼓門、堀、石垣、土塁等が復元されました。
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100名城制覇まで残り41城

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27番 上田城(長野県) [日本100名城めぐり]

攻め弾正
鎌倉時代より信濃国上田原を拠点としていた土豪・小泉氏は、千曲川の分流である尼ヶ淵に面したところに城館を構えました。
戦国時代、小泉氏の末裔・重成は村上義清に従っていましたが、この義清は隣国・甲斐国(今の山梨県)から侵攻してきた武田晴信を上田原で撃退し、武田軍に甚大な損害を与えました。
その後、晴信がこの敗北を挽回すべく戸石城に攻め込んできますが、義清はまたもこれを撃退し、武田軍は総崩れとなりました。
しかし、力攻めを諦めた晴信から攻略を任された武田家臣・真田幸綱の調略により、戸石城は武田の手に落ちました。
やがて、武田に追い詰められた義清は越後国(今の新潟県)の長尾景虎を頼って亡命していきました。
重成の所領は晴信によって安堵となりますが、城館は幸綱に破却されました。
その後、晴信が出家して「徳栄軒信玄」と号するようになると、幸綱もそれに倣って剃髪し、「一徳斎幸隆」と号すようになりました。

表裏比興の者
信玄の死後、武田家の家督は次男・勝頼が継ぎました。
間もなく幸隆も死去すると、真田家の家督は長男・信綱が継ぎますが、直後に勃発した長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍の前に討死してしまいました。
この戦いで次弟・昌輝までもが討死してしまったため、戦後、武藤家に養子に出ていた三弟・昌幸が真田に復して家督を継ぐことになりました。
天正10年、織田・徳川に追い詰められた勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、昌幸は信長の家臣・滝川一益の配下に付くことにしました。
ところがそのわずか三月後、昌幸の嫡男・信幸は、懇意にしていた前田(慶次郎)利益から「信長が京都の本能寺で家臣の明智光秀に討たれた」という話を聞かされました。
一益が信濃を撤退していくと、空白地帯となった旧武田領は徳川、北条、そして長尾の流れを汲む上杉が狙う不安定な地となりました。
昌幸は生残りをかけて北条についたものの、徳川優勢と見るや、すぐにそちらに寝返りました。
小牧・長久手の戦いが勃発すると、昌幸は、信長の後継者・羽柴秀吉と対峙しなければならなくなった家康の代わりに上杉を抑えるため、家康の命でかつて小泉氏の城館があったところに城を築くことになりました。
その後、この城は「上田城」と呼ばれるようになりました。

第一次上田合戦
徳川と北条が和睦を結ぶと、昌幸は家康から、上野国(今の群馬県)沼田を北条に引き渡すよう求められました。
昌幸は徳川を見限ることにし、次男・信繁を人質として越後に送って上杉景勝と手を組みました。
上田城はもともと上杉への抑えとして徳川の命で築かれたものでしたが、今度は徳川に対峙するための城として上杉の支援で増築されることとなりました。
やがて家康は、7000の兵を上田に送り込んできました。
迎え撃つ真田には1200の兵しかいませんでしたが、昌幸は上田城に籠り、信幸を戸石城に、従弟の矢沢頼康を上杉の援兵とともに矢沢城に配置しました。
徳川軍が上田城に攻め込んでくると、昌幸は二の丸まで攻め込ませた上で反撃命令を下しました。
後退する徳川軍を上田城・戸石城・矢沢城の三方から追撃すると、徳川軍は総崩れとなって潰走を始め、神川を渡って逃げる際には大量の溺死者を出しました。
その後、しばらくの間小競り合いが続きましたが、上杉から援軍増派の報が届くと徳川軍は撤退していきました。

小田原征伐
秀吉が関白に就任して「豊臣」姓を賜り豊臣政権が確立すると、景勝も昌幸も秀吉に臣従しますが、真田は秀吉の命で徳川の与力とされてしまいました。
信繁は景勝により大坂城に送られて、秀吉の馬廻衆となりました。
その後、信幸は徳川家臣・本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えることになりました。
信繁も、豊臣家臣・大谷吉継の娘を正室に迎えることになりました。
北条との間で沼田の領有権争いが再燃して小田原征伐が始まると、昌幸は景勝や前田利家とともに上野に攻め込み、小田原城の支城を次々に落としていきました。
また、吉継らとともに、石田三成が指揮する忍城攻めにも加わりました。
北条氏が滅亡すると沼田は真田領として確定したので、昌幸はここを信幸の本拠としました。

犬伏の別れ
秀吉の死後、跡を継いだ秀頼が幼少であったため、家康が大きな権力を持つようになりました。
家康が自分に従わない景勝を討つために諸将を引き連れて会津に出陣すると、昌幸も信繁とともに出陣して、徳川軍への合流を目指しました。
ところが、下野国(今の栃木県)犬伏に入った頃、昌幸のもとに三成からの密使が到着しました。
使者が携えていた書状には、「家康を討つために挙兵したから参戦してほしい」と書いてありました。
昌幸は自分に相談なしで挙兵した三成に対して憤りを覚えつつも、先行していた信幸を呼び寄せて親子三人だけの密談を行いました。
長時間に及んだ激論の末、「昌幸と信繁は石田方に、信幸は徳川方に付く」という結論に辿り着き、昌幸と信繁は戦支度のために上田に引き返しました。
その後、いったん江戸に戻った家康は、三成を討つために東海道の西進を開始しました。
家康の子・秀忠は別動隊として、忠勝の子・忠政らを付き従え、3万8000の兵を率いて東山道の西進を開始しました。
この別動隊の中には、信幸隊の姿もありました。
上田に籠る昌幸は、2000の兵でこの大軍を迎え撃つ決心を固めました。

第二次上田合戦
昌幸は上田城に籠り、信繁を戸石城に配置しました。
また、先の上田合戦で徳川軍に大量の溺死者を出した神川の上流を、密かに堰き止めさせました。
秀忠が近隣の小諸城に入ると、昌幸は信幸を介して秀忠に除名嘆願を行いました。
この嘆願が秀忠に受諾されると、今度は一転、態度を変えて秀忠を挑発し始めました。
このようなやりとりの末に秀忠の命を受けた信幸隊が戸石城に進軍してくると、信繁は戦わずに開城して上田城に入りました。
戸石城を「攻略」した信幸は、それ以上は動きませんでした。
その後、小諸城主・仙谷盛長やその子・久政らを従えた秀忠が小諸城を出撃し、上田に迫ってきました。
徳川の手勢が上田城下で苅田を始めると、信繁は夜陰に紛れ200の手勢を率いて密かに城から出て、秀忠本陣の近くに潜みました。
明くる日、真田の軍勢数百が苅田を行っている徳川軍に攻撃を加えると、その後方に潜んでいた忠政隊が襲い掛かってきました。
遁走を始めた真田軍が上田城を目指すと、他の徳川の軍勢も追撃に加わってきました。
大軍に膨れ上がった敵軍が大手門に押し寄せてきたところで、昌幸は城門を開かせ、裏に待機させていた鉄砲隊に一斉射撃を命じました。
突然の反撃で大混乱に陥った徳川軍に対して昌幸は総攻撃をかけ、これを壊滅させました。
時を同じくし、秀忠本陣近くに潜んでいた信繁隊は奇襲を仕掛けました。
大混乱に陥った秀忠本隊は逃げるために神川を渡り始めますが、ここで信繁の合図により上流の堰が切られ、大量の人馬が激流に飲み込まれていきました。
秀忠は小諸城まで逃れていきましたが、やがて上田城攻略をあきらめたのか、迂回して西に向かっていきました。
緒戦を勝利で飾り、これからの長い戦乱に備える昌幸のもとに、一つの報せが届きました。
それは、「関ヶ原で石田・徳川の両陣営が激突し、徳川方が圧勝した」という内容で、真田の命運を決定づけるものでした。
ただ、この戦に秀忠は間に合わなかったとのことでした。

破却
上田城は徳川方に接収され、昌幸と信繁は戦闘に勝利したにもかかわらず「敗軍の将」となってしまいました。
当初は死罪となるところでしたが、信幸は舅の忠勝をはじめとする家康側近たちの協力を得て、必死で家康への助命嘆願を行いました。
この時、信幸は父との決別を示すため、「信之」と改名しました。
嘆願の甲斐あって、昌幸と信繁は流罪に減刑となり、大和国(今の奈良県)九度山村に移されました。
上田城は家康の命により完全に破却され、堀も埋められてしまいました。
上田領自体は信之による相続が認められたので、信之は三の丸跡地に陣屋を構えました。
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戦乱と浅間山の噴火で上田は荒廃していましたが、信之は領内の再建と城下町の整備に取り組み、その一方で九度山に流された父と弟の支援も密かに行いました。
征夷大将軍に任ぜられて名実ともに天下人となった家康は、間もなくその職を秀忠に譲って「大御所」となりました。
上田合戦で秀忠のもとに参陣した久政は、秀忠の片諱を賜り、「忠政」と改名しました。
やがて、九度山の昌幸は、そこから二度と脱することができぬまま、病で果てました。
忠政は、父の死去により仙谷家の家督を継ぎました。
慶長19年の冬、徳川家との関係が悪化した豊臣家が牢人を集め始めると、上田に在住する昌幸旧臣のもとに九度山の信繁から参戦の呼びかけが届き、信繁自身も九度山を脱出して大坂城に入っていきました。

真田丸の戦い
豊臣家を討伐することに決めた家康は、諸大名に参戦命令を出しました。
信之のもとにも家康の使者が来ましたが、病に臥せっていた信之は、二人の息子・信吉と信政を代理として出陣させることにしました。
徳川方が大坂城を包囲すると信吉・信政は北東方面に布陣しますが、大坂城は鉄壁の守りを誇っていました。
唯一の弱点と思われていた南方面にはいつの間にか巨大な出城が築かれており、赤備えが守備に就いていました。
出城の正面に布陣していた利家の子・利常の隊が、挑発に乗って城壁に接近したところ、一斉射撃を受けて壊滅的な損害を被りました。
井伊隊・松平隊もそれに釣られて不用意に大坂城に攻め込んでしまい、やはり大損害を被ってしまいました。
家康は本丸に大筒を撃ち込んで何とか和睦を引き出しますが、徳川方の受けた損害は甚大なものでした。
戦後、この出城は、ここで大軍を撃退した大坂方の将の名から、「真田丸」と呼ばれるようになりました。

日本一の兵
家康は和睦の条件どおり真田丸の破却と外堀の埋立てを行い、さらにそのまま内堀の一部も埋め立ててしまいました。
翌年の夏、豊臣と最終決着をつけるために大坂に進軍した家康は、邪魔な出城がなくなった大坂城の南方に、諸大名とともに布陣しました。
真田家からは前年と同じく信吉と信政が出陣し、本多忠政の弟・忠朝を大将とする天王寺口の先鋒に就きました。
戦いの火蓋が切られると、前方から毛利一斎(勝永)隊が怒濤の勢いで突進してきました。
先鋒総出で迎え撃つも大将の忠朝が討ち取られて壊滅し、信吉と信政は敗走することとなってしまいました。
二番手が迎え撃つ番になると、仙谷忠政は11もの首級を挙げる奮戦を見せますが、毛利隊の勢いは止められませんでした。
やがて三番手までもが撃破されてしまい、無防備状態となった家康本陣に今度は信繁率いる赤備えの軍勢が突撃してきました。
信繁隊の本陣突撃は三度に及び、徳川の旗印は倒され、一時は家康が切腹を口走るほどの総崩れ状態となりました。
しかし兵力に勝る徳川方が徐々に盛り返し、やがて信繁は討死、大坂城は落城して秀頼も自害し、ここに豊臣家は滅亡しました。
後世、信繁は家康を追い詰めた大坂方の英雄として、「幸村」の名で語り継がれるようになりました。

再建
戦後、信之は信吉に沼田を譲って上田に戻りました。
しかし、秀忠の命によって信之は近隣の松代に移封となり、上田には仙石忠政が入ることになりました。
忠政は上田城の再建に取り掛かり、櫓などを建造しました。
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忠政の2代後の政明の代に、信吉の子である沼田真田家当主・信直が改易されると、3男・栗本直堅と4男・辰之助は仙石家の預かりとなり、上田城に軟禁されました。
政明が但馬国(今の兵庫県)出石に転封となると上田には松平忠晴が入り、そこからは代々松平家の統治が続きました。

眞田神社
江戸幕府が滅亡すると、上田城は明治政府によって接収された後に廃城となり、その後民間に払い下げられました。
廃城となった上田城跡は桑畑や麦畑に変わっていきましたが、城跡の荒廃を危惧する旧上田藩士や領民によって、本丸跡に松平神社が建立されました。
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昭和時代には櫓が博物館として利用されるようになるとともに、城域に新たな博物館も建てられました。
また、松平神社は真田・仙石・松平の歴代全上田城主及び信繁を合祀する神社となり、「眞田神社」と改称されました。
上田城がかつて徳川の大軍に二度も攻め込まれながらも「落ちなかった」というところから、眞田神社は受験生の人気を集める神社となっています。

100名城制覇まで残り42城

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28番 小諸城(長野県) [日本100名城めぐり]

築城
平安時代末期、信濃国の宇頭坂に木曽義仲の家臣・小室光兼が宇頭坂城を築きました。
やがて小室氏が支配する地域は、「小諸」と呼ばれるようになりました。
南北朝時代に小室氏が衰退すると、代わって大井氏が小諸の佐久地方を支配するようになります。
戦国時代に入ると、大井宗家は村上氏に滅ぼされました。
大井家の生き残りの光忠は小諸に逃れ、宇頭坂城のあったところに鍋蓋城と乙女城を築城しました。
しかし、ここも隣国・甲斐(今の山梨県)の武田信玄により攻め落とされました。
信玄は新たに城を築き直し、やがて「小諸城」と呼ばれるようになりました。

甲斐一乱
やがて、西の方で織田信長が力を伸ばしてきました。
信玄は信長と対立する将軍・足利義昭の要請に応じて西上作戦を開始しました。
しかし、その途上で信玄が急死したので、作戦は中止されました。
信玄の子・勝頼が跡を継ぐと、御一門衆の下曾根浄喜が小諸城の城代を務めるようになります。
しかし、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、武田と織田の力関係は完全に逆転してしまいました。
天正10年、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻してくると、勝頼の従弟の信豊が小諸城に逃れてきました。
浄喜は武田を裏切って信豊を討ち取り、その首を信長に進上しますが、浄喜も誅殺されてしまいました。
間もなく勝頼が自刃して武田氏は滅び、上野国(今の群馬県)と信濃国佐久郡・小県郡は織田家臣の滝川一益が領有することになりました。
一益は上野に本拠を置いたので、小諸城には一益の甥・道家正栄が城代として入りました。
また、このときに上野の有力者であった旧武田家臣・真田昌幸が一益の配下に入りました。

神流川の戦い
そのわずか二月後、信長が本能寺で明智光秀に討たれました。
謀反人の光秀はすぐに羽柴秀吉によって討ち果たされましたが、この混乱を見た相模国(今の神奈川県)の北条氏が上野に侵攻してきました。
一益は神流川で北条軍を迎え撃ったものの敗退し、小諸城に逃れました。
そして、木曽郡の国衆・木曾義昌と領内通過の約定を取り付けると、佐久郡の国衆・依田信蕃に城を引き渡し、本国の伊勢(今の三重県)長島への撤退を開始します。
しかし、城をたったその日に清洲城で織田家の後継を決める会議が開かれ、この会議で秀吉が主導権を握ったため、会議に参加できなかった一益の織田家中における地位は急落しました。

黒駒合戦
一益の配下に付いていた昌幸は北条に帰属することにしたので、これで上野の支配権を盤石にした北条氏の軍が臼井峠を越えて信濃に攻め込んできました。
信蕃は小諸城を放棄して春日城に籠城し、小諸城には北条家臣・大道寺政繁が入りました。
北条軍はその勢いで甲斐に侵攻しましたが、信蕃の遊撃戦術によって補給線を分断されてしまいました。
兵站を乱された北条軍が黒駒で徳川軍に敗北すると、義昌が徳川方に寝返り、昌幸も信蕃に加勢するようになりました。
真田軍と北条軍が上野で熾烈な戦いを繰り広げている間に、小諸城が信蕃に急襲され、政繁は城を放棄して撤退しました。
信蕃が小諸城を奪回した後、信濃の国衆が次々に徳川方に付いたため、ここに至って北条は徳川との講和を決意しました。
そして、信長の子・信雄の仲介によって講和が成立し、甲斐・信濃は徳川が、上野は北条がそれぞれ切り取り次第という約定が交わされました。
これに付随し、真田氏の上野沼田領と北条が制圧した佐久郡を交換するという話になりました。

岩尾城の戦い
北条との戦での功績により、小諸城は家康によって引き続き信蕃に任されることになりました。
周辺の勢力は信蕃の下に集ってきましたが、信蕃と対立する勢力は、北条方に付いていた佐久郡岩尾城主の大井行吉の下に集いました。
信蕃は弟の信幸とともに岩尾城に攻め込みますが、予想外の抵抗に遭い、銃撃を受けて兄弟共に死亡してしまいました。
その後、柴田康忠の説得で行吉が城を明け渡したので、佐久郡は徳川領となりました。
信蕃の遺児・竹福丸は、家康から偏諱と松平姓を与えられて元服し、「松平康国」と名乗るようになりました。
小諸城も康国の相続が認められました。

第一次上田合戦
佐久の領有権問題は片付きましたが、沼田の方は昌幸が引き渡しを断固拒否したため、泥沼化していました。
家康は昌幸に対して沼田領の北条への引き渡しを要求しましたが、受け入れられない昌幸は越後国(今の新潟県)の上杉景勝と通じるようになりました。
昌幸の造反を受け、家康は真田の本拠地・上田に軍勢を送りました。
康国はこの戦で初陣を飾ることになりました。
徳川軍は昌幸の巧みな戦術の前に惨敗を喫しましたが、康国は合戦での活躍によって家康から感状を受けました。

小田原征伐
秀吉が関白に就任して「豊臣」姓を賜り豊臣政権が確立すると、家康は臣従し、真田は秀吉の命で徳川の与力となりました。
康国は家康の庇護の下、佐久地方の安定統治に努めました。
一部の佐久地方旧領主が挙兵したときには、木次原の戦いでこれらを破りました。
その後、真田と北条の間で沼田の領有権争いが再燃し、これに端を発して小田原征伐が始まりました。
康国は徳川旗下のまま前田利家の先導役となり、弟の康勝とともに前田・上杉・真田連合軍に属することとなりました。
連合軍は政繁が守る松井田城などを落としながら進軍しますが、寺尾左馬助が守る上野石倉城の攻略中、康国は戦死してしまいました。
一旦開城が成った後で康国が左馬助に殺害され、その場で康勝が左馬助を討ち取ったとも伝えられています。

鈴鳴り武者
北条氏が降伏して戦役が終わると、康勝が家督と小諸領を継ぐことが認められました。
しかし、秀吉の命によって家康が関東に移封されることになったため、康勝もそれに付き従うことになりました。
小諸城は、秀吉から小田原征伐での功労を認められた仙石秀久に与えられることになりました。
「盛長」と改名して領地経営に本腰を入れ始めた秀久は、小諸城の大改修に取り掛かりました。
秀吉が死去してその子・秀頼が跡を継ぐと、家康が大きな権力を持つようになりました。
対立する景勝を討つために家康が諸将を率いて会津に進軍すると、盛長もそれに応じて兵を招集しました。
しかし、石田三成が上方で反家康の挙兵に及んだので、対応のために家康は江戸に引き返していきました。
盛長は徳川方として小諸の鎮撫に当たりますが、嫡男であった次男・秀範は独断で石田方に付いてしまいました。

第二次上田合戦
近隣の上田では、家康から離反した昌幸が籠城の構えを取っていました。
三成を討つために家康が東海道の西進を開始すると、家康の嫡男・秀忠は別動隊として東山道の西進を開始しました。
東山道上に位置する上田では家康から離反した昌幸が籠城の構えを取っていたので、小諸は秀忠によって上田攻めの拠点に定められました。
信濃に入った秀忠軍を盛長は単騎で出迎え、小諸城に案内しました。
秀忠の下に昌幸からの除名嘆願が届くと、秀忠はこの嘆願を受諾しましたが、そうすると今度は突然態度を変えて挑発し始めてきました。
怒った秀忠は、盛長やその三男・久政らを従えて上田に向けて出撃しました。
真田軍を城からおびき出すために城下で苅田を始めたところ、真田の軍勢数百が討って出てきたので、後方に潜んでいた本多忠政隊が迎撃を行いました。
真田の軍勢が上田城目指して逃走を始めると、本多隊は追撃を開始し、加勢に来た他の隊も加わって追撃隊は大軍に膨れ上がりました。
しかし、上田城の大手門に迫ったところで突然城門が開き、中から現れた鉄砲隊による一斉射撃が始まりました。
大混乱に陥ったところでさらに城内の守備隊による総攻撃が始まり、追撃隊は壊滅状態となりました。
時を同じくして、昌幸の子・信繁の隊が秀忠本陣に奇襲を仕掛けてきました。
不意を突かれた秀忠軍は神川を渡って逃げようとしましたが、渡河中に突然発生した激流に大量の人馬が飲み込まれていきました。
命からがら小諸城まで逃れて来た秀忠の下に、やがて家康からの転戦を命じる使者が到着しました。
盛長は自らを真田への人質とし、家康本陣に向かうよう秀忠に進言しました。
秀忠は人質の申出は却下しますが、上田城攻略は中止としました。
上田城を迂回して進軍を再開した秀忠ですが、道中悪天候で川が氾濫し、しかも関ヶ原での本戦が半日で徳川方の圧勝に終わったため、結局、秀忠は参戦することができませんでした。
この遅参によって秀忠は家康の逆鱗に触れることとなってしまいましたが、盛長は両者の間に立って取成しに努めました。

改築
戦後、盛長は石田方に付いた秀範を勘当しました。
盛長自身は秀忠の補佐としての貢献が大きかったので、本領は安堵となりました。
上田では昌幸・信繁父子が紀伊国(今の和歌山県)九度山に配流となり、徳川方に付いた昌幸の嫡男・信之が領地を継ぐことになりました。
その後盛長は、名前を旧名の秀久に戻しました。
征夷大将軍に就任して天下人となった家康は、間もなくその職を秀忠に譲って「大御所」となりました。
新将軍からの信任の厚い秀久は、さらなる厚遇を受けることとなりました。
久政も秀忠から偏諱を賜り、「忠政」と改名しました。
やがて、小諸城には天守や大手門などが築かれ、近世城郭として完成されました。
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城下町や街道も整備されましたが、これらの事業には農民への賦役も多く、佐久郡では一郡離散という事態も起きてしまいました。
秀久は政策を修正し、年貢減免などの農村復興策に取り組み始めました。
秀久の死後、家督を継いだ忠政は父の政策を引き継ぎ、領内制度の改革を実施しました。

大坂冬の陣
慶長19年の冬、徳川家との関係が悪化した豊臣家が牢人を集め始めると九度山の信繁が大坂城に入り、牢人になっていた秀範も同じく入城していきました。
豊臣家を討伐することを決めた家康は諸大名に参戦命令を出し、忠政も出陣しました。
家康が京都に着いた頃に秀忠は江戸を出発しますが、関ヶ原の失敗を繰り返さないように強行軍を実行したことで兵を疲弊させてしまい、父から叱られてしまいました。
徳川方は大坂城を包囲すると、忠政は大坂城西方面の黒門口に布陣しました。
南方面で交戦の後に休戦が成ると、家康は講和条件に従って外堀の埋め立てを開始しますが、そのまま内堀の一部も埋め立ててしまいました。

大坂夏の陣
翌年の夏、豊臣家と決着をつけるために裸城となった大坂城に進軍した家康は、諸大名とともに城の南方面に布陣しました。
家康は天王寺口、秀忠は岡山口にそれぞれ着陣し、忠政は榊原康勝を大将とする天王寺口の二番手に着きました。
戦いの火蓋が切られると、前方から怒濤の勢いで突進して来た毛利一斎(勝永)隊によって先鋒が壊滅しました。
二番手の出番が来ると忠政は11もの首級を挙げる活躍を見せますが、毛利隊の勢いを止めることはできませんでした。
さらに三番手までもが撃破されると、無防備状態となった家康本陣に今度は信繁率いる赤備えの軍勢が突撃してきました。
信繁隊の本陣突撃は三度に及び、徳川の旗印が倒される事態となりました。
岡山口でも、秀忠本陣が大野治房の軍勢に崩され、大混乱に陥りました。
しかし兵力に勝る徳川方が徐々に盛り返し、やがて大坂城は落城して秀頼も自害し、豊臣家は滅亡しました。
秀範は戦の最中に行方不明となっており、息子・長太郎は戦後捕らえられて斬首の上晒し首となりました。
他に徳という娘がいましたが、これは忠政が引き取ることにしました。

天守焼失
大坂の陣での戦功により忠政は上田に加増移封されることとなりました。
上田の信之は、玉突き式に近隣の松代に転封されることになりました。
その後、小諸城には徳川一門や譜代大名が代わる代わる入りますが、この間に、天守は落雷によって焼け落ちてしまいました。
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その後、牧野康重が入府すると、ようやく統治が安定するようになりました。

小諸なる古城のほとり
明治になると廃城になりますが、明治13年に城跡が「懐古園」として整備されると、旧藩士たちによって本丸跡に懐古神社が建立されました。
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明治26年には、懐古園の隣に木村熊二が私塾「小諸義塾」を開校しました。
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この小諸義塾には一時期、文学者の島崎藤村が国語・英語教師として赴任していました。
現在は、小諸市営小諸城址懐古園として一般公開されています。

100名城制覇まで残り43城

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70番 岡山城(岡山県) [日本100名城めぐり]

南北朝時代、名和氏の一族・上神高直が備前国の石山台に城を築きました。
戦国時代には金光氏が居城としていましたが、急速に勢力を伸ばしてきた宇喜多直家に金光宗高が謀殺され、城を奪われてしまいます。
直家はさらに勢力を伸ばすとともに、城下町の整備などを行いました。

桃山時代になると、直家の子・秀家は城を近世城郭に改修し、石山の隣の岡山という山を本丸、石山城を二の丸としました。
以後、この城は岡山城と呼ばれるようになります。
この頃に、天守も完成しました。

秀家は豊臣秀吉に五大老の一人として重く用いられていましたが、秀吉の死後・同じく五大老の徳川家康が野心を見せ始めると、五奉行の一人・石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発し、秀家は三成率いる西軍の主力として参戦します。
合戦開始時の布陣だけを見ると、西軍が東軍を包囲する形になっており、圧倒的に西軍が有利な状態でしたが、実は東軍を率いる家康は裏で西軍諸将に内応するよう手をまわしており、合戦が始まると秀吉の甥・小早川秀秋の寝返りを発端に次々と西軍諸将が寝返り、最終的に東軍が勝利を収めました。
敗軍の将となった秀家は八丈島に流罪となりました。

代わって家康の命により岡山城に入ったのが、関ヶ原の戦いで「功」のあった秀秋でした。
秀秋も城の改修と城下町の拡充を行いましたが、やがて急死し、御家断絶となってしまいました。

その後、岡山城は姫路城主・池田輝政の次男・忠継に与えられ、池田氏の統治が始まります。
2代目の忠雄の代には、月見櫓をはじめとする櫓群が建造されました。
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4代目の綱政の代には、城の隣に後楽園が造営されました。
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明治時代になると城内の多くの建物は破却されました。
太平洋戦争の時には岡山空襲によって天守が焼失してしまいましたが、戦後の昭和41年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。
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この天守の入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り44城

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78番 丸亀城(香川県) [日本100名城めぐり]

室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が讃岐国の亀山に砦を築きました。

時は下って桃山時代、四国を平定した豊臣秀吉は讃岐国を生駒親正に与えました。
親正は本拠として高松城を築くとともに、その支城として亀山に丸亀城を築き、城代を置きました。
江戸時代に入って、3代目の正俊の代に、幕府により出された「元和の一国一条令」によって丸亀城は廃城となりますが、正俊は城の要所を木で隠して破却から守りました。
4代目の高俊の代に生駒氏はお家騒動で領地召し上げとなりました。
このとき幕府は、讃岐国を東西に分割し、高松を中心とする東側を松平頼重に、丸亀を中心とする西側を山崎家治に治めさせました。

家治は丸亀城を再興して改修に取り掛かりますが、3代目の治頼が夭逝したことで山崎家が断絶してしまい、代わって今度は京極高和が播磨国(今の兵庫県)龍野より移封されてきました。
高和は城の改修を引き継ぎ、天守や御所が完成しました。
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2代目の高豊の代には、大手門が完成しました。
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やがて改修は完了し、丸亀城は総石垣造りの見事な城になりました。

明治時代になり、多くの建物は破却されましたが、天守や大手門などは残りました。
天守の入口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り45城

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77番 高松城(香川県) [日本100名城めぐり]

桃山時代、四国を平定した豊臣秀吉から讃岐国を与えられた生駒親正によって、野原庄と呼ばれた港町に高松城は築かれました。
江戸時代に入っても生駒氏の統治は続きましたが、4代目の高俊が暗愚な人物で、それにより「生駒騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発し、幕府によって領地を召し上げられてしまいました。

その後、水戸藩初代藩主・徳川頼房の子・松平頼重が高松城に入城しました。
ここから松平氏による統治の時代が始まり、天守や、披雲閣という御殿も築かれました。
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二代目の頼常の代には、藩主が船で城に出入りするための、水手御門や月見櫓が築かれました。
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明治時代に入ると、老朽化により天守や披雲閣は破却されましたが、大正6年に十二代当主賴寿によって披雲閣が再建されました。
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太平洋戦争の時には空襲を受け、門が焼失するなどの被害も出ましたが、戦後、国の史跡に認定され、高松市立玉藻公園として一般公開されるようになりました。
公園の入場門に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り46城

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16番 箕輪城(群馬県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、在原業平の子孫と言われる長野業尚によって、箕輪城が築かれました。
地形が「み」の形をしていたから「箕輪」と名付けられたと言われています。
長野氏は関東管領上杉氏の重臣でしたが、上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に敗れ越後国(今の新潟県)に亡命してからは、長野氏の領地は常に後北条氏や武田氏に狙われることになりました。
業尚の孫の業正の代には、武田信玄による侵攻が何度もあり、そのたびに撃退していたのですが、業正が没してその子・業盛が若くして家督を継ぐと、信玄は箕輪城の周辺の城を次々と調略していきました。
そして、孤立した箕輪城に総攻撃がかけられ、ついに長野氏は滅亡し、箕輪城は武田氏の支配下に入りました。

箕輪城では武田氏の重臣が入れ代わり立ち代わり城代を務めますが、信玄が死去してその子・勝頼が家督を継いだ頃、織田信長・徳川家康連合軍と戦った長篠の戦いで城代・内藤昌豊が討ち死にします。
その後、城代の座は昌豊の子・昌月が継ぎますが、やがて天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、北条氏邦が侵攻してきて箕輪城を接収します。
しかしすぐに、信長の家臣・滝川一益の侵攻を受けて氏邦は撤退します。
ところが今度は信長が本能寺の変で横死したので、再び氏邦が甥の氏直を伴って侵攻し、神流川の戦いで一益を破って箕輪城に再入城しました。
このときに、かつての武田氏の城代・昌月も従っています。

やがて西の方では、信長の遺志を継いだ豊臣秀吉が天下統一事業を進め、残るは後北条氏のみという状況になりました。
このときに危機感を覚えた氏邦は城の改修にとりかかり、巨大な堀切がいくつも作られました。
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しかし、秀吉は空前絶後の大軍を送り、前田利家・上杉景勝連合軍により箕輪城は落城しました。
その後、秀吉によって家康が関東移封となり、箕輪城は家康の家臣の井伊直政に与えられました。
直政は石垣を築くなど、城を近世城郭に作り替えました。
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しかし、直政が近隣の高崎城に移封となると、箕輪城は廃城となりました。

やがて江戸時代になると、かつての長野氏の重臣・下田氏が城下に屋敷を構え、代官を務めるようになります。
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そして現在、その下田氏の屋敷跡に高崎市箕郷支所が置かれています。
この箕郷支所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り47城

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17番 金山城(群馬県) [日本100名城めぐり]

上野国にある金山の頂上には豊富に水が湧き出る池があり、平安時代から祭祀の場となっていました。
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やがて、この金山の周辺一帯が新田庄として成立すると、この地には源氏の一氏族である新田氏が入りました。
鎌倉時代の間、新田氏は鎌倉幕府の御家人として従っていましたが、義貞の代に後醍醐天皇の討幕の動きに乗り、鎌倉を攻め落としました。
しかしその後、造反して北朝を立てて室町幕府を開いた足利尊氏に敗れ、義貞は戦死します。

室町時代、応仁の乱が始まった頃、新田氏の後裔・岩松家純は分裂していた一族を統一し、新田庄を領有した上で、重臣の横瀬国繁に命じて金山に城を築かせました。
しかし戦国時代になると、国繁の4代後の成繁が下剋上を起こし、金山城を乗っ取りました。
その後、成繁は横瀬氏から由良氏へと改姓しました。
成繁の時代に、上杉謙信、武田勝頼、佐竹義重など周辺の大名に次々と攻め込まれましたが、ことごとく撃退してきました。
成繁の死後、金山城は後北条氏に攻め込まれました。
このとき、成繁の妻・妙印尼は71歳にして籠城戦を指揮しましたが、小田原城に軟禁されていた息子・国繁の助命を条件に後北条氏に下ることとなり、金山城は後北条氏のものとなりました。
しかし、桃山時代になると西の方で台頭してきた豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに大軍を率いて小田原城を攻め落としたことによって、後北条氏は滅亡し、金山城も廃城となりました。

秀吉の死後徳川家康が天下を取って江戸時代が始まると、新田氏の後裔を自称する徳川氏にとってこの地は重要なものとなり、金山は御用林となりました。
江戸幕府を倒した明治政府もまた、天皇を中心とした国づくりを進める上で、かつて後醍醐天皇に付き従って非業の死を遂げた義貞を称え、明治8年に金山城の本丸跡に新田神社が建立されました。
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昭和9年には国の史跡として公園となり、平成6年からは、かつての金山城を蘇らせるために、石垣等の復元工事が開始されました。
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南曲輪の休憩所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り48城

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15番 足利氏館(栃木県) [日本100名城めぐり]

平安時代の末期、源義国は父・義家から相続した下野国の開発地を安寿楽院に寄進し、足利庄が成立しました。
息子の義康は父・義国から相続した足利庄に居館を構え、足利姓を名乗るようになります。
この時代の地方武士の館らしく、館の周りは堀と土塁で囲まれていました。
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やがて源頼朝が鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まると、義康の息子・義兼は館内に持仏堂を建立しました。
また、自身も出家して鑁阿(ばんな)という僧名を持ちました。
足利氏館の隣には日本初の大学と言われる足利学校があり、これは義兼が設立したとも中興したとも言われています。
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義兼の息子・義氏は居館を引き払って代わりに伽藍を整備し、足利氏一門の氏寺「鑁阿寺」として整備していきました。
やがて本堂が火事で焼失しましたが、義氏から4代後の貞氏の代に本堂が再建されました。
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貞氏の息子・尊氏は室町幕府を開いたので、足利氏の拠点は京に移っていきましたが、鑁阿寺は足利氏一門の菩提を弔う寺として存続し続けました。

本堂および山門横の休憩所に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り49城

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92番 熊本城(熊本県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が茶臼山丘陵に千葉城を築きました。
出田氏の力が衰えると、菊池氏は代わりに鹿子木親員に隈本城を築かせて入れました。
親員の孫・鎮有の代に菊池義武が隈本城に迎え入れられますが、やがて大友義鎮に追われ、その後は義鎮の協力者の城親冬が入城しました。

やがて、安土桃山時代に豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、親冬の孫・久基は城を明け渡し、代わりに織田信長の旧家臣で秀吉の家臣になっていた佐々成政が入城します。
しかし成政は秀吉の意に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こします。
この一揆では隈本城も攻撃されましたが、何とか鎮圧されました。
しかし、一揆の責任を取らされ、成政は切腹となりました。

次に城に入ったのは同じく秀吉の家臣・加藤清正でした。
清正は、桃山時代の終わりから江戸時代の初期にかけて、千葉城、隈本城のあったところに新たに城を築きなおし、「隈本」を「熊本」と改めました。
朝鮮出兵の時に苦しんだ経験を生かし、随所に防衛の工夫が盛り込まれた堅城でした。
この時に天守も築かれ、また、他の城であれば天守とされていてもおかしくないぐらいの巨大櫓「宇土櫓」も築かれました。
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清正は熊本城や熊本の町の基礎を作り、領民からは清正公(せいしょこ)さんと呼ばれて慕われていました。
しかし、清正の息子の忠広の代に加藤家は改易され、代わりに細川忠利が入城しました。
忠利は、剣豪・宮本武蔵を客分として迎え入れ、旧千葉城に屋敷を与えました。

細川氏も城の改築を積極的に行いました。
細川氏ゆかりの細川刑部邸も残っています。
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やがて江戸時代も終わり、時代は明治を迎えます。
西郷隆盛ら西国の武士たちによってなされた明治維新ですが、近代化とともに武士は必要なくなり、武士は士族と呼ばれるようになって、熊本城には鎮西鎮台が置かれました。
次々と特権を廃止していく明治政府に対し、士族の不満は日に日に募るばかりでした。
そしてついに肥後藩の士族が反乱を起こしました。
神風連の乱です。
反乱軍は熊本城を攻撃しますが、児玉源太郎らが率いる政府軍に鎮圧されました。
しかしこの乱が火種となり、萩の乱、秋月の乱、そしてついに鹿児島に下野していた西郷が立ち上がり、西南戦争が勃発しました。
西郷軍は鹿児島から北上すると、熊本城の攻略を目指しました。
対する鎮西鎮台には谷干城が司令官として任じられました。
西郷軍が熊本城に総攻撃をかけようとする二日前、突如城内で出火し、天守が焼け落ちてしまいました。
出火の原因には諸説ありますが、司令官の谷が背水の陣を敷くため参謀の児玉に命じて焼かせたとも言われています。
そしていよいよ西郷軍の総攻撃が始まりますが、西郷軍は近代装備を備えているにもかかわらず、江戸時代初期に築かれた熊本城の鉄壁の防御の前に一兵たりとも侵入することができず、ついには敗走を始めます。
この時西郷は、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったと伝えられています。
やがて西郷軍は故郷鹿児島で鎮圧されてしまいました。

昭和時代、熊本はアメリカ軍の空襲を受けますが、熊本城は奇跡的に焼失を免れました。
そして昭和35年、築城350年を記念して天守等の建物が復元され、熊本城は観光地として再スタートを切りました。
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城内に入る四か所の門に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り50城


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91番 島原城(長崎県) [日本100名城めぐり]

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、肥前日野江藩はキリシタン大名の有馬氏が統治していました。
したがって、領民の間でもキリスト教が広まっており、キリシタン墓碑なども出土しています。
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しかし、2代目の直純の時代に江戸幕府からキリシタン禁止令が出されると、直純は改宗し、キリシタン弾圧側に回ります。
やがて、良心の呵責にさいなまれた直純は幕府に転封を願い出、日向延岡藩(今の宮崎県)に移りました。
代わって日野江藩にやってきたのが松倉重政でした。
重政はキリシタンの弾圧を継続するとともに、自らの居城となる島原城の築城に着手します。
松倉氏の所領はたったの4万石でしたが、石高に見合わない総石垣づくりの立派な城を築いたので、その負担が領民へと跳ね返ってきました。
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重政は過酷な年貢を課し、納められない農民やキリシタンを容赦なく虐殺していきました。
さらに2代目の勝家は重政に輪をかけて残虐な弾圧を行いました。
そしてついに怒りの頂点に達した領民たちは、天草四郎を総大将とし一揆を起こしました。
島原の乱です。
最初の頃は島原城下での戦闘も起こりましたが、やがて一揆軍は原城に追い詰められ、幕府軍に鎮圧されてしまいました。
乱後、勝家は一揆を引き起こした張本人として斬首され、松倉家は改易となりました。
その後島原の地は、譜代大名が入れ替わりで治めることになります。

明治時代になると天守も含めて城内の建造物は破却されました。
しかし昭和35年以降、櫓や天守が次々と再建されていき、城跡公園となりました。
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天守の受付窓口に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り51城
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18番 鉢形城(埼玉県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、関東地方は関東管領・上杉氏の勢力下にありました。
上杉氏はいくつかの氏族にわかれていましたが、その一つである山内上杉氏の顕定は室町幕府に対して反乱を起こした古河公方・足利成氏と戦っていました。
山内上杉氏では、家宰として長尾景信が実権をふるっていましたが、この景信が没した後、嫡男の景春は後継者として認められませんでした。
これを恨みに思った景春は鉢形に城を築き、上杉氏に対して反乱を起こしました。
この時築かれたのが鉢形城です。

この反乱は、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の定正の家臣であり、景春の従兄弟でもある太田道灌によって鎮圧され、景春は秩父へ落ち延び、顕定が鉢形城に入城しました。
ところが、道灌は主君である定正に暗殺されてしまいました。
その後景春は定正の下に付き、あくまで顕定を討つことを目指します。
しかしその顕定も、越後国(今の新潟県)で反乱を起こした従兄弟の定実と長尾為景を討とうと出陣しますが、敗死してしまいます。
その後も上杉氏は同族争いや跡目争いを繰り広げますが、顕定から4代後、憲政が関東管領職に就き、鉢形城に入城しました。
ところが、この頃から関東では後北条氏が台頭しだし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の連合軍が北条氏康に河越夜戦で大敗を喫し、憲政はかつて顕定を討った為景の息子、景虎を頼って越後に逃れます。
景虎は憲政の養子となり、後に上杉謙信となります。

空いた鉢形城には、氏康の息子の氏邦が入りました。
氏邦の時代に御殿なども造営され、現在は御殿曲輪などが残っています。
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鉢形城は戦略上の要衝であったため、小田原を攻めた武田信玄や、謙信の攻撃も受けました。
信玄も謙信も後北条氏を討つには至りませんでしたが、やがて西の方では豊臣秀吉が天下統一を成そうと勢力を伸ばしてきました。
秀吉は天下統一の総仕上げに後北条氏を討つことを決め、鉢形城も前田利家や謙信の息子・景勝らの軍勢に攻め込まれ、開城に追い込まれてしまいました。
そしてその役目を終えた鉢形城は、廃城になってしまいました。
付近の住民たちは、廃城になった鉢形城を忍び、かつて馬出のあったところに諏訪神社を建立しました。
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そして現代、学術的価値の高さから、鉢形城の発掘・整備・復元が進められています。
平成16年には四脚門などが復元整備され、鉢形城公園としてオープンしました。
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城域内には鉢形城歴史館も建てられており、ここに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り52城

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14番 水戸城(茨城県) [日本100名城めぐり]

馬場城
鎌倉時代の初期、常陸平氏の嫡流である常陸国大掾(だいじょう)・吉田資幹は、那珂川と千波湖に挟まれた地に「馬場城」を築きました。
資幹の子孫は、大掾職を世襲するようになって「大掾氏」と呼ばれるようになりました。
執権北条氏の滅亡後、帝(後醍醐天皇)が足利尊氏に京都を追われたことで京都の北朝と吉野の南朝が並立するようになると、大掾家当主・高幹は南朝方に付きますが、常陸源氏の嫡流・佐竹義篤に敗北して北朝方にくだりました。
義篤はさらに南朝方の那珂氏を攻め、一族全滅から生き残った通泰は北朝方にくだりました。
尊氏が征夷大将軍に就任すると、尊氏から戦功を認められた義篤が常陸守護に任ぜられ、大掾と那珂はその傘下に入ることとなりました。
その後、義篤は、初代鎌倉公方に就任した尊氏の4男・基氏に仕えることとなりました。
通泰の子・通高の代に、那珂は「江戸」と改姓しました。
大掾も江戸も名目上は佐竹の家臣でしたが、事実上の独立勢力として振舞って着々と力を付けていきました。
4代鎌倉公方・持氏の代に、持氏と対立した上杉禅秀が関東管領職を辞して反乱を起こすと、大掾家当主・満幹は禅秀方に付きますが、鎌倉公方方に付いた江戸家当主・通房に敗れ、馬場城は通房のものとなりました。

鬼義重
戦国の世になると、関東地方は小田原を本拠とする北条氏が支配するようになりました。
豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると、江戸家当主・重通は北条方に付きました。
北条、伊達の2大勢力に圧迫されていた佐竹家の当主・義宣とその父・義重は、これを好機と見て北条方の諸城を落としながら小田原に進軍し、秀吉に臣下の礼を取りました。
北条が敗北すると、秀吉の命で江戸の所領は没収となり、馬場城も義重に攻め落とされました。
義宣は馬場城を佐竹の新たな本拠と定め、大改修を行いました。
格調の高い薬医門が構えられ、城名は「水戸城」と改められました。
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困ったほどの律義者
義宣の従弟・宇都宮国綱が秀吉から改易されるという事件が起こると、佐竹家も連座することになりかけますが、石田三成の取成しによって事なきを得ました。
秀吉の死後に三成と徳川家康との間で対立が激化すると、義宣は恩義のある三成に味方しようとしますが、時流を読むことに長けていた義重からは猛反対されて徳川方に付くことを促されます。
意見が割れてどっち付かずの態度を取っている間に関ヶ原で決着がついてしまい、勝利を収めた家康によって佐竹は水戸から追放され、出羽国(今の秋田県)に転封となってしまいました。

生瀬騒動
家康は空いた水戸城に5男・松平信吉を入城させますが、信吉が嫡子なく没してしまったため、その弟・長福丸が水戸の領主となりました。
長福丸は幼少であったため江戸に居住し、現場の実務は家臣の蘆沢信重と伊奈忠次が担当しました。
ある秋の日、領内の生瀬村から役人の死体が城下に送り届けられるという事件が起こりました。
話を聞くと、役人が生瀬村に年貢の取立てに来たので百姓たちは素直に納めたのですが、しばらくしてまた別の役人が取立てに来たので、百姓たちはこの役人を偽物と判断して殺害したとのことでした。
ところが、調べてみると実は最初の役人の方が偽物で、百姓たちが殺害したのは本物の役人でした。
領内にはまだ旧領主の佐竹を慕うものも多く、これを穏便に済ませば今後の領地経営に影響すると考えた信重は生瀬村に出兵し、村民を皆殺しにしました。
この事件は公式記録には残されませんでした。

水戸徳川家
元服して「頼宣」と名乗るようになった長福丸は駿府へ転封となり、代わりにその弟・鶴千代丸が入城することになりました。
鶴千代丸も最初は江戸に居住していましたが、元服して「頼房」と名乗るようになってから水戸に入府しました。
頼房は城と城下町の拡充に取り組みますが、頼房の家は財政状況が非常に厳しかったため、佐竹時代の遺構や自然の地形を可能な限り活用することとなりました。
天守を築く余裕もなかったので、代わりに三階櫓を建造しました。
その後、頼房の家は「水戸徳川家」となり、尾張徳川家や頼宣の家である紀州徳川家とともに、徳川宗家の血が途絶えたときに将軍を出す「徳川御三家」の一つとなりました。

天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門
頼房の嫡男・光国は素行不良の青年でしたが、ある時、司馬遷の「史記」伯夷伝を読んで感銘を受けて史学に目覚め、日本史の編纂を始めました。
頼房が死去すると、家督を継いだ光国は編纂作業を中断して政務に専念するようになりました。
水戸の城下は飲料水に不自由していたため光国は地下水道を整備し、この業績によって光国は領民から慕われるようになりました。
政務が落ち着いてくると、光国はかつて取り組んでいた日本史編纂作業を、御家を挙げての一大事業として再開することにし、編纂のための調査として儒学者を諸国に派遣しました。
彼らが編纂する日本史は天皇に対する忠臣・逆臣をはっきりさせるものであったため、水戸では尊王思想が芽生えるようになり、「水戸学」という学問が形成されました。
光国はさらに学校の設立も計画し、清に滅ぼされた明の遺臣で、長崎に亡命していた朱舜水を招聘しました。
学校設立は財政の事情で果たせませんでしたが、実学派儒学者である舜水の思想は水戸学に大きな影響を与えました。
「光圀」と改名した後は、快風丸という巨船を建造し、三度にわたって蝦夷地(今の北海道)を探検させました。
甥の綱條に家督を譲って隠居した後も、光圀は文化事業を推し進めました。
やがて光圀は高齢で死去しますが、その後も日本史編纂事業は継続されました。

天狗党
11代将軍・家斉の治世、綱條の5代後の当主・斉脩が重病に服すると、斉脩に子がいなかったことから跡継ぎ問題が発生しました。
斉脩には紀教という異母弟がいましたが、水戸の門閥層の大多数は、紀教は跡継ぎとして不適当であるとして、家斉の子でもある、斉脩正室・峰姫の弟・清水恒之丞を次期当主に迎えようとしました。
これに対して、紀教が少年時代に教えを受けた水戸学藤田派の学者・会沢正志斎や藤田家当主・東湖らは、血統の近い紀教を跡継ぎとして立てるべきと主張し、徒党を組んで江戸へ越訴しました。
斉脩の死後に「紀教を跡継ぎにする」という遺書が発見されたため、紀教が家督を継ぎ、家斉より偏諱を賜って「斉昭」と改名しました。
斉昭は、自らの擁立に関わった東湖、会沢、戸田忠敞、武田耕雲斎ら同志を登用し、彼らを改革の担い手としました。
斉昭に登用された一派は、反対派から「鼻を高くして偉ぶっている」ということで「天狗党」と呼ばれるようになりますが、斉昭は「水戸では、義気があって国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言う」と主張し、「天狗党」は自他共に認める呼称となりました。

烈公
斉昭は、宮家から降嫁された吉子女王により、嫡男・鶴千代麿や3男・七郎麻呂など、3男1女に恵まれました。
その後、斉昭は、崇敬する光圀の悲願であった学校を三ノ丸に設立し、「弘道館」と名付けました。
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水戸学信奉者の斉昭は尊王思想がとても強く、また、この頃には蝦夷地にてロシア船が出没するなどの外患が相次いでいました。
そこで斉昭は、弘道館の教育理念に「尊王攘夷」を掲げました。
次いで、家臣や領民とともに皆で楽しめる公園として、偕楽園を開きました。
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その後、斉昭は大規模な軍事訓練や廃仏運動を実施しますが、これが幕府に疎まれることとなり、強制的に家督を鶴千代麿に譲らされ、謹慎の身となってしまいました。
鶴千代麿は元服し、12代将軍・家慶の偏諱を賜って「慶篤」と名乗りました。
その後、天狗党による復権運動などもあって、斉昭の謹慎は解除されました。
御三卿の一角の一橋徳川家の当主・昌丸が嫡子なく死去すると、家慶のたっての希望により、七郎麻呂が一橋徳川家に入りました。
七郎麻呂は一橋徳川家の家督を継いだ後で元服し、家慶の偏諱を賜って「慶喜」と名乗りました。

将軍継嗣問題
マシュー・ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航して幕府に開国を迫ると、尊王攘夷派と開国派による国を二分する対立が発生しました。
斉昭は断固として開国に反対しますが、この騒動の中で家慶が死去しました。
幕府は日米和親条約を締結して開国に踏み切りますが、家慶の跡を継いで13代将軍となった家定は病弱で子を成せる見込みもなかったため、その継嗣を慶喜にする(一橋派)か、紀州徳川家当主・慶福にする(南紀派)かを巡った対立も発生しました。
アメリカが修好通商条約の締結を強く求めてくるようになると、安政5年、南紀派によって彦根藩主・井伊直弼が大老に擁立され、その後すぐに日米修好通商条約が締結されました。
この条約締結が無勅許で行われたことに憤った斉昭は、慶篤、慶喜、尾張藩主・徳川慶恕、福井藩主・松平春嶽を巻き込んで、直弼を詰問しに行きますが、逆に処分が下され、斉昭と慶喜は謹慎、慶篤は登城停止となりました。

戊午の密勅
家定が死去し、慶福改め家茂が14代将軍に就任すると、直弼はさらに権力を自分に集中させていきました。
程なくして、時の天皇(孝明天皇)からの「攘夷推進のための幕政改革を実行せよ」という内容の密勅が、水戸徳川家に下賜されました。
これを知った直弼は、水戸徳川家に対して勅書の返納を求めてきました。
水戸では、天狗党の中でも、勅書を返納した方がよいという会沢らの「鎮派」と、勅書の内容どおり諸藩に廻達すべしという高橋(多一郎)愛諸、金子(孫二郎)教孝らの「激派」に割れ、対立が起こりました。
やがて、直弼の介入によって激派の中心人物が粛清され、斉昭も永蟄居となりました。
その後、幕府は事態収束を朝廷に働きかけ、公武合体の道を模索し始めるとともに、水戸徳川家に対しては勅書を幕府に返納することを命じてきました。
水戸では返納論が主流となっていましたが、激派は水戸街道を閉鎖して返納を実力で阻止するために長岡宿に屯集しました。
そして、高橋、金子ら激派主要人物は「直弼排除」の計画を開始し、江戸に潜入していきました。

桜田義挙
安政7年3月1日、金子は日本橋西河岸の山崎屋に水戸藩の同志と薩摩浪士・有村(雄助)兼武を集め、2日後の早朝、雛祭りの祝賀のために登城する直弼を外桜田門の前で襲撃するという作戦を決定しました。
決行前夜、品川宿の相模屋にて訣別の酒宴が催され、そこで彼らは藩に塁が及ばないように除籍願を届け出ました。
決行当日は、明け方から季節外れの雪模様でした。
関(鉄之介)遠以下17名の水戸浪士と1名の薩摩浪士は愛宕神社に集結した後に現地に入り、外桜田門前の大名行列見物の町人に紛れて彦根藩の到着を待ちました。
尾張藩の行列が通過していった後に彦根藩上屋敷の門が開き、中から駕籠を担いだ行列が出てきました。
護衛の供侍の数はおおよそ60で、折からの雪のため雨合羽を羽織り、刀の柄や鞘にも袋をかけていました。
行列が外桜田門の前に差し掛かると、森(五六郎)直長は直訴状を掲げて供頭に走り寄りました。
取り押さえようとした彦根藩士に森が斬り掛かり、護衛の注意が引き付けられたところで黒澤(忠三郎)勝算が駕籠めがけてピストルを発砲しました。
弾丸は駕籠に命中し、町人に紛れていた同志たちは一斉に抜刀して襲撃を開始しました。
不意を突かれた上に刀に袋をかけていた彦根藩士たちは動揺し、逃げ出していく者が続出しました。
激しい乱戦の後、同志たちは直弼の駕籠に一斉に刀を突き立てました。
そして有村が虫の息の直弼を引きずり出し、その場で首を斬り落としました。

けいきさん
事件後、襲撃に関わった者はほとんどが自刃、もしくは捕縛後に斬首されました。
この混乱で勅書の返納問題はうやむやになり、そのうちに斉昭が病没しました。
直弼が殺害されたことで尊王攘夷運動は全国的な盛り上がりを見せるようになり、水戸では激派が復権して耕雲斎が執政となりました。
朝廷でも長州と結び付いた尊王攘夷派が実権を握り、幕府に対して強硬な攘夷実行を要求するようになりました。
そのような情勢の中で慶喜は「将軍後見職」に就任し、家茂が朝廷から上洛を求められると、先に上洛することになりました。
一橋徳川家は家臣が少ないので水戸徳川家が付き従うことになり、慶篤は耕雲斎や東湖の子・信(小四郎)らを帯同して上洛しました。
後から上洛した家茂が天皇に対して横浜鎖港等の攘夷決行を表明する一方、信らは京都で長州藩の桂(小五郎)孝允や久坂玄瑞らと交流を持ち、尊王攘夷の志をさらに強固なものとしました。
文久3年、家茂や慶喜が江戸に戻った後の8月18日、朝廷で政変が起こり、尊王攘夷派が失脚しました。
長州でも保守派が実権を握ったので、各地の尊王攘夷派浪士は水戸に集まってきました。
家茂が再上洛すると天皇は横浜鎖港を実行に移すよう要求しますが、有力諸侯の多くは鎖港に反対しました。
鎖港推進派の慶喜は将軍後見職を辞し、代わりに朝廷から「禁裏御守衛総督」に任ぜられました。

天狗党の乱
鎖港がなかなか実現しないことに痺れを切らした信は、幕府に圧力をかけるため、62人の同志たちとともに筑波山で挙兵に及びました。
この「筑波勢」の下には各地の浪士や農民らが続々と集結し、その数はどんどん膨れ上がっていきました。
耕雲斎は、当初は甥である信に過激な行動を諌めていましたが、次第に筑波勢の圧力を背景にして幕政に介入するという方針に転じていきました。
水戸では、保守派の市川(三左衛門)弘美が弘道館の諸生(書生)を集め、鎮派の一部とも手を結んで「諸生党」を結成し、激派の排撃を開始しました。
筑波勢の数は700人にも達し、軍資金が不足することとなったので近隣の役人・富農・商人から資金の徴発を行いますが、これを断った宿場町に対して別働隊が虐殺行為を行ったことにより、筑波勢は暴徒として認識されることとなってしまいました。
慶篤の下には幕府からの筑波勢鎮撫要請が届きましたが、激派が実権を掌握していたこともあって、慶篤は「あくまで横浜鎖港が先である」とこれを断りました。
家茂が江戸に帰着すると再度の要請が届き、これに呼応する形で市川ら諸生党600人が慶篤のいる江戸屋敷に急行しました。
結果、武田ら激派は追放となり、代わって諸生党員が重役を占めることになりました。
追放された激派は鎮派と手を組み、下総国(今の千葉県)小金で尊王攘夷派士民を大量に動員しました。
彼らが圧力をかけてきたので、慶篤は諸生党を追放し、天狗党が再び江戸屋敷を掌握しました。
その後、筑波勢の挙兵に呼応した久坂ら長州の尊王攘夷派が武装して上洛し、警護に当たっていた会津・薩摩と交戦に及んで御所に発砲した末に敗走するという非常事態が起こると、鎖港問題は朝廷の中で棚上げとなってしまい、筑波勢は大義名分を失うこととなってしまいました。
この一件により、慶喜も禁裏御守衛総督という立場から、尊王攘夷派に対する融和的な態度を放棄しました。
幕府が追討令を出すと、諸生党を含む常陸国・下野国(今の栃木県)の諸藩が出兵し、幕府陸軍も加わりました。
追討軍が下妻近くの多宝院で筑波勢からの夜襲を受けると、水戸に逃げ帰った諸生党員は筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に火を放ち、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行いました。
市川らが水戸の実権を掌握して藩政を動かすようになると、筑波勢のうち信ら水戸出身者による本隊が城下に攻め寄せてきました。
諸生党が撃退すると、筑波勢は那珂湊近郊まで撤退していきました。

那珂湊の戦い
慶篤は本国の混乱を収めるため、支藩・宍戸藩主の松平頼徳を名代とし、天狗党員らを従わせて水戸に下向させました。
この「大発勢」には、諸生党に失脚させられた耕雲斎らや、小金に集結した尊王攘夷派士民も合流し、3000人に膨れ上がりました。
大発勢が水戸城下に入ると、その中に尊王攘夷派が多数含まれていることを知った市川らは、戦備を整えて一行の入城を拒否しました。
頼徳と市川が交渉を行っている間に水戸郊外で交戦が始まり、頼徳は大発勢とともに那珂湊に撤退していきました。
大発勢は筑波勢の加勢を得て再び進軍してきますが、諸生党は幕府追討軍とともに撃退し、那珂湊に追い込んで包囲しました。
幕府海軍による艦砲射撃の後、幕府軍と諸生党は助川海防城を攻略しました。
市川は頼徳を誘い出した上で切腹させ、これによって頼徳の家臣らが投降し、大発勢は壊滅しました。

討つもはた 討たれるもはた 哀れなり 同じ日本の 乱れとおもえば
那珂湊からの脱出に成功した1000人余りは大子村に集結しました。
彼ら天狗党の最後の望みの綱は、京都にいる慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷の志を伝えることでした。
天狗党は旧大発勢の中心人物の耕雲斎を首領、旧筑波勢の中心人物の田丸(稲之衛門)直允と信を副将とし、京都に向かって進軍を始めました。
通過地の藩兵と交戦することもありましたが、やがて一行は美濃国(現在の岐阜県)鵜沼宿に到達しました。
一方、京都の慶喜は天狗党を切り捨てることを決断し、加賀藩・会津藩・桑名藩の4000の兵を率いて出陣しました。
天狗党一行は越前国(今の福井県)新保宿に到達しますが、そこで追討軍に包囲され、しかもその中の一隊を慶喜が率いていることを知ったため、進軍を断念して投降しました。
耕雲斎、信ら幹部は斬首となり、他の構成員にも処刑・遠島・追放などの処分が下されました。
諸生党員は天狗党幹部の首を水戸に持ち帰って晒し、乱に加担した者の家族を次々に処刑していきました。
耕雲斎の孫・金次郎は、若年であることから処刑を免れ、小浜藩の預かりとなりました。
一部の天狗党残党は長州の支援を受けて京都に潜伏し、「本圀寺党」を結成しました。

大政奉還
長州征討の陣頭指揮を執っていた家茂が大坂城で死去すると、慶喜は長州藩との休戦協定を締結した後に将軍に就任しました。
金次郎らは、小浜藩から准藩士格の厚遇を受けるようになりました。
慶喜がフランスの支援を仰いで軍制改革を行う一方、長州とその同盟藩である薩摩はイギリスの支援下で着々と武力倒幕の準備を進めていました。
慶喜は武力倒幕の口実を奪うために機先を制して大政奉還を行いますが、薩摩・長州の働きかけによって朝廷から王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
慶喜は「朝敵」となってしまいましたが、宮家出身の母を持ち、水戸学を学んで育った慶喜はそれを良しとせず、一部の近習のみを連れて江戸に引き揚げ、上野寛永寺で謹慎を始めました。
江戸開城が決まると慶喜は水戸に帰り、弘道館で引き続き謹慎を続けました。

弘道館戦争
世の趨勢が変わったのを見た金次郎ら天狗党の生き残りは、本圀寺党と合流して「さいみ党」を結成し、朝廷から諸生党追討の勅諚を取り付けました。
この動きを察知した市川は諸生党員500人を率いて水戸を脱出しますが、水戸に帰還したさいみ党は報復を開始し、諸生党の残党や諸生党員の家族を次々に処刑・投獄し始めました。
水戸を脱出した諸生党員は「市川勢」として奥羽越列藩同盟の傘下に加わり、北越、会津と転戦を続けました。
その間、徳川宗家が駿府に移封になり、慶喜も一緒に駿府に移っていきました。
会津藩が降伏すると、一縷の望みをかけて水戸に攻め上ってきた市川勢により弘道館が占拠されますが、激しい銃撃戦の末にさいみ党が撃退しました。
その後、さいみ党は新政府軍とともに市川勢を追撃して壊滅させました。
市川は潜伏先の東京で捕縛され、身柄を引き渡された水戸藩は郊外の処刑場で逆さ磔の刑に処しました。

水戸空襲
新政府によって水戸城は廃城となり、その跡地には学校が建てられて文教区域となりました。
明治39年、慶篤の孫・圀順により、光圀の時代から編纂が始まった「大日本史」がついに完成しました。
その後、近隣の日立市で日立製作所が創業すると、やがてその辺り一帯は工業地帯となり、水戸市にも下請工場や労働者の住宅が多く建設されるようになりました。
太平洋戦争が勃発すると、昭和20年8月2日、日立市の軍需工場を狙った大空襲が行われ、下請工場がある水戸市街もほぼ全域が焼失し、水戸城でも三階櫓が焼失するなどの被害が出ました。

親善都市盟約
戦後、戦火を免れた薬医門が水戸第一高等学校に移築されました。
昭和43年には、直弼の曾孫・直愛が市長を務める彦根市との間で、和解の印としての親善都市盟約が結ばれました。

100名城制覇まで残り53城

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30番 高遠城(長野県) [日本100名城めぐり]

信濃国の諏訪地方は、飛鳥時代から諏訪大社の大祝(おおほうり)として諏訪氏が治めていました。
南北朝時代に諏訪氏から分かれた高遠氏は、諏訪より少し南を拠点とし、同じく諏訪氏一門の保科氏などを従えて、しばしば諏訪氏と対立してきました。
この高遠氏の居城が高遠城です。

戦国時代になると、諏訪氏の頼重と高遠氏の頼継が激しく対立していました。
一方隣国の甲斐国(今の山梨県)では、武田信虎と嫡男の晴信が対立していました。
晴信は信虎の追放に成功すると諏訪氏の攻略に取り掛かりますが、そこで晴信が目を付けたのがこの頼重と頼継の対立関係でした。
晴信は頼継を利用して諏訪氏を攻め落とすことに成功しました。
やがて頼継も晴信に討たれ、最終的に高遠城や保科氏等の高遠家の家臣団は武田氏のものになります。

さて、諏訪氏を滅ぼした晴信は頼重の娘を側室にし、勝頼が生まれます。
その後、晴信は家臣に命じて高遠城の大規模な改築を行います。
そして信濃国を平定した晴信は、家臣の秋山信友を高遠城主にし、自らは出家して信玄と名乗るようになりました。
やがて成長した勝頼が高遠城主になりますが、勝頼が信玄の後継的立場になると、今度は信玄の弟の信廉が高遠城主になります。
勢いに乗った信玄は上洛を果たそうと西に向かって進軍を始めましたが、その途上で急死してしまいました。
信玄の死後、信廉はかつて信玄が追放した父・信虎を高遠城に引き取り、やがて信虎もこの世を去りました。
信玄の跡を継いだ勝頼でしたが、この頃から織田信長や徳川家康の力が増大してきて、長篠の戦いで大敗を喫します。
勝頼は本拠を移動し、異母弟の仁科盛信を高遠城主にします。
しかし信長は本格的な甲州征伐を開始し、高遠城は陥落、盛信は討死、そして武田氏も滅亡します。

織田氏の支配下に入ると、高遠城は城攻めに功のあった毛利長秀が城主になりますが、そのわずか後に信長が本能寺で討取られます。
すると空白地帯となった旧武田氏領をめぐって家康、北条氏直、上杉景勝の間で天正壬午の乱が発生します。
ここで、保科氏の正直は氏直を後ろ盾として高遠城を奪還しました。
その後、家康の力の方が強くなってくると、正直は家康の方に付き、所領を安泰にします。
しかし、豊臣秀吉の時代が訪れ、後北条氏も滅亡すると、家康は関東に移封となり、正直もそれに従います。
そして高遠城には秀吉の家臣となっていた長秀改め秀頼が返り咲きました。
秀頼が病死すると妹婿の京極高知が跡を継ぎました。
秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いで高知は東軍に付き、その功績で丹後国(今の京都府)に転封となり、代わりに正直の子、正光が高遠城に入りました。

江戸時代には、2代将軍・秀忠の隠し子・幸松が正光の養子になりました。
これは、秀忠が正室・お江の方の怒りを恐れてひっそりと養育させていたのですが、やがて幸松は元服して正之と名乗るようになり、正光が他界すると家督を継ぎました。
この正之は異母兄である3代将軍・家光に非常に気に入られており、やがて出羽国(今の山形県)に転封になりました。
代わって、出羽国からは鳥居忠春がやってきますが、鳥居氏はいろいろと問題を起こして改易になり、その後は内藤清枚が入りました。

この頃、江戸城の大奥では一つの事件が起きました。
7代将軍・家継の生母・月光院に仕えていた大年寄りの江島が、月光院の代参として多くの女中をつれ6代将軍・家宣の墓参りに行った帰りに芝居小屋により、門限を過ぎてから城に帰ったのですが、これが大奥の風紀を乱したということで大きな問題になりました。
これには大奥内での派閥争いも絡んでいたと言われますが、江島は俳優・生島新五郎と密通していたという疑いもかけられて、高遠藩に流罪ということになりました。
高遠藩に流された江島は囲み屋敷に生涯幽閉され続けました。
世に言う、「江島生島事件」です。
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幕末になると、頼寧という博学多彩な人物が内藤氏6代藩主となり、藩政改革を推し進め、文武・産業の発展に寄与しました。
その息子、7代・頼直は、父の遺志を継いで藩校・進徳館を設立しました。
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明治時代になると、高遠城は廃城となり、建物も破却されて荒れ地となりますが、それを憂慮した旧高遠藩士たちが城内に桜の木を植えだしました。
そのおかげで、現在は桜の名所として知られるようになりました。
本丸には太鼓櫓も再建され、高遠城址公園となっています。
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隣にある高遠町歴史博物館に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り54城

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20番 佐倉城(千葉県) [日本100名城めぐり]

戦国時代、千葉親胤が大叔父の鹿島幹胤に命じて印旛沼のほとりに築城を開始しました。
しかし築城中に相模国(今の神奈川県)の北条氏康の侵攻を受け、親胤は幽閉された上に暗殺されてしまいました。
親胤の従弟の邦胤の代にも築城が試みられましたが、ある新年の祝賀の際、近習の桑田万五郎がおならをしたのを咎めたところ、万五郎が開き直ったので口論となり、その恨みがもとで後日万五郎に刺殺されてしまいました。
そういう訳でまたも築城が止まってしまったのですが、江戸時代に入り、徳川家康の命を受けた土井利勝によりようやく佐倉城が完成しました。
その後は、幕府の要職に就くものが城主を務めるという慣習になりました。

佐倉城には石垣が一切なく、代用天守として建てられた御三階櫓も土塁の上に建てられていました。
しかし、その御三階櫓も文化年間に焼失してしまいました。
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明治時代になってからは建造物がすべて撤去され、帝国陸軍歩兵第2連隊が駐屯することになりました。
その遺構も一部に残っています。
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戦後は市の史跡に制定され佐倉城址公園となっており、昭和58年に公園の一角に国立歴史民俗博物館が建造されたのを機に、馬出し空堀などが復元されました。
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公園の管理センターに100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り55城

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22番 八王子城(東京都) [日本100名城めぐり]

平安時代、華厳菩薩妙行が武蔵国の深沢山で修行中に、牛頭天王と八人の王子が現れたということで、ここに八王子神社が築かれました。
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戦国時代に、北条氏照がこの八王子神社のあるところに山城を築き、八王子城と名付けました。
神社の裏手に本丸がありますが、狭いためあまり大きな建造物はなかったと考えられています。
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やがて桃山時代に、豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして後北条氏を攻めます。
このとき、小田原城の支城であった八王子城は上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの軍勢に攻められ、多勢に無勢で一日で落城してしまいました。
このときに、城内の将兵や女子供がこの滝に自刃して身を投げ、三日三晩赤く染まり続けたと言われています。
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後北条氏滅亡後、関東は徳川家康の支配するところになり、八王子城は廃城となりました。

時代は下って昭和時代になると少しずつ八王子城跡の発掘・整備が行われるようになり、また観光客も訪れるようになりました。
八王子城跡管理棟に100名城のスタンプがあります。

100名城制覇まで残り56城

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